受け入れるということ
三回目の批評会では、玲華と葵はこれからの方針を二人に伝えた。具体的には、葵の案を採用してミラがロラを発見した段階でロラは亡くなっており、姉への後悔を抱えながらフェリスと結婚する方向になったことを説明した。
「あなたたちがそれで良いと思うのなら、私がとやかく言う資格はないわ」
口ではそう言った由紀だったが、片方の眉を下げてどこか難しい顔をしていた。かな子はその様子を横目に見ながら、浮かない顔をしていた。
雨の多い季節になり、制服の袖も短くなり始めた頃、四回目の批評会が始まった。由紀の方は順調に進んでおり、かな子もまた由紀の指導を受けているらしく、別段行き詰まっているわけではないようだった。
「次の批評会で第五回目ね。それが終わったらテスト休みに入ります。第六回目がちょうどテスト最終日に当たるのだけれど、テスト休みの間は勉強に集中してほしいから、六回目は演劇部の皆さんと読み合わせをしようと思っているわ」
「それってつまり、劇の脚本は二週間後までに完成させろってこと?」
「そうなるわ。進捗はどう?」
「特に問題はないです。びっくりするくらい。普通締め切り前ってもっと修羅場かと思ってました」
「まあ、文集の完成が近づいてきたらそれこそ修羅場にはなるかもしれないわね。私もかな子さんも、プロットが出来上がっただけでまだ本文を執筆しているわけではないし」
「次回からはいよいよ本文の提出ですよね。書けるかな……」
「大丈夫よかな子さん。私がついてるもの」
「ありがとうございます由紀先輩」
そうしてかな子は手を胸の前で組んで敬虔なポーズをした。
「……なんかあの二人、私たちが見ない間に仲良くなってない?」
「ですよね……いつの間に……まあでも——」
二人には聞こえないように口元を手で隠してこそこそ話していた。すると葵がいたずらっぽく笑って玲華に顔を近づけてきた。
「わたしたちの方が、仲良くないですか?」
「そこ、聞こえてるわよ」
「だってさ、葵さん」
「ちぇー」
拗ねる葵を見て皆が笑う。こうして楽しく活動できる時間が、とても貴重で楽しいものだと玲華は感じていた。心のシャッターを切って、皆の笑顔を保存する。ついでに自身の感情とコメントも添えて、玲華は心のアルバムを満たしていった。
「早いけれど今日は終わりましょうか。雨降ってるから諸々気をつけて帰ってね」
「はい! それなんですけど……」
かな子が鞄から財布を取り出し、一枚の紙切れを握ってひらひらさせた。
「実はドーナツ屋さんのクーポンをいただいたので、これからみんなで行きませんか?」
そこは有名なチェーン店で、差し入れに持っていくと皆が喜ぶような人気店でもある。かな子の持っているクーポン券には、「十個で千円」の文字が刻まれていた。
「今から食べたら夕飯が入らなくならない?」
「大丈夫だよ、葵。私たち若いんだし。玲華先輩はどうします?」
「行く」
「二つ返事でよろしい。由紀先輩は?」
「甘いものは別腹よ」
「さすが由紀先輩、わかってますね」
これで葵以外の全員が了承の返事をしたことになった。
「さあどうする葵ちゃん」
「ちゃん呼びはやめて。わたしも行くから」
そうこなくっちゃ、とかな子が嬉しそうに跳ねる。クーポン券を財布に入れ直して、鞄を背負って真っ先に駆け出した。
「かな子さんってあんな性格だったっけ……」
「初対面だと落ち着いて見えますけど、結構年相応なところはありますよ」
「……年相応というか、少し幼いんじゃないかしら」
ますますあの日のかな子が、玲華には恐ろしく見えた。二人きりの部室で愛花のことを教えてもらったあの時の強かさが、この少女に内包しているかと思うと体が震えた。
「どうしたの、玲華。寒い?」
「ううん、大丈夫。気にしないで」
玲華は鞄を取り、先に出ようとしていた由紀に続いた。
「かな子、傘忘れてるよ」
「ほんとだ、ありがと葵」
後輩組が先頭を歩く。雨はそこまで激しくなく、傘を差さなくても気にならない程度の雨量だった。街路樹の下を通る時だけ、葉に溜まった雨水が滴って玲華たちを襲う。それさえ避ければ、ほとんど傘はいらなかった。
「でも四人で十個ってことは、三個の人が二人と二個の人が二人ってことですよね」
「私は二個でいいわ。かな子さんにあげる」
「いいんですか由紀先輩。あとで欲しいって言ってもダメですよ?」
「……失礼な後輩ね。足りなかったら自分で買うわ」
「玲華さん、三個食べていいですよ」
「え、遠慮しなくていいよ葵さん。葵さんが食べて」
