信号は青に変わる
「テストお疲れさま。提出してくれた脚本、読んだよ」
玲華たち四人が多目的教室に入ると、菫が近づいてきて声をかけてくれた。
「前半部分の演出は大方決まって稽古はしてるから、今日は書き足されたシーンを軽く読み合わせしようかなと思ってる」
部員の準備ができたところで、前回のように菫が手を叩く。それを皮切りに、セリフが読み上げられていった。
『お姉さま! お姉さま!』
ロラを揺すっても反応がない。程なくしてエマが買い物から戻り、悲痛な声を上げてロラに走り寄った。
『お嬢様! すぐに医者を呼んできます! あなたはお嬢様をベッドに!』
フェリスとミラが協力してロラをベッドに寝かせる。ミラは肩を震わせてロラの手を握った。
『お姉さま……お願い、どうか……!』
まもなくエマが医者を連れてやってきたが、状態を確認すると、首を横に振った。ミラはその場に泣き崩れた。
『お姉さま、そちらでの生活はいかがでしょうか。わたしは元気です。お姉さまは直接会えなかったけれど、フェリスという男性と結婚しました。家を出て失ったものは大きかったけれど、大切なものを手に入れることができました。お姉さま、本当にありがとう。空から見守っていてください。また手紙を書きますね』
あれからしばらくして、ミラは亡くなったロラに毎月手紙を書くようになった。
『お姉さんに手紙かい?』
『ええ、そうよ。向こうでも寂しくならないように』
『寂しいのは……いや、なんでもない』
そしてフェリスは、ミラを幸せにする決意を改めてしたのだった。
菫がもう一度手を叩く。緊張感のあった場の空気が、一気に現実に引き戻された。
「追記箇所も少ないし、これなら文化祭まで余裕を持って稽古できそうだね。でも……」
そう言って菫は玲華と葵に視線を向ける。
「いや、なんでもない。今日はお疲れさま。また暇な時にでも、稽古覗きに来てよ」
玲華たちは部室に戻った。校舎から部室へ向かう途中に浴びた陽の光が、本格的な夏がもうすぐそこに迫っていることを告げていた。
「今日は特にやることもないのだけれど……このまま解散する?」
空の青さと比較しても、玲華たちの心はどこか晴れやかではなかった。各々が言いたいことを抱えて微妙な空気を生み出しているようにも見える。
「……私は少し作業していくよ。みんなはどうする?」
「私は……今日は帰ります」
「私も今日は休むわ。テスト明けだし」
「葵さんは?」
葵は口を結んで考え事をしているようだった。玲華が一度声をかけたが返事はなく、かな子がもう一度葵の名前を呼ぶと、ようやく顔を上げた。
「わたしも残ります。少し考え事をしたいので」
「そう……それじゃあ鍵、置いておくから。戸締まりと返却忘れずにね」
かな子と由紀に手を振る。建て付けの悪い扉が音を立てて閉められた。二人きりの部室で、静寂が二人を包み込む。
「……ねえ、葵さん」
静寂を破る玲華の声は些か細かったが、この広さでは十分な音量だった。
「脚本の結末なんだけど、やっぱり——」
「変えません」
隣に座る葵が、はっきりとした声で玲華にそう告げた。
「変えたくありません……それなのに」
葵は俯いて手を組んだ。先ほどのような凛とした姿はもう無かった。
「どうして皆さん、そんな微妙な顔をするんですか? わたしは姉に認められたいだけなのに、これじゃあまるでわたし一人だけがこの物語を捻じ曲げているようじゃないですか……」
玲華は組まれた葵の手に自分の手を重ねた。葵の手はいつも冷たい。少し体温が高い玲華には、それが心地良かった。二人の体温が混ざって程良くなった熱をお互いの手に移していく。そうしていると、葵が心に纏った氷の鎧を氷解させることができるのではないかと期待してしまう。
「玲華さんは、今の結末のままでいいって言ってくれますよね? 妹であるわたしを肯定してくれますよね?」
揺れる葵の瞳が玲華の視線と交錯する。葵はゆっくりと目を閉じた。玲華は葵のその様子を確認してから、葵の顎を人差し指と親指で掴んでゆっくりと顔を近づける。
「大丈夫だよ、葵さん。大丈夫……私は葵さんのことが好きだから。それが葵さんの望みなら、私が叶えてあげるよ」
そして二人は唇を重ねた。お互いの鼓動だけが鼓膜に響く。周りの音は何も聞こえないはずだった。
「ごめんなさい、眼鏡ケースを忘れたのだけれ、ど——」
