壊れた時計
連休明けというのは、どうにもこうにも身体が重いし気分も沈みやすい。だが、今日は幸い金曜日だ。今日行けばまた二連休だという気持ちだけが、玲華の心を前に進ませていた。
「それにしても中川先輩のお話、なんか切ないですね。報われない恋ってどうしても苦しくて……」
玲華が部室の戸を引くと、かな子と由紀がお茶を飲みながら話をしていた。
「恋愛なんて報われないことの方が多いわ。自分が好きになった人に好きになってもらうことほど難しいことは無いのよ」
「なになに、恋愛談?」
「違うわよ。文集で私が書く原稿の話」
「ああ、私に脚本を押し付けてまで書きたかったやつね」
「ちょっと、そんな言い方ないじゃない」
柄になくふくれっ面をする由紀を見ると、可愛くてつい笑みが零れてしまう。そんな玲華の反応に由紀の頬はさらに膨らんでいった。
「それで、どんな内容なの?」
「主人公は姫の側近なのだけれど、姫と幼馴染なの。ずっと姫に恋をしているけど、立場上その気持ちを伝えることはできない。姫には婚約者がいて、王女になることが約束されているから」
由紀はいつもの美しい所作で眼鏡を外し、ケースに仕舞った。そして肘をついて少し物憂げな表情で窓の外に視線を向けた。
「姫は結婚して王女になった。ある日、反逆があって王女の身も危うくなった時、主人公は身を挺して王女を守ろうとするの。死を覚悟した主人公は、最期に一言だけと思って自分の気持ちを伝える。でも王女は夫である国王を心から愛していて、でもそれを今ここで言うのは残酷だと思って躊躇するの。主人公はそんな彼女の様子を見てすべてを察し、これでいいんだと言って息を引き取る」
由紀は玲華に視線を戻し、感想を促す。玲華は顎に手を当てて思案した後、口を動かした。
「うん、いいと思う。本当に報われないところが由紀らしくて」
その反応に満足したのか、由紀は頷いてまた視線を窓の外に戻した。
「本当は作品の中くらい報われてほしいけれど、ね」
寂しそうな表情をする由紀は、このままどこかに行ってしまいそうだった。玲華はその姿を目に焼き付けていた方が良い気がして、瞬きをやめた。正確に言えば、次に目を開けた時には由紀がいなくなっているかもしれないと思わせるほど、由紀の存在が儚くて壊れそうだった。
「こんにちは……ってもう皆さんお集まりでしたか。お待たせしてしまってすみません」
戸を引いて葵が入ってくる。それを合図に、先に部室にいた三人が荷物を持って立ち上がった。
「大丈夫よ、玲華も今来たところだし。行きましょうか」
部室の鍵を閉めて四人は校舎に入っていく。さすがに四人並んで歩くと迷惑になるため、由紀とかな子が前に、玲華と葵がその後ろに並ぶ形で廊下を歩き、階段を上っていった。
「一階から最上階まで階段で上るのって結構辛いですね……」
「かな子が体力無さすぎなんじゃない? 最上階って言っても四階だし」
「いや、普通に息切れしてないの葵さんだけだよ」
「……もしかして皆さん、運動が苦手なんですか?」
最後の階段を上り終えたところで、三人は太ももの張りを感じて少しだけ太ももの筋肉を伸ばした。
「先輩方はいいとして、かな子は去年の夏まで運動部だったでしょ」
「補欠に体力は無いよ……葵みたいなエースとは格が違うんだし」
「二人は同じ部活だったの?」
「そうです、ソフトテニス部でした。葵、結構強かったですよ」
玲華は葵を一瞥した。なるほど確かに、私たちのそれより引き締まった体躯をしている。
「それならどうして文芸部に入ろうと思ったの?」
由紀が素朴な疑問を世間話の要領で問うた。しかしそれは、葵にとっては知られたくない部分だろう。玲華は助け舟を出そうかと逡巡したが、それより先に当人の口が動いた。
「深い理由はないですよ。憧れがあっただけです」
葵は笑顔を貼り付けた。その表情に嘘はないが、どこか壁を感じさせるものだった。それを見て由紀は、横目で玲華に視線を送る。玲華はそれを受け取らないように顔を背けた。先ほどの葵の表情を見れば、これ以上外野が口出しをするのはまずい気がする。葵はあまり自分のことを語ろうとしない。踏み込むタイミングを間違えれば、葵は鋭く冷たい瞳で相手の心臓を貫いてくるだろう。
「こんにちは、文芸部です」
四人は校舎の端にある多目的教室の扉を引いた。ここは放課後講座や、英語や数学のクラス分けの際に使われる第二の教室のような立ち位置だ。四階は音楽室、書道室、美術室、視聴覚室のほかはこの多目的教室が幾つかある。また、普段は屋上に上がれないのでこの階の広場が望都高校の生徒が自由に行くことのできる一番高い場所だ。
「ここも多目的教室なんですね」
「ああ、勘違いしてるかもしれないけど、ここは多目的教室で私たちの部室は多目的室だから間違えないようにね」