「今ダイエット中なので」
「嘘つき。この前も夕飯の後にお菓子食べてたじゃん」
「あ、あれは……その……」
二人でドーナツの押しつけ合いをするのを横目に、由紀とかな子は目を合わせて笑った。
「二人とも、少しずつ仲良くなれているみたいで良かったですね」
かな子が振り返って由紀の方を向き、二人に聞こえないように声を抑えて話し始めた。
「ええ、そうね。最初は二人が姉妹になると聞いてびっくりしたけど」
その発言の裏で、由紀は別のことを考えていた。あれだけ葵との関係性に悩んでいた玲華が、奇妙なほど葵と仲良くなっている。玲華は確かに「怖い」と言った。葵を受け入れることで、自分の中の蘭という存在が薄れてしまうのではないかと。それなのに今の玲華は、そんなことを微塵も思わせない態度で葵に接している。むしろ由紀の目に映る今の玲華は、蘭を忘れているようにさえ見えた。
「着きましたよ。由紀先輩、難しい顔してどうしたんですか?」
「なんでもないわ」
「あ、わかった。やっぱり三個食べたくなったんでしょ」
「違うったら」
金曜日の夕方なこともあってか、満席とはいかないまでも八割方席は埋まっており、学生で賑わっていた。
「それで、そっちは結局どちらが三個食べることにしたの?」
玲華と葵は目を合わせた後、バツが悪そうな顔をして葵が小さく手を挙げた。
席に着くなり、かな子が皆の食べたいものをメモしていく。クーポンを使うなら、一度にまとめて会計をしなければならない。なので言い出しっぺでクーポン所有者のかな子がその役を引き受けることになった。
「先輩方はテストに自信ありますか?」
会計を終えたドーナツはきちんと四人分の皿にそれぞれ分けられていた。かな子が店員に指示をしたのだろうか。四人分のお冷とドーナツをお盆に乗せてかな子が席に着く。
「自信か……でも勉強はちゃんとやってるつもりだよ」
「つもりどころじゃないでしょう。この子、入学してからずっと一番なのよ」
「私は由紀に負けたくないから必死にやってるだけだもん」
「そんなこと言って、一度も勝たせてくれたことないじゃない」
「え、じゃあお二人がツートップってことですか?」
葵が丸い目をさらに丸くして質問を重ねる。ドーナツを食べる手を止めて、何故かかな子が葵の質問に答えた。
「葵、知らなかったの? 槇玲華と中川由紀と言えば学年一、二位を争う才色兼備だって」
「下級生にまでそんな話が流れてるのね……」
「別にそんなんじゃないのにね、私たち」
「でも二人ともモテるじゃないですか」
「私はそんなに告白されたことないよ。由紀は違うけど」
「私だって別にそんなにないわよ」
「お二人は誰かと付き合ったりしないんですか?」
かな子の質問に、二人は沈黙した。一瞬空気が変わる。周りの喧騒が四人掛けのテーブル席で反響しているようだった。
「……私には愛さなきゃいけない人がいるから」
目を伏せて玲華が答える。それを横で聞いていた由紀は、今すぐにでもそれが誰なのか問い詰めたくなった。恐らく後輩二人がいなければ今この場で問い質していただろう。由紀は波のように押し寄せる感情に一度蓋をして、自分の答えを伝えた。
「私には好きな人がいるから。その人を側で支えてあげたいって思っているわ」
きっとここまで言っても玲華は私の思いに気づかないだろう。由紀は揺れる瞳で玲華を見つめたが、玲華は目を伏せたままで由紀の方を向くことはなかった。
「……やっぱりそうなんだ」
一人だけかな子はすべて合点がいったような反応をした。誰にも聞こえないほど小さく呟いて、すぐに話題を元に戻す。
「でも葵だって中学の時はずっと一番だったもんね」
「そうなのね。葵さん賢そうだし」
「ずっとではないですよ。一年生の頃は一番じゃなかったですし」
「勉強教えてよ、葵」
「かな子はすぐ集中力切れて別のことしだすから嫌だ」
「だって葵がいると遊びたくなるんだもん」
「この期に及んで人のせいに……」
先ほどまでの静まり返ったような気まずい空気はもう無かった。四人はドーナツを食べ終え、それぞれ帰路に着いた。駅へ向かうかな子に別れを告げた後、由紀は本屋に寄ってから帰ると言って、玲華と葵に手を振った。
「美味しかったですね、ドーナツ。三個って結構重いなあ」
「私は二個で十分だったよ。かな子さんが追加でもう一個食べようとしてたのにはびっくりしたけど」
二人でお腹を擦りながら夕暮れの道を歩いていく。