何かが地面に落ちる音がした。二人が音のする方を見ると、そこには鞄を落として硬直した由紀の姿があった。由紀は目を見開いたまま後ずさりをし、そのまま走りだした。
「待って、由紀!」
玲華は校舎へ向かって走り出した由紀の後を追って駆け出した。心臓が悲鳴を上げる。鼓動が速くなっていく。それでも玲華は足を止めずに走った。由紀は玲華から逃げるように階段を上がっていく。心臓が破れそうだった。
どうして由紀は逃げるのだろう。その理由に心当たりはない。でも私たちを見た由紀は、まるで深淵に一人取り残された少女のように絶望と悲痛に満ちた表情をしていた。こんなに空は晴れているのに、由紀の心にはその光が届いていないように見えた。そんな顔をさせた原因が私なら、今由紀を追いかける理由はそれで十分だろう。
これ以上の階は存在しない。玲華は四階まで上がってきた。辺りを見回しても由紀の姿はない。玲華は走るのを止めて、四階を一周することにした。叫び声を上げていた心臓はまだ跳ねてはいるが、幾分か落ち着いてきており、先ほどよりも思考にリソースを割けるようになっていた。
肩で息をしながら、玲華は廊下から教室の中を一つずつ覗いていく。中で授業や部活動をしている所には入らないだろうから、空き教室だけ確認すれば良い。そうやって確認しているうちに、四階の広場に繋がる扉に到達した。とすると、由紀がいるのはこの扉の向こうだ。玲華は二回、深く息を吐いて扉を開けた。
吹奏楽部の金管楽器の音が玲華の耳を劈く。目には太陽の光が入ってきて、視界が白くぼやけた。手で庇を作って光を遮ると、目の前の壁に座って寄りかかっている女生徒を玲華は見つけた。その少女は足を抱えてそこに顔を埋めていた。
「……由紀」
声をかけるが反応はない。玲華は足を一歩踏み出し、もう一度声をかけようとした。
「由紀——」
「来ないで」
その言葉に、玲華の体が硬直する。一歩踏み出した足を引っ込めた。
「……どうせ私がここで泣いている理由もわからないんでしょう?」
「……ごめん」
「いいわよ、別に。あなたはいつもそうだもの。わかるまでそこで考えてなさい」
二人の間に沈黙が降りる。時々由紀が鼻をすする音が聞こえて、申し訳なさが玲華の心を蝕んでいった。だが、長い沈黙に先に堪えられなくなったのは由紀の方だった。
「どうして何も言わないの?」
「だってわかるまで考えろって言われたから……」
「……本当にあなたのそういうところよ」
由紀は顔を上げて大きくため息を吐いた。目は充血していて赤く腫れていた。瞼の周りが濡れている。
「ねえ、玲華。どうして葵さんとキスしてたの?」
「……わからない。求められたから、かな」
「じゃあ、ここで私がキスしてって言ったらしてくれる?」
由紀が下唇に人差し指を当てる。由紀の瞳が輝いて見えるのは、涙のせいなのかそれとも玲華を想う気持ちから来るものなのかわからなかった。
「由紀は私のことが好きなの?」
「好きだと言ったら?」
玲華は顎に手を当てて思案した。由紀とのキスを想像してみる。だが、目を閉じて由紀に顔を近づけようとしたところで頭が真っ白になった。心がそれ以上の思考を禁じているようで、玲華は思わず眉を顰めた。
「それがあなたの答えよ、玲華」
「……どういう意味?」
「わからないの? あなたは葵さんのことが好きなのよ」
玲華は目を丸くした。驚きで口も半開きになる。
「自分の好きな人は蘭さんだけだと思った? 違うわ、あなたはもう葵さんを受け入れて前に進もうとしている」
「それは葵さんが蘭に似ているからで——」
「違う。それはもうあなた自身がよくわかっているはずよ」
玲華は葵を幸せにすると決めたあの日から、蘭を手放した。それからはずっと、葵のことだけを考えて受け入れてきた。そこに蘭は介在しない。
「……時々、変になるんだ。葵さんと過ごす自分を、まるでスクリーン越しに映画を見ているみたいに感じる時があって。私はそれをただ眺めている。するとスクリーンの向こう側から声がするんだ。そうなるといつも葵さんが私を現実に……スクリーンの中に戻してくれてた」
でも、と玲華は言葉を続ける。
「それが蘭の声だって気づいてしまった。スクリーンの向こう側から聞こえる声が、蘭の声だって。私は完全に蘭を手放すことなんてできないんだ。だから葵さんのことは好きじゃない、好きになってはいけない、それなのに」
