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旅路

「そう……それが葵さんの答えなのね」

 七月も半ばに入って、批評会も佳境を迎えていた。葵はセリフの書き足しや自分の思いを綴った脚本を玲華と二人で仕上げ、それを由紀とかな子に読ませていた。

「うん、いいと思うわ。こっちの方がしっくりくる」

「私も異論はないです。お疲れさま、葵」

 一方で、かな子と由紀は進捗が悪いらしく、二人とも頭を抱えていた。

「プロットを組んで書いたのに、いざ書き始めてみると全然違う方向に行くのはなぜでしょうね……」

「そういうものよ、かな子さん。私も自分の暴走が止められなくて困っているわ……」

「まあ、来週から夏休みですしそこでがんばります。そういえば夏休み中はどうするんですか?」

「もちろん二週間に一度集まって、これまで通り批評会をやるわ。提出まであと三回しかないけれど、頑張りましょうね」

 それからは皆で葵の誕生日をお祝いしたり、由紀とかな子の原稿を手伝ったりしていたら、あっという間に九月になった。

「無事全員間に合ったわね。本当にお疲れさま。祝勝会と行きたいけれど、それは文化祭が終わってからにしましょうか」

「この後はもう本が届くまで何もないんですか?」

「これから栞を作るわ。発行部数は五十だから、栞も同じ数用意します。あと、当日の売り子だけれど、劇の間だけは菫が売り子をしてくれるらしいわ」

「長谷川さん、引き受けてくれたんだ……ちょっと悪いことしたね」

「そうね。『自分は結末も知っているから四人で見に来てよ』って少し悔しそうにしながら言っていたわ。打ち上げ、彼女も呼びましょうか」

 それからは一ヶ月かけて栞を準備したり、当日の打ち合わせをしたりした。望都祭では入れ替わりで二人ずつ売り子をすることになった。

「それでは、第三十五回望都高校文化祭を開催いたします」

 季節は十月の頭を迎え、衣替えも調整期間に入った頃、遂に文化祭の始まりを告げるアナウンスが流れた。

「今日は頑張りましょう。二日で五十部売るわよ」

 それぞれが部活だけではなくクラスでの出し物もあるため、当日は思った以上に忙しい。文芸部の販売時間は十時から十六時となった。合間を縫って他のクラスや部活の出し物を見に行ったりする。

 化学の実験や映像を流しているクラス、出店をやるクラスやお化け屋敷など、ほぼお祭りと変わらない。体育館では午後から出し物や舞台をやるらしい。

「お疲れさま。みんな揃い?」

「長谷川さん、いらっしゃい。今日は本当に手伝ってくれてありがとう」

 菫ともう一人、演劇部の二年生が売り子を手伝ってくれるらしかった。

「それにしても部員じゃないのに許可されたんですね、売り子やるの」

「まあ五十嵐先生が手を回したんでしょう」

「そんなところだろうね。ああそうだ、脚本を引き受けてきちんと完成させてくれてありがとう。十四時から舞台が始まるから、期待してるといいよ。私がみっちり指導してあるから」

