触るな危険、でも幸運――“麗奈ちゃん号”が上尾最強の願掛けスポットになるまで
上尾の住宅街を今日ものそのそ走る「麗奈ちゃん号」は、とうにパン屋の移動販売車の枠を踏み越えていた。
主力商品の麗奈パン、麗奈ちゃんまくらカバー、船橋産の朝どれいちごに加えて、歯磨き粉、亀の子たわし、百円ライター、時には鍋の取っ手の修理、杖先ゴムの交換、包丁研ぎまでこなす。最近では簡易背景布と折りたたみ椅子を積み、移動写真館まで始めた。運転しているベーカリー中村の店主・中村修は、もはやパン屋というより“地域の困りごとをだいたい引き受ける人”である。
そんな修のもとに、ある日、とんでもない追い風が吹いた。
FMさいたまで麗奈が準レギュラー出演している番組に、郊外の集落の高齢者から手紙が届いたのだ。
便せんには、達筆だがところどころ勢いのある字でこう書かれていた。
――麗奈ちゃん号が来るようになって、麗奈パンはおいしいし、船橋産の朝どれいちごはおいしいし、包丁は研いでくれるし、生活が楽しくなりました。修さんは親切で、来るのが毎週楽しみです。――
スタジオでその手紙を読んだ麗奈は、少し照れくさそうに笑った。
「いやあ、ありがたいですねえ。麗奈ちゃん号は、もうパンだけじゃなくて、幸運も運ぶ車なんですよ。ぜひ皆さん、見かけたら応援してくださいね」
この何気ない一言が、すべての始まりだった。
上尾という土地は、妙な話を妙に素直に信じる。
しかも今回は、麗奈本人がラジオで言った。
これは強い。
翌週から、麗奈ちゃん号にはおかしな客が増えた。
「修さん、うちの孫、受験なんだけど、麗奈パン二つください」
「ついでに願掛けにもなりますかねえ」
「この前いちご買ったら、病院の検査が思ったより良くてねえ」
「やっぱり幸運の車なんだよ」
修は苦笑いするしかなかった。
「いやあ、うちはパン屋なんだけどなあ……」
だが、縁起物として売れるなら売れないよりはいい。修もそこはあまり否定しなかった。
問題は、その先だった。
誰が言い出したのか分からない。
だが、ある日を境に、こんな都市伝説が広まり始めた。
「走ってる麗奈ちゃん号の、側面の麗奈の似顔絵に触れると恋愛が成就する」
意味は分からない。
根拠はもっと分からない。
だが、妙に広まる時は、こういうものほど広まる。
特に食いついたのは中高生だった。
「マジで?」
「触ったら告白成功するらしい」
「じゃあ放課後待ち伏せしようぜ」
そして、修が住宅街を走っていると、やたらと寄ってくる。
信号待ちのたびにじりじりと近づく。
中には、走行中の車体の横へ手を伸ばそうとする無茶な連中まで現れた。
「危ない危ない危ない!」と修。
「何してるの君たち!」
「触るだけなんで!」
「触るだけでも危ないんだよ!」
麗奈ちゃん号はただでさえボロい。
そこへ中高生が願掛けで群がる。
もはや縁起物ではなく、普通に危険だった。
修は本気で困った。
商売どころではない。
下手したら事故になる。
この話が麗奈の耳に入ると、さすがに彼女も顔色を変えた。
「それ、完全にダメなやつじゃないですか」
FMさいたまの番組スタッフも青くなる。
前にも、軽率な発言で変な方向へ話が転がったことがある。学習したはずだが、足りなかった。
そこで麗奈は、番組で改めて真顔で言った。
「えー、最近、走行中の麗奈ちゃん号に触ると恋愛成就する、という都市伝説があるそうですが、あれは違います」
一拍置いて、さらに言い切る。
「走行中の麗奈ちゃん号に触ると、反対に失恋します。カップルは別れます。なので絶対にやめましょう」
スタジオが静まった。
パーソナリティが思わず言う。
「急に逆方向へ振りましたね」
「安全第一なので」
「ひどい風評対策ですね」
「でも触ろうとしたら危ないですから」
この“逆願掛け説”は、なぜか最初の都市伝説以上に効いた。
「え、失恋するの?」
「カップル別れるのはきつい」
「やめとこ……」
中高生たちは妙に素直だった。
恋愛成就は半信半疑でも、失恋の呪いは嫌らしい。
こうして騒ぎは急速にしぼんでいった。
後日、修は大宮ふとん店の前でため息をついた。
「いやあ……助かったよ」
「最初から“幸運も運ぶ車”とか言うからですよ」と麗奈。
「でもいい感じの話だったじゃない」
「途中まではね!」
修は少し笑った。
「まあでも、ほんとに手紙はうれしかったんだよな」
「それは分かります」
実際、集落の人たちにとって麗奈ちゃん号は、ただのボロい軽ワゴンではなくなっていた。パンもいちごも売る。包丁も研ぐ。写真も撮る。来ると少し暮らしが楽しくなる。そういう意味では、たしかに幸運を運んでいたのだ。
ただし、走行中に触ってはいけない。
そこだけは強く学ばれた。
その夜の寄合で、クロじいが短く鳴いた。
「にゃあ」
麗奈の母が通訳する。
「“幸運は運ぶが、車体に触って得るものではないにゃ”だって」
修は深くうなずいた。
「それだなあ……」
麗奈もため息をつきながら笑った。
「結局、最後にいちばんまともなの、また猫なんですよね」
上尾の街を、今日ものそのそ麗奈ちゃん号は走っていく。
パンといちごと、ちょっとした幸運を積みながら。
ただし触るなら、停車中だけである。