「何が違うんですかそれ……」
かな子は片方の眉を釣り上げて苦い顔をした。
「何してるの、早く入りなさい」
先に中に入った由紀に促され、三人は慌てて教室に足を踏み入れ、扉を閉めた。
「紹介するわね。こちら演劇部二年の長谷川菫さん。今回の劇のサポートをしている人よ」
由紀の隣に立つボーイッシュな髪型をした背の高い女生徒が軽く会釈した。それに合わせて三人も頭を下げる。
「菫、こちらが主に今回の脚本を執筆することになった二年の槇玲華と一年の瀬乃葵よ」
「長谷川です、よろしく」
菫の背丈は玲華と同じくらいだが、スカートではなく男子生徒と同じパンツを履いているせいか脚が長く見える。玲華と葵は菫と握手を交わした。
「早速だけど、脚本に大きな変更がないなら役者は最低六人必要だね。今年は一年生もある程度入ったし問題なさそう」
「演出は長谷川さんがやるんですか?」
「いや、私はあくまでサポートだよ。演出も裏方も全部一年がやる。まあ困った時の相談役兼演技指導的な立ち位置かな」
白い歯を見せて菫は葵の質問に答えた。爽やかな風が吹くのが見えた気がする。
「よし、じゃあ稽古始めようか。机と椅子、動かそう」
各々が机と椅子を教室の反対側に寄せて、スペースを作る。
「始めるよ。よーい」
一瞬の間があって、菫が手を叩いた。それを合図にセリフが順番に読み上げられていく。
『お姉さま、体の具合はどう?』
主人公ミラには四つ離れた病弱な姉のロラがいる。ミラとロラは幼い頃に両親を亡くし、それからはたった一人残ってくれた使用人のエマと三人で暮らしていた。
『今は平気よ、ミラ。それよりお誕生日おめでとう。もう十五歳になるわね』
『ありがとう、お姉さま。今年もお姉さまが健康でいてくれるだけでわたしは幸せよ』
ミラはたった一人の姉であるロラに非常に懐いていた。だがロラは、確実にミラより長生きできないことを悟っていた。このままミラが自分だけに依存して生きていくのは良くないことだと感じていた。だから、ミラが十五の誕生日を迎えたら言おうと決めていたことがあった。
『ミラ、家を出なさい。旅をしてきなさい』
もちろんミラは、病弱なロラを放っておくことはできないと家を出ることに反対する。
『大丈夫ですよ、ミラ様。ロラ様にはこのエマがついておりますから』
何よりロラの押しが強く、渋々ミラは家を出る。定期的に手紙のやり取りをすることを条件に、ミラは一番近い町に行くことになった。
初めこそ宿屋で生活できていたが、収入のないミラの財布が底をつくのは目に見えていた。持たされたすべてのお金を使い切る前に、ミラは宿屋の主人に提案をする。
『実はわたし、隣町からやってきたのだけれど、身寄りがないの。ここでお手伝いをさせてくれないかしら』
それなりに栄えている割には人手が足りなかったこともあり、宿屋の主人はすぐにミラを雇うことにした。ミラにとって初めての労働は初めは失敗ばかりで辛かったが、徐々に慣れていくとミラの持ち前の明るさでたちまち客からも可愛がられるようになった。労働の対価として、ミラは宿屋の一角を寝室として与えられ、賄いが出た。そんなある日、宿屋の主人から頼まれごとをされる。
『ミラ、ちょっと頼まれちゃくれねえか。実は隣町で俺の弟が新しく宿屋を始めたんだが、人手が足りないらしい。しばらく向こうで働いてきてくれねえか』
『断る理由なんてありません、寝食の恩がありますから』
こうしてミラはさらに隣の町で働くことになる。そこは海辺の町だった。生まれて初めて海を見たミラは、感動のあまり裸足で走り回っていた。するとある少年から声をかけられる。
『邪魔だ。どいてくれないか』
『あら、どうして?』
『僕は風景画を描きたいんだ。人間がいると邪魔だ』
『わたしも一緒に描けばいいじゃない。ポーズなら任せて』
『……仕方ない、出直すか』
少年はミラに背を向けて立ち去ろうとした。慌ててミラは少年を呼び止める。
『待って、ごめんなさい。そんなに邪魔だったなら謝るわ。実は海を見るのが初めてではしゃいじゃったの』
『君はどこから来たんだ?』
『少し遠い所よ』
そう言ってミラは寂しそうに笑う。儚げに遠くを見つめるミラの姿は、まるで海から来た人魚が故郷を思うようだった。
『そうか。なら夕陽が沈むのを見ていったらいい。きっと感動するよ』
『感動するよなんて言われたら感動が半減するじゃない』
そうして二人は笑い合った。一頻り笑った後、少年がミラの目を見てこう言った。
『僕はフェリスだ。君は?』
『わたしはミラ。明日からあそこの宿屋で働くことになったの』
『そうかい。それなら一度宿屋の食事場に来たらいい。良いものが見られるぞ』
そう言ってフェリスは歩き出した。ミラもそれについていく。宿屋に入るなりフェリスとミラは真っ先に食事場へ向かった。