 爽やかな笑顔を向ける菫だったが、先ほどの発言と相まって恐怖の方が勝ってしまうような表情に見えてしまった。

「ほら、早く行かないと始まってしまうよ。席、前の方取ってあるから」

 菫に手を振って四人は体育館へと向かった。着く頃には開始十分前になっていた。玲華たちは一番前の関係者席を案内された。

「本当に一番前ですね……なんだか少し恥ずかしいです」

「次は、演劇部一年生による劇です。題目『君の旅路』。原作、瀬乃愛花。演出、早出光一。脚本、瀬乃葵、槇玲華」

 緞帳が上がる。遂に始まるのだ。少しの恥ずかしさと大きな期待を抱いて、四人は舞台に視線を向ける。

『お姉さま、体の具合はどう?』

『もう平気よ。心配かけたわね、ミラ』

『いいのよ。お姉さまはわたしがいないとダメダメなんだから。わたしはお姉さまが生きていてくれたらそれでいいわ』

『……そうね。ありがとう』

『じゃあ、わたしはお姉さまのために食事の用意をしてきます』

 ミラが舞台袖へ駆けていく。それを見送ってから、側にいたメイドがベッドに横たわる女性に声をかけた。

『ご気分はいかがですか、ロラ様』

『本当に今は平気よ。エマにも心配かけたわ。ありがとう』

『何のこれしき。わたくしの仕事ですから』

『そんなこと言って、お給料受け取らないくせに』

『あれはあなた方のお父様があなた方のために遺したお金です。お嬢様方が生活できるようにわたくしがすべて管理しておりますので』

『着服くらいしてもいいのよ?』

『御冗談を』

 エマとロラが笑い合う。だが、すぐにロラが激しく咳をした。

『ロラ様——』

『平気よ、エマ。少しむせただけだから』

『お姉さま、できたわ。食べられそう?』

『ええ、いただくわ。そうだわミラ。お誕生日おめでとう。もう十五になるわね』

『覚えていてくれたのねお姉さま。そうよ、わたしももう十五になったわ』

『それでね、ミラ。よく聞いてほしいの』

 ロラは真剣な表情でミラを見つめた。会場がしんと静まり返る。

『家を出なさい。旅をしてきなさい』

『お姉さま……? 急にどうしたの?』

『あなたも一度外の世界を体験した方が良いと思って。私ならエマがいるから』

『いやよ、わたしはずっとお姉さまと一緒に——』

『ここにお金を置いておきます。出発は明日の朝。今から準備を始めないと間に合わないわよ』

『お姉さま……』

 ミラはロラを見つめる。そこから固い決意を受け取ったのか、ミラは諦めるように息を吐いた。

『一つだけ、条件があります』

『言ってみなさい』

『月に二度、手紙を送ります。ですから体調の良い時に、必ずお返事ください』

『……わかったわ、約束します』

『エマ、お姉さまのこと頼みますね』

『お任せください、ミラ様。良き旅を』

 ミラが舞台から捌けていく。ロラは俯いて言葉を発した。

『……これでいいのよね、これで』

 そう言って舞台が暗転した。次に明かりが点いた時、舞台上はミラ一人になっていた。

『さて……このままだと渡されたお金が底を突きそうね』

『いらっしゃい嬢ちゃん。今日も泊まっていくかい?』

 体格のいい男性がミラに声をかけた。宿屋の主人だろう。

『実はもうそろそろお金が尽きそうで……ここで雇ってもらえないかしら?』

『急に何言い出すんだい……と言いたいところだが、実は人手が足りなくてな、好都合だ。とりあえず皿洗いやってくれるか?』

『お安い御用よ』

『次は注文取ってきてくれ』

『わかったわ』

『寝具の取り替えも頼む』

『ええ』

『レジ任せたぞ』

『はーい』

 ミラが忙しなくくるくると回っている。会場の空気が柔らかいものになり、少し笑いが起きた。

『人を何だと思っておりますの……』

『はい、お疲れさん』

『いつもありがとう、マスター。寝食用意してくれて本当に助かっているわ』

『俺はマスターなんて呼ばれるようなガラじゃねえけどな。まあいいか、ガハハ』

『そんなことより、何か話があって来たのではなくて?』

『ああ、そうなんだよ。実は俺の弟が隣町で宿屋をやるんだけどな、人が足りないらしい。しばらく向こうで働いてきちゃくれねえか?』

『わたしは構いませんけど……こちらの営業はどうしますの?』

『こっちはまあ落ち着きそうだから、気にすんな。猫の手でも借りるさ』

 軽やかな音楽が流れる。ミラがその場で足踏みをしている間に、背景とセットが変わった。

『わあ……これが海なのね……!』