玲華は俯いて言葉を絞り出すようにお腹に力を入れた。片方の奥歯に力が入って、顔が歪む。
「私は選べない。葵さんも、蘭も、どっちも大切な妹で、私の……特別なんだ」
由紀が立ち上がって一歩前に出る。玲華の手を取って、自分の頬にくっつけた。
「どちらも特別だと思うのなら、どちらも手放さなくていい。蘭さんとの思い出はこれ以上増えないけれど、葵さんとの思い出はこれからいくらでも増やしていけるわ。そこに順位も何もないのよ」
玲華の瞳から滴が零れ落ちた。由紀に握られていない方の手首で涙を拭う。しかし、拭っても拭っても涙は玲華の瞳から溢れ続けた。
「私はあなたのことが好きよ、玲華」
「従姉妹のお姉さんが好きなんじゃなかったの?」
「言ったでしょ、フラれたって。でも夏向ちゃんのことは今でも大切に思っているわ。連絡を取らなくなっても、私は彼女の幸せを願っている」
だからね、と由紀は笑顔を作った。由紀の瞳からも一筋の線が頬を伝っている。
「あなたも蘭さんのことを胸に仕舞ったまま、葵さんを愛したっていいのよ。むしろ今の彼女を幸せにできるのは、きっとあなたしかいないはず」
「それはさすがに傲慢じゃないかな」
「いいじゃない、傲慢で。自分の人生なんだもん。誰を救って、誰を支えて歩いていくかくらい自分の気持ちで選んだらいいわ」
そうして二人は優しく笑い合った。夏の太陽が二人を照らす。
「あーあ、今度こそあなたの特別になれると思ったのに」
「何言ってるの、由紀。由紀は私の一番の友人で、特別でしょ?」
「ええ、そうね。でもきちんと告白しておかないと性に合わないの」
由紀は握った玲華の手を両手で包み込み、とびきりの笑顔を見せてこう言った。
「好きよ、玲華」
「うん、ありがとう由紀。これからも一番の友人でいてね」
「……ええ。喜んで」
青空の下で笑い合う二人に、もう涙はなかった。
「それで、結局由紀が泣いて走り出した理由はなんだったの?」
「……私に言わせる気なの? というか、本気でわからない?」
玲華が二回瞬きをする。それを見て、由紀は大きくため息を吐いた。
「一生考えてなさい、玲華のばか」
拗ねる由紀を見て、玲華はくすっと笑った。
「そんなことより、脚本はどうするの。あのまま行くつもり?」
由紀と玲華は階段を下りていく。きっと部室に戻ったら、葵が待っているだろう。
「ううん、変えるよ。由紀が私に気づかせてくれたように、私も葵さんを救ってみせる。たまにはハッピーエンドな現実でもいいよね」
「そうね、きっとそれが私やかな子さんの願いでもあるわ。まあ、私たちの現実はまだ終わらないけれど」
部室の入り口に無造作に置かれていた鞄は、すでに無くなっていた。扉を引いて中に入る。そこには机に伏している葵と、机の上に置かれた由紀の鞄があった。
「おかえりなさい。えっと、由紀先輩に説明を……」
「いいわよ気にしなくて。玲華と話したから」
葵は交互に二人を見て、そうですかと呟いた。
「じゃあ、私は邪魔にならないように帰るわ。元々忘れ物を取りに来ただけだし」
由紀は今度こそ眼鏡ケースを鞄に入れ、二人に手を振った。二人きりの静かな時間が膨張して気まずくなる前に、玲華は葵に声をかけた。
「ねえ、葵さん。ハッピーエンドのその先を見る覚悟はある?」
「……何ですか、唐突に」
「脚本の結末、変えちゃおう」
「嫌です」
葵はあからさまに嫌そうな顔をした。眉を顰めて玲華を睨みつける。
「玲華さんだって了承したじゃないですか。今の内容でいいって」
「葵さんは、愛花さんに認められたいんだよね? それならさ、もっと見たいと思わない? 愛花さんの書いた作品。あわよくば脚本の続きが残ってるかもしれないし」
葵の瞳孔が少しだけ開いた。
「方法があるんですか?」
「私に考えがあるの」
玲華は正面から葵の両肩を掴んだ。
「今から葵さんの家に行かない?」
そうして二人は部室の鍵を閉めて返却し、学校を後にした。いつもの交差点を真っ直ぐ進み、駅の方へ向かう。歩いている間も、電車に揺られている間も、二人は会話をしなかった。葵は不安と期待の入り混じった表情で俯いていた。
「着きました。ここです」