「ほんとは色んな種類のドーナツ食べたかったな。でも皆でシェアすると物足りないもんね。丸々一つ食べてこそドーナツだもん」
「それじゃあ、わたしの分も味見してみます?」
「味見するってどう……」
葵が自分の下唇を人差し指で二回触れた。玲華は目を丸くした後、葵から視線を外した。
「さすがに外でするのはちょっと……」
「いいじゃないですか、別に」
「モラルってものがあるでしょ」
「じゃあ、家に帰ったらいいんですか?」
「……ダメではない、かな」
「でも家に着く頃にはもう口の中に味残ってないかもしれないですね~」
「もうすでに無いと思うけど」
「ちぇー」
「今日二回目の『ちぇー』だね」
ころころと二人は笑い合った。この幸せがいつまでも続いてほしいと願う気持ちが、少しずつ強くなっていく玲華だった。だが一方で、そう思う度に胸を針で刺されたような痛みを感じていた。まるで今この瞬間を、映画を鑑賞するように外から見つめている気分になる。そのスクリーンの向こうから聞こえる声に、玲華は気づかないフリをした。
「玲華さん、好きです」
真綿で首を締められるような、ほんの少し心地良くて息苦しい、そんな感覚。きっとこの胸が重いのは、今日食べたドーナツのせいだと自分に言い聞かせて、玲華は頭の中に立ち込めた霧が晴れるのを待った。
「うん、ありがとう」
「玲華さんは、わたしのこと好きですか?」
呼吸が止まった。流れる時間が、頬を伝う風が、すべて線を描いて玲華の目や肌に飛び込んでくる。
「ごめんなさい。やっぱり今は、その先を聞くのが怖いのでやめておきます」
葵が笑う。夕陽に当てられたその笑顔は、いつにも増して寂しげだった。
無事五回目の批評会も終わり、二人は無事に脚本を完成させた。テストは再来週の水曜日から三日間行われる。少し早いが、文芸部はテスト休みに入っていた。
「玲華さん、一緒に勉強しませんか?」
週明けの月曜日、玲華が教室から出るなり、先に待っていたであろう葵が声をかけてきた。
「じゃあ、私はこれで」
葵の横を由紀が通り抜けていく。葵が振り返ると、いつもの真っ直ぐな背中が少し寂しそうに見えた。
「ごめんなさい。もしかして由紀先輩とご一緒する予定でしたか?」
「ううん、由紀とは高校生になってから一緒に勉強したことないから大丈夫だと思う」
「そうなんですか? 意外です」
「中学の頃はお互い友人と呼べる友人がいなかったからずっと一緒だったけど、高校に入ってからは少しその輪が広がったからね。それに由紀とはライバル意識があるから、お互い手の内は明かさないって感じかな」
それより、と玲華は話を変える。
「どこでやる? 図書室とか?」
「普通に玲華さんの家で良くないですか? 母には連絡しておきますので」
「いいけど……教科書とか持って来てる?」
「全部教室にあるので大丈夫ですよ。その日勉強するものだけ持って帰ればいいので」
「じゃあ今日は葵さんの苦手科目からやろうか」
冗談半分で言った言葉に、葵はきょとんとした顔を見せた。
「苦手科目は今の所無いですけど……」
「……さすが、才女は違うね」
「玲華さんがそれ言います?」
「褒めても何も出ないよ」
「その言葉、そのままお返しします」
学校を出て家までの道を並んで歩く。季節柄まだ雨は続いており、カタツムリがコンクリートの上を徐に進んでいた。
「カタツムリはコンクリート食べてるって話、本当かな?」
「ああ、あれって結局コンクリート自体を食べてるんじゃなくて、その上に生えてる藻類を食べてるらしいですよ」
そんな他愛のない話をしながら二人は歩いていく。以前感じたような沈黙の気まずさが無くなっているのは、それだけ二人の距離が縮まったのか、それとも雨音がそれをかき消しているのか、玲華には判断がつかなかった。それでも玲華は、今この瞬間に居心地の悪さを感じてはいない。
「葵さん、わからないところがあったら聞いていいからね」
家に着いて部屋で教科書を広げるなり、玲華は葵に優しく言葉をかけた。
「ありがとうございます。学年一の才女に教えてもらえるなんて、わたしは幸せ者ですね」
しかしその言葉を最後に、二人は二時間会話をしなかった。
「……葵さん、わからないところとか無いの?」
「無いですね。まあ高一のこの時期の数学なんてまだ中学生の内容に毛が生えたくらいでしょうし」
葵の集中力には目を見張るものがあった。きっと彼女は、目の前に座っている玲華のことを微塵も気に留めていないのだろう。