 さざ波の音が聞こえる。ミラが靴を脱いではしゃぎ始めた。程なくして、舞台袖からハンチング帽を被った少年が出てくる。

『邪魔だ、どいてくれ』

『あらどうして?』

『僕は海の絵が描きたいんだ。人間は邪魔だからどいてくれ』

『わたしも一緒に描けばいいじゃない。ポーズなら任せて』

『……出直すか』

 少年が舞台から捌けようとする。ミラが少年の腕を掴んだ。

『待って、気分を害したなら謝るわ。ごめんなさい。実は海を見るのが初めてではしゃいじゃったの』

『君はどこから来たんだ?』

『少し遠い所よ』

 ミラが遠くを見つめる。沈黙する二人の間に、波の音が優しく流れた。

『そうか、なら夕陽が沈むのを見ていったらいい。きっと感動するよ』

『感動するよなんて言われたら感動が半減するじゃない』

 そうして二人は笑い合った。一頻り笑った後、少年がミラの目を見てこう言った。

『僕はフェリスだ。君は?』

『わたしはミラ。明日からあそこの宿屋で働くことになったの』

『そうかい。それなら——』

『わぁ……なにこれすごい! すごいわフェリス! 海って、夕焼けって、こんなに綺麗なのね!』

 フェリスは得意げに笑う。海に沈む太陽を見て、ミラは目を輝かせた。

『ごめんなさい。何か言いかけてたわね』

『いや、なんでもないさ』

『おーいフェリス。そちらのお嬢さんは?』

『明日からうちで働くらしい。おじさんの紹介だろうね』

『ああ、あんたがミラか! いらっしゃい、よろしくな』

 快活に笑う主人を見て、ミラは隣町の宿屋の主人を思い出したようだった。

『はい、よろしくお願いします』

『こんな可愛い子に手を出すなんて、お前も風上に置けないな』

『ちがっ……! そんなんじゃないよ』

『あの……お二人はどういうご関係で?』

『親子だ。こいつはうちの長男坊さ』

『あら、そうなんですの。よろしくねフェリス』

 そしてまた先ほどと同じ音楽が流れ、ミラとフェリスがくるくると回りだした。

『皿洗い』

『お安い御用よ』

『注文』

『わかったよ』

『寝具の取り替えも』

『ええ』

『レジ』

『『はーい』』

 二人の声が重なる。そして一瞬暗転した後、またさざ波の音が聞こえてきた。

『ミラはどうしてここに来たんだい?』

『あなたのおじさんからの紹介よ』

『じゃあ、そのおじさんとはどうやって知り合ったのさ』

『家を追い出されて。旅をしてきなさいってお姉さまに言われたの』

『お姉さんとは連絡は取っているのかい?』

『時々ね。手紙で近況報告しているわ。始めは月二回の約束だったのだけれど、だんだんお姉さまからの返事が遅くなって回数は減ってきたわ』

『愛されているんだな、ミラは』

『そうかしら。わたしはお姉さまと一緒にいられればよかったのに。案外疎ましくなったのかも』

『それなら、ここにいたらいい。君が帰りたいと思うその日まで』

『……ええ、そうね。ここにはフェリスも、おじさんも、お客さんもいてくれるから、毎日が楽しいわ。でもね、ここにいると大切な何かを忘れている気分になるの』

 フェリスは先ほどまで動かしていた手を止め、黙ってミラの話を聞いた。

『……ねえ、フェリス。わたし一度故郷に帰ろうと思っているのだけど……あなたもお姉さまに会ってくれないかしら?』

『いいよ。僕で良ければ』

 ミラはそれを聞いて、花が咲いたように笑った。

『いつ出発しようかしら! 明日? 明日でいいわよね?』

『そんなにすぐには出発できないよ。でも今からでも準備、始めようか』

『ええ、ぜひ!』

 二人は手を取り合い、歩き出した。舞台袖に捌けていく。

『ロラ様、お体の具合はいかがですか』

『今日はまだ気分がいいわ。外を歩きたいくらい』

『いけませんよ。先生に止められているでしょう』

『ええ、わかっているわ。それより、ミラは今どうしているかしらね。返事を書けていないこと、怒っているかしら』

『ミラ様なら、きっとお一人でも大丈夫でしょう。それにミラ様がロラ様に文句を言うことなんてこと、これまでありましたか?』

『……そうね』

『ロラ様は正しいことをなさった。ですがその優しさ故に胸を痛まれているのでしょう』

『本当にあの子を無理矢理放り出して良かったのか、今でもわかりません。でも、私はもう長くないから。せめてあの子が一人で、私無しでも生きていけるようになってほしかった。でもね、エマ。本当はあの子じゃなくて私が、私の方があの子なしでは生きていけなかったのよ……』