そこはどこにでもある普通のアパートだった。葵が鍵を差し込んで回す。解錠の音が鳴り、二人は中に入った。引っ越しが始まっているせいか、あちこちに段ボールがある。物は少なく、余白を感じる家だった。それはまるで逆説的に最近越して来たかのようにすっきりとしていた。
「愛花さんの部屋はどこ?」
「こっちです」
葵に促されて、玲華はすぐ左手にあるドアノブを回して愛花の部屋に入った。白い壁が一面に広がっている。引き出しやクローゼット、本棚などの大きな家具は残っているが、中はほとんど空っぽだった。
「姉の遺品整理ならわたしも手伝いましたし、作品の類は何も出てこないと思いますよ」
「でも、愛花さんの遺品の中で整理できなかったものもあるよね。例えばパソコンとか」
葵は大きく息を吐いて落胆するように肩を落とした。
「なんだそんなこと……パスワードがかかっていて開きませんよ、そのパソコン」
葵が指差しした方向に、一台のノートパソコンが置かれていた。画面は閉じられているが、電源は繋いである。パソコンを開くとログインを求められた。一昔前のモデルだが、きちんと動いているらしかった。
「じゃあ、一緒に解読しようか」
「一人でやってくださいよ……期待して損しました」
葵が部屋から出る。そのまま玲華を放置するように見えたが、二つのコップに水を入れて部屋に戻ってきた。
「もうほとんど槇家にいるのでここには最低限の物しかありませんが、どうぞ」
「ありがとう。うん、温いね」
「それはどうも。エアコンもつけるの面倒だし、窓開けるのでそれで凌いでください」
葵が窓を開けながら面倒そうに話す。玲華はまずパソコンに向かって四桁の数字を入力してみたが、すぐに弾かれた。四桁の数字以外は入力できないようになっているから、英字を含めた膨大な組み合わせから選ばずに済みそうだ。
「葵さん、今まで試したパスワードってどんなものだったか覚えてる?」
「そうですね……姉の誕生日とか?」
「葵さんの誕生日も入れてみたけどダメだった」
「それも試しましたよ。あと母の誕生日も」
「一応それも入れてみるから、全部教えてくれる?」
葵は鞄から紙を取り出し、葵と愛花と優香の誕生日を書き出した。玲華は書き出された三種類の四桁の数字をすべて入力してみたが、どれも弾かれた。するとパスワードを忘れた時のヒントをパソコンが教えてくれた。パスワードを紛失した時のために、愛花がパソコンから入力を求められたのだろう。そこには「愛する人たちの大切な日。それを分けるなんて神は残酷だね」というメッセージが遺されていた。
「ねえ、葵さん。これ何だと思う?」
「ああ、それ。わたしも昔開こうとした時に出てきたんですけどさっぱりで」
二人は顎に手を当てて思案し始めた。愛する人たちの大切な日と言われれば、誕生日か瀬乃家の記念日のような何かがある日だろう。それを分ける——。
「玲華さん、どうして急に姉のパソコンを開こうなんて思ったんですか?」
「愛花さんが亡くなる直前に言った言葉が気になっていて。『見て』って言ったんだよね?」
葵が首を縦に振ったのを確認して、玲華は話を続けた。
「もしかしたらそれが、最後に書いていた作品に何かメッセージを込めていた合図なんじゃないかって思って。葵さんに見てほしい物があったのかもしれないって。愛花さんが小説を書き始めたのって高校生になってから?」
「そうです。なので姉の作品はお借りした文集ですべて読みました。だから、未完の脚本があると聞いた時は驚いてしまって」
玲華は葵の話を聞きながら、紙に何かを書いている。走らせたペンを止めて、玲華はスマートフォンを取り出し何かを確認してから、パソコンに四桁の数字を打ち込んだ。
「開いた! 見て、葵さん」
そこには確かに、ログイン後のホーム画面が表示されていた。
「本当だ……どうやってわかったんですか?」
「三人の誕生日の数字を足して三で割ってみたの。そんなことよりこのフォルダ、愛花さんの作品が入ってそうじゃない?」
玲華がマウスを操作しながらフォルダを開いていく。そこには愛花が書き残したらしい作品が一覧で表示されていた。
「そうですね……どれも文集で見たタイトルです。あっ、これ一つだけタイトルついてない作品がありますよ」
息を呑む音が聞こえる。二人は目を合わせて頷いた。クリックするとワープロソフトが立ち上がり、ファイルが開いた。
「やっぱりそうだよ、葵さん。今回の劇の脚本だ……!」