実際、玲華がそわそわと落ち着きのない様子を見せても、葵が勉強の手を休めることは一切ない。時々水の入ったコップに口をつける以外は、ずっとペンを走らせていた。
「あ、葵さん……そろそろ休憩しない……?」
言われて葵は時計を見る。勉強を始めてから三時間が経過していた。
「ごめんなさい、もうこんな時間でしたか。休憩しましょう」
玲華に言われて初めて葵は伸びをした。ここまで三時間、葵はよそ見をすることも自分から声を出すことも無かった。
「すごい集中力だね、葵さん……」
「そうですね、姉に鍛えられたので」
その言葉を聞いた瞬間、玲華は心に冷たい風が吹いた気がした。冷えた心臓が血液を送り出すために激しく動き始める。
玲華には妹がいて、葵には姉がいた。そんな単純な事実が、玲華の胸を突き刺した。頬が硬直し、歯と歯が重なる。硬直する際に頬が上がって、視界が少しだけ狭まった。得体の知れないこの感情の在り処を、玲華は胸を押さえながら考えていた。
すると、肌に冷たい感触が走った。葵の手が玲華の頬に触れる。
「大丈夫ですよ、そんな顔しなくても。玲華さんの妹はわたしだけですから。わたしの姉も、玲華さんだけですから」
床に手を付いて葵が迫ってくる。ゆっくりと顔を近づけると、葵はそのまま玲華の唇を奪った。息が止まってしまったように長い時間の流れを感じる。それなのに苦しくなく、むしろ安心感のような暖かさが玲華の胸に広がっていた。
「落ち着きましたか?」
「……そんなに酷い顔してた?」
「はい。何を考えているのかわかるくらい」
玲華は胸を擦ってみた。もう先ほどの苦しさは無くなっていた。
「可笑しいよね。お互い姉妹がいたなんてそんな単純なこと忘れるなんて」
玲華には蘭がいて、葵には愛花がいた。ただそれだけのことを、玲華は今の今まで忘れていた。いや、考えないようにしていた。
「いいんじゃないですか、別に。可笑しくても、忘れてても。そういう矛盾ばっかり抱えた歪な関係も、悪くないと思います」
葵の手が玲華の顎に触れた。夕陽に照らされた葵の顔は、反対側に影が落ちていた。
「共犯だね、葵さん」
「いつかのわたしのセリフじゃないですか、それ」
葵が微笑む。その笑顔に、どこか影を感じてしまう。それが夕陽のせいなのか、別の理由なのかはわからなかった。頭がぼーっとする。覚めない夢を見ているようだ。
「葵さん、そろそろ帰らないと。暗くなったら危ないよ」
「実はテストが終わるまで泊まることにしました。自分の家に帰るよりここから通った方が近いので。だから明日も明後日も、一緒に帰って一緒に勉強しましょう」
「いいけど、葵さんはわたしと勉強する必要があるの?」
「ありますよ。少しでも長く一緒にいたいので」
それからテストまでの十日ほどの期間、二人は毎日一緒に帰り、勉強をした。初めこそ葵の集中力に圧倒された玲華だったが、それ以降は気にならず自分のペースで勉強ができた。葵は一切声を出さなかったが、それがかえって心地良かった。目の前に誰かがいる安心感を覚えながら、玲華はどこか懐かしさを感じていた。
「今日でこの勉強会も終わりだね」
テスト前夜、二人は早めに勉強会を切り上げ、リビングでテレビを見ていた。
「テスト期間中は勉強しないんですか?」
「私はしないかな。普段やってるからテストの疲れを癒やすためにゆっくりするよ。勉強するならがんばってね、葵さん」
「じゃあ明日はわたしもゆっくりしようかな。久々に気分転換したいですし」
「テスト期間中は午前中で終わるからね。わたしは家で休む予定」
「わたしもご一緒していいですか?」
「いいけど……多分つまらないと思うよ?」
「いいんです、一緒にいることに意味があるんですから」
一度だけ玲華は瞬きをした。葵の横顔を盗み見る。その瞳は煌々と輝いていた。
「そんなに私のこと好きなの?」
「なんですかそれ。由紀先輩の傲慢さが伝染ったみたい」
「今頃由紀はくしゃみしてるかもね」
そうして二人笑い合う。愛しい私の妹だ。妹——。
玲華の瞳が大きく開く。ずっと忘れていた、いや意図的に考えないようにしていたことが見え隠れする。まただ。スクリーンの向こう側から聞こえる声が、玲華の耳を劈いてしまいそうだった。
「玲華さん? どうかしましたか?」
葵の声で玲華は現実に引き戻される。しかし、ここが現実なのかスクリーンの外なのか最早玲華には判断がつかなかった。
「ちょっと疲れたみたい。今日は休むね、おやすみ」
玲華は葵に背を向けて自室に向かった。それを見つめる葵の目は、もう先ほどのように輝いてはいなかった。