『大丈夫ですよ、ロラ様。お嬢様方には、最後までわたくしが付いておりますから』

『ありがとうエマ。本当に良いメイドだわ。あの子からもらった手紙を読んでくれる? 私はお手洗いに行ってくるから』

『わかりました。何かありましたらすぐにお呼びください』

 エマが舞台袖に捌ける。ロラがゆっくりと立ち上がった。数歩、歩いたところでロラが急に胸を押さえて倒れ込む。

『ただいま、お姉さま——』

 そこにミラとフェリスが入ってきた。

『ロラ様! ああ、なんてこと……ミラ様、挨拶もできず無礼をお詫びいたしますがどうかロラ様を。わたくしは医者を呼んできます!』

『お姉さま! しっかりして!』

『ミラ! 落ち着いてくれ、いいかい。今から君の姉さんを持ち上げてベッドに寝かせる。できるね? 僕が合図したら持ち上げるんだ。行くよ、せーの』

 せーので二人はロラを持ち上げ、ベッドに寝かせた。程なくしてエマが医者を連れてやってきた。

『一命は取り留めましたが、もう長くはないでしょう。今夜が峠かと』

『わかりました。ありがとうございます、先生』

『お姉さま、気分はどう?』

『ええ……平気よ……それよりミラ、久しぶりね。手紙、お返事できなくてごめんなさいね』

『いいのよ、むしろもっと早くに帰るべきだったわ』

『いい旅ができたようね、ミラ……』

『ええ、お姉さまのおかげでね。実はね、わたし結婚しようと思っているの。今日はその報告をしたくて。さあ、フェリス。お姉さまよ』

『初めまして、ロラさん。フェリスと申します』

『ごめんなさいね、こんな形でお会いすることになってしまって』

『いえ、お会いできて良かったです』

『ミラのこと、よろしくお願いしますね……』

『はい。僕の一生をかけて幸せにしてみせます』

『それを聞いて安心しました……ねえ、ミラ。あなたはもうお姉さま無しでも生きていけるでしょう?』

 舞台がしんと静寂を迎える。会場の空気も、それに釣られて張り詰めたものになった。会場にいる全員が、この舞台の結末に注目している。

『ええ、お姉さま。わたしは家を出てたくさんの方と出会いました。宿屋のマスター、お客さん、おじさんに、フェリス。本当にたくさんの方に支えられたおかげで生きていくことができました。でもね、お姉さま。そのことをわたしに教えてくれたのは他でもない、お姉さまなのです。周りの人を支え、周りの人に支えられて生きていく尊さを。だから今度は、お姉さまが旅に出てください。そしてわたしのことをいつまでも、いつまでも、見守っていてください』

『ええ、ずっとよ……ずっ……と……』

 暗転した暗闇の中で、ミラの泣き声だけが会場に響き渡っていた。

 音楽が流れる。しばらくして、舞台に明かりが点いた。

『いいから、ミラは座ってて』

『落ち着かないわよ、わたしも手伝うわ』

『もう君一人の体じゃないんだから』

『……ええ、そうね。ねえ、この子の名前どうしましょうか』

『その話をするの何回目だよ、もう。数え切れないぞ』

『だって楽しみで。仕方ないじゃない』

『きっとお姉さんも、この子を見て喜ぶだろうな』

『ええ、きっと』

 音楽が大きくなっていく。登場人物が全員舞台に上がってお辞儀をした。会場からは拍手が湧いていた。

 手を叩きながら、玲華は隣に座る葵を見た。頬には涙の跡があり、瞳は輝いていた。そして何より、安堵したような表情で笑っていた。玲華はその時の葵の表情をずっと覚えていようと思った。