一つしかない椅子を半分に分けて二人は座った。玲華が右半分に座り、マウスを握ってスクロールしていく。
「大まかな部分は変わらなそうだね。うん、セリフも大方残ってる」
玲華は不思議な高揚感で胸が踊っていた。どんな形であれ、一度自分の頭に落とし込んだ作品のちゃんとした終わりを見られるかもしれないと思うと、胸の高鳴りを隠せなかった。隣に座る葵を横目に見ると、葵も同じように目を見開いて画面に食い入るように齧りついていた。
「このシーン、なかったですよね? ロラが葛藤するシーン」
「ってことはつまり、この脚本は私たちがもらった物より新しい原稿の可能性があるってこと?」
頭から順番に読んでいくと、二人は後半にロラの葛藤が描かれているシーンが差し込まれていることに気がついた。そしてその後、倒れたロラをミラとフェリスが発見するシーンに移っていた。
「葵さん……」
玲華たちがもらった脚本はここで話が途切れていたが、画面の中には続きが書かれていた。二人は汗で貼り付いた前髪を気にしている余裕すらなかった。続きを読み上げていく。
『お姉さま、気分はどう?』
『ええ……平気よ……それよりミラ、久しぶりね。手紙、お返事できなくてごめんなさいね』
『いいのよ、むしろもっと早くに帰るべきだったわ』
『いい旅ができたようね、ミラ……』
『ええ、お姉さまのおかげでね。実はね、わたし結婚しようと思っているの。今日はその報告をしたくて。さあ、フェリス。お姉さまよ』
『初めまして、ロラさん。フェリスと申します』
『ごめんなさいね、こんな形でお会いすることになってしまって』
『いえ、お会いできて良かったです』
『ミラのこと、よろしくお願いしますね……』
『はい。僕の一生をかけて幸せにしてみせます』
『それを聞いて安心しました……ねえ、ミラ。あなたはもうお姉さま無しでも生きていけるでしょう?』
脚本は再びそこで途切れていた。二人の呼吸音だけが聞こえる。玲華は立ち上がってコップに入った水を飲み干した。喉の渇きと暑さが一気に押し寄せてきた。
「続きは……無いんですかね」
半分空いた席を葵がお尻を持ち上げて埋める。葵はしばらくパソコンを触っていたが、それ以降に更新された新しいファイルは見当たらなかったらしい。
葵が部屋の窓から身を乗り出す。夏の空は、手を伸ばしても届きそうにない。
「葵さん、今日は家に来るんだっけ?」
「そうです……そろそろ帰りましょうか」
玲華は、一度パソコンの電源を落として充電ケーブルと一緒に鞄に突っ込んだ。
「重くないですか? 持ちますよわたし」
「大丈夫、気にしないで」
葵さんはもう十分重そうな顔をしているから、とはさすがに言えなかった。今度こそ葵は、自分で答えを見つけなければならない。帰り道、葵は俯いて一言も喋らなかった。
電車を降りて玲華の家へ向かう。そこまで歩いて葵は今日瀬乃家を出てから初めて口を開いた。
「やっぱりわたしが間違っているんでしょうか。わたしも姉が亡くなる前にきちんと話せていたら、もっと前向きな感情を抱くことができたのでしょうか……」
葵は空を見上げた。茜色に染まった夏の積乱雲が、大きく膨らんでいた。
「続き、どうしたらいいのかな……」
「難しく考えなくていいと思うな。最後の質問に答えたらそれで」
「最後の質問って『お姉さま無しでも生きていけるでしょう?』ですか?」
玲華は頷いた。
「葵さんはどうなのかな。愛花さん無しでも生きていけると思う?」
「……以前の自分なら、首を横に振ると思います。でも今は、由紀先輩がいて、かな子がいて、そして玲華さんがいる」
そうして葵は力なくふにゃっと玲華に向けて笑った。
「わたしにも、ハッピーエンドを紡ぐことができるでしょうか」
「大丈夫だよ、私がついてるから」
玲華はそっと葵の手を取り、歩き出した。
「私だけじゃない。葵さんにはかな子さんも、由紀も、私の父も、優香さんもいる。怖がらなくていいよ、葵さん。いろんな人がちょっとずつ葵さんを支えてくれるから」
玲華は足を一歩踏み出して、振り返った。横から差す夕陽が眩しい。
「だから難しく考えず、葵さんなりの答えを紡いで。その答えを皆に聞かせてほしい」
「……はい」
葵が笑った。もうそこに影はない。夕陽に照らされて笑う彼女は、煌々としていて幸せそうだった。