「どうだったかい、私が育てた後輩たちは」

 文集の売り場に戻ると、菫が手を振って声をかけてきた。

「良かったわ、さすが菫ね。店番もありがとう」

「いいさ、このくらいお安い御用だ。槇さんと瀬乃さんも楽しめたかい?」

「はい、とても良いものを見させていただきました」

「うん、自分たちが関わった作品が多くの人に見てもらえるのはやっぱり嬉しいね」

「二人には本当に感謝しているよ、ありがとう。それから、由紀と茂木さんにも」

 呼ばれると思っていなかったのか、かな子は一瞬硬直した。

「そういえばかな子さんの名字って茂木だったわね」

「全然呼ばないから忘れちゃってたよ」

「まあ自分から名字で呼ばないでって言ってますもんね」

「おや、そうなのかい? それなら私もかな子さんとお呼びしようかな」

「……別に、私は構いませんけど」

「ありがとう、かな子さん。また一つ親密になれた気がするよ」

「長谷川さんって結構グイグイ行くタイプなんだね……」

「かっこよくて女子のファンも多いらしいわ」

「実際目の前で若干口説かれている人を見ると、相当な女たらしに見えますね……」

「そこの三人、聞こえてるよ」

 菫の言葉を合図に、三人は目を逸らして口笛を吹く。誰も鳴らない口笛に、笑みが零れた。

 翌日は交代で店番をしてまだ回っていないブースをそれぞれ回っていると、あっという間に後夜祭が始まる時間が近づいていた。

「皆のおかげで、文集は完売しました。本当にお疲れさま」

 五十嵐を含めた五人の拍手が部室で鳴る。劇でそれ以上の拍手を聞いていた玲華たちからすればかなり控えめな音だったが、それでも心のなかでは大喝采だった。

「ようやく終わるんですね、文化祭」

「一年生なのにちゃんと納期までに作品を完成させられて偉いわ、二人とも。私と玲華にとっては最後の文化祭だけれど、二人は二年後にもう一度あるからその時は後輩たちをよろしく頼むわね」

「まずは部員をもっと集めるところからだね」

「来年は誰が部長をやるのか楽しみね。期待してるわよ」

「先輩たちは次の春で辞めちゃうんですか?」

 かな子が寂しそうな声を出す。由紀と玲華は顔を見合わせて優しく笑った。

「まだ決めてないし、今考えるべきことでもないわ。この熱に当てられてしまったら、冷静な判断ができないもの」

「同感だね。今私たちが考えるべきことは、後夜祭と次の文集の内容についてだよ」

「もう次の文集のネタ考えるんですか? 少しは休みたいですよ~」

「かな子さんにはひとり立ちしてもらわないとね。由紀がいなくても書けるように」

「由紀せんぱ~い、私が卒業するまで部活辞めないで~」

「それは無理よ、留年したくないし」

 二人の会話を聞いて和やかに笑う葵は、幸せそうだった。力を抜いて笑えるようになった葵は、本当に充実した顔をしていた。それを見て玲華も、ふっと優しく笑えるような気がした。




「水汲んでくるね」

 十月も終わりに差し掛かり、空気の冷たさを肌で感じられるようになってきた頃、槇家は愛花のお墓参りに来ていた。

「ねえ、お姉ちゃん。少し話さない?」

 葵は墓石に刻印された文字をなぞりながら、愛花に語りかけた。

「わたしね、ずっとお姉ちゃんみたいになりたかった。お姉ちゃんに認められたかった。でもね、もうその必要はないみたい」

 水をいっぱいに汲んで玲華が重そうにしながら歩いてくる。こちらに来るまで、まだ時間はありそうだ。

「わたし、ちゃんとお姉ちゃんの作品を完成させたよ。ちゃんとお姉ちゃんの想い、見たよ。瀬乃葵としての仕事はもう、終わった。だからもう安心して。わたしはもう、大丈夫だから」

「葵さーん! ちょっと手伝ってくれなーい?」

「はーい」

 玲華に呼ばれて葵は駆け出した。桶を置いて玲華は肩で息をしている。

「ごめんね、重くて……」

「入れすぎですって」

「だって何回も往復するの嫌じゃない?」

「毎回こんなに重いものを運ぶより、七分目くらいで止めて楽に運んだ方が早く終わりますよ」

「なんか最近、葵さんが由紀に似てきた気がする……」

「気のせいですよ、気のせい」

 二人で水の入った桶を運ぶ。そもそも二人で運ぶことを想定されていない水桶を二人で運ぶと、変な姿勢になってしまう。

「葵さん、腰が引けてるよ」

「誰のせいだと思ってるんですか、まったく……」

 四人で一通り掃除をし、花を供え、線香をあげて手を合わせる。今日は愛花への新しい報告を兼ねていた。葵は心の中でもう一度愛花に語りかける。

 実はね、お姉ちゃん。新しい家族ができます。二人ともとても良い人です。そしてわたしの名字も変わります。わたしは今日から「槇葵」になります。

「帰ろうか、葵さん」

 帰りの車内では、文化祭の劇の話が出た。玲華と葵と愛花、三人の合作を悟と優香も観に来ていたのだ。その後は車の心地良い揺れに安心したのか、後部座席で頭をもたれ合って寝ている玲華と葵の姿があった。

「着いたぞ、二人とも」

 悟の声に先に反応したのは玲華だった。まだ眠そうな目を擦りながら、玲華は葵の頭を撫でて優しく起こす。

「すみません、また肩を借りてしまって」

「いいよ。葵さん、気持ち良さそうに寝てたし」

「そうですね。前回よりは首が楽です」

「だからそれは私のせいじゃなくて車の中で寝る葵さんが悪いんだから」

「はいはい」

「なんか葵さん、私の扱い慣れてきてない……?」

「そりゃあ、これだけ一緒にいるんですから慣れますよ」

 キラキラとした瞳で視線をぶつけてくる葵に、玲華はふっと頬を緩めた。

「ねえ、葵さん。帰ったら葵さんの部屋に行ってもいい?」

「いいですよ。着替えて待ってますね」

 葵も笑顔で返した。家に戻り、それぞれの部屋で着替えを済ませる。

 玲華が扉を三回ノックすると、中から「どうぞ」と短い返事が聞こえた。玲華はゆっくりと扉を開ける。

「お邪魔します……」

「そんなに畏まらないでください。初めてじゃないんだし」

 葵の部屋は、以前と比べて格段に葵の私物が増えていた。玲華はそれを寂しいと思わない。むしろ嬉しいくらいだ。

「増えたね、葵さんの私物」

「玲華さんは……時々不安にならないですか。蘭さんの部屋をこんなにしてしまって」

「ならないよ。だってここはもう葵さんの部屋だもん。蘭の居場所はここ」

 そう言って玲華は指で胸を軽く二回叩く。

「葵さんは不安なの?」

「そうですね……不安が無いと言えば嘘になります。こんなに穏やかな気持ちで過ごせているのは久しぶりなので」

 葵は目を伏せた。胸の辺りを優しく擦りながら、葵は次に話す言葉を選んでいるように見えた。

「何が不安なのかも上手く説明できないんですけど。多分、単純に幸せになるのに慣れてないんだと思います」

「それじゃあいっぱい慣れてもらわないとね。私が側にいるんだから」

 それを聞いた葵の口から笑みが零れる。

「また由紀先輩の真似してます?」

「もう、そればっかり」

 玲華も葵に釣られて笑う。この時間を幸せと呼ばずして何と呼べばいいのか、玲華には見当もつかなかった。

「覚えてる? ここで喧嘩したよね」

「覚えてますよ、あれを喧嘩と呼んでいいのかわからないですけど」

 丸いクッションを胸に抱きかかえて、葵はぼうっと遠くを見つめる。心のアルバムをめくって懐かしんでいるようだった。

「……どうしてあの時、玲華さんは脚本の完成を手伝うって言ったんですか?」

「その答え、聞くのが怖いって言ってなかった?」

「今ならきっと大丈夫です。教えてください」

 玲華は目線を葵と同じ方に合わせる。今こうして同じ方を向いて話ができるのが玲華は嬉しかった。

「あの時の私は、脚本を完成させることで葵さんが葵さんじゃなくなるんじゃないかって怖かった。私と同じように失った人に縛られて……ううん、自分で自分を過去に縛り付けて生きている人が、その鎖を断ち切ってしまったら、奈落に落ちるだけなんじゃないかって」

 葵は目を閉じて黙って玲華の話を聞いている。耳を澄ませているようにも見えた。

「だからせめて、私が側にいてあげようと思ったの。支えてあげたいって思った」

「それが結果的に玲華さん自身を奈落へ落とすことになっても?」

「うん、落ちるなら一緒に落ちようと思った。でも、私には由紀がいてくれて、私を引き止めてくれた」

 玲華は葵に視線を移して微笑んだ。

「だからできると思ったんだ。私にも葵さんを繋ぎ止めることができるって」

「でも、由紀先輩のことフッたんですよね」

「あ、あれは半分は由紀の誘導尋問みたいなものだもん」

 葵がいたずらっぽく笑う。最近の葵さんは本当に綺麗に笑うようになったなと玲華は感じていた。

「今思えば、私は最初から葵さんに特別を感じていたのかもしれない。出会った時から」

「……わたしに抱く特別と、由紀先輩に抱く特別は違ったんですか?」

 玲華は顎に手を当てて思案する。その答えは、自分でも驚くほど早く浮かんできた。

「うん、そうだね。特別っていう言葉で括ってはいるけど、その存在一つ一つが私を形成していて、どれが欠けても今の私には成り得ないって感じかな」

「難しい話ですね……」

「葵さんにはまだ早かったかな?」

「一つしか歳違いませんよ」

 葵が唇を尖らせる。それを見て玲華は、とても穏やかな表情で笑うことができた。

「でも葵さんに特別を感じていても、それが実際に私の一部になって特別な存在になったのは、私自身が葵さんを選び続けてきたからだと思う」

「じゃあ感謝しないとですね。わたしは玲華さんに選ばれて、特別になって、今胸の辺りがとても暖かいです。まだ受け入れるのはちょっと怖いですけど、それでも」

 葵は胸に手を当てて、瞳を星空のように輝かせて玲華を見つめた。

「好きです、玲華さん」

 その言葉を聞いて、玲華も胸に暖かさを感じた。中心からじんわりと広がっていって、心を満たしていく。心にも温度があるのだなと玲華は不思議な感覚を抱いた。

「玲華さんは、わたしのこと好きですか?」

「改めて聞かれると恥ずかしいね……」

「ちゃんと玲華さんの口から聞いたの、一度だけですし。それに昔と今じゃ心境も変わっているかなと思って」

「……そうだね、昔と今じゃ好きの意味が違うかも」

 そして玲華も葵と同じように胸に手を当てて、煌々とした瞳で葵と目線を交わした。

「もちろん妹としても好きだけど、それ以上に……私はそれ以上の『好き』を葵さんに抱いているよ」

 それを聞いた葵の目が丸く開く。そして一言、「嬉しい」と呟いて葵は言葉を続けた。

「わたしも、姉として好きですけど、玲華さんにはそれ以上の『好き』を感じています」

「同じだね」

「……はい」

 そしてどちらからともなく目をゆっくりと閉じ、顔を近づけて唇を重ねた。窓から差し込む夕陽が、二人を優しく照らしていた。

「これからもよろしくね、槇葵さん」

「こちらこそよろしくお願いします、槇玲華さん」

 二人の旅はまだ、始まったばかりだ。

以上でこの物語は完結となります。この作品が、どうか皆様の心に少しでも響きますように。

またどこかでお会いしましょう。それでは皆様に幸あらんことを。

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