『わぁ……なにこれすごい! すごいわフェリス! 海って、夕焼けって、こんなに綺麗なのね!』
フェリスは得意げに笑う。海に沈む太陽を見て、ミラは目を輝かせた。
『戻ったかフェリス。そちらのお嬢さんは?』
『明日からここで働くらしい。おじさんの紹介だろうね』
『ああ、あんたがミラか! いらっしゃい、よろしくな』
快活に笑う主人を見て、ミラは隣町の宿屋の主人を思い出した。
『はい、よろしくお願いします』
『こんな可愛い子に手を出すなんて、お前も風上に置けないな』
『ちがっ……! そんなんじゃねえよ』
『あの……お二人はどういうご関係で?』
『親子だ。こいつはうちの長男坊さ』
そしてフェリスとミラは翌日から一緒に働くことになった。初めこそ忙しくなかったが、日を増す毎に客はどんどん増えていき、すぐに繁盛した。どんなに忙しくなっても、二人は決まって夕方に休憩を取り、夕陽が沈むのを見に行った。食事場から見ることもあれば、出会った日のように海まで出かけることもあった。
『ミラはどうしてここに来たんだい?』
『あなたのおじさんからの紹介よ』
『じゃあ、そのおじさんとはどうやって知り合ったのさ』
『家を追い出されて。旅をしてきなさいってお姉さまに言われたの』
『お姉さんとは連絡は取っているのかい?』
『時々ね。手紙で近況報告しているわ。だんだんお姉さまからの返事が遅くなっているから回数は減ってきたけど』
『愛されているんだな、ミラは』
『そうかしら。わたしはお姉さまと一緒にいられればよかったのに。案外疎ましくなったのかも』
『それなら、ここにいたらいい。君が帰りたいと思うその日まで』
ミラとフェリスはこうして距離を縮めていった。夕陽を見ながらいろいろな話をした。絵描きになりたいと言うフェリスは、よく海の絵を描いていた。それを見てミラは、フェリスの真っ直ぐ夢を追いかける姿勢に惹かれていく。フェリスもまた、ミラの明朗な笑顔や時折見せる寂しそうな表情に惹かれていった。
『ねえ、フェリス。わたし一度故郷に帰ろうと思っているのだけど……あなたもお姉さまに会ってくれないかしら?』
フェリスは二つ返事で快諾した。列車の中で二人は、流れていく景色を眺めながら期待に胸を膨らませていた。ミラは今日帰ることをロラには秘密にしていた。
『ただいま、お姉さま——』
しかしミラが目撃したのは、笑顔で妹の帰りを喜ぶ姉ではなく、床に倒れていたロラだった。
ぱん、と空を切る音がした。それが菫が手を叩いて出した終わりの合図だというのを認識するのに、四人は少し時間がかかった。
「今完成している脚本はここまでだね。続き、書けそう?」
菫が屈託のない笑顔で玲華と葵を見る。そんな表情を向けられると「いいえ」とは言えなかった。
「大幅に修正するなら早めにやってくれると助かるかな。あと行き詰まったらいつでも頼ってよ」
「わかった。ありがとう長谷川さん」
「今日はとりあえずイメージを掴んでほしくて呼んだんだけど、次は七月のテストが終わった後くらいでどうかな? その頃には完成稿を上げていてほしいな。よろしくね」
玲華たち四人は多目的教室を後にした。無言で階段を降りていく。
「改めて見ると結構完成されてたわね。イメージは掴めた?」
部室に到着してすぐ、由紀が口を開いた。玲華は肩の力を抜くように机に顎を乗せる。
「正直に言えば胃が痛いよ……私なんかが手をつけていいのかな……」
「まあ実際に書くのはわたしですし、いいんじゃないでしょうか。玲華さんはサポートしてくれればいいので」
その瞬間、由紀の頬が硬直した。
「あれ、葵って槇先輩のこと名前で呼んでたっけ?」
「ううん? 心変わりってやつかな」
「じゃあ私も玲華先輩って呼んでいいですか?」
「別にいいけ——」
「それなら私のことも名前で呼びなさいよ」
玲華の返答を遮るように、由紀が食い気味に言葉を発した。それを聞いたかな子の表情が煌々としたものになる。まるで花が咲いたように目を輝かせる彼女に、由紀は先ほどの発言を少しだけ後悔した。
「じゃあ決まりですね……! もうダメって言っても聞きませんから」
立ち上がって踊りだしそうなかな子を脇目に、由紀と葵は目が合った。
「……葵さんも名前で呼んでいいわよ。そもそも初めの方に呼び方は何でもいいって言ったものね」
「それではお言葉に甘えて。由紀先輩って呼びますね」
「さん付けでもいいのよ」
「由紀先輩」
「葵さん?」
「ちょっと二人とも、無闇な争いはやめて今は脚本の話をしようよ」
「無闇かどうかは置いておくとして、その意見には一旦賛同するわ」
一呼吸置いて、由紀は背筋を伸ばす。それを合図に、場の空気が引き締まる。
「最終的には二人で完成させてほしいから、私とかな子さんは必要があればヘルプに入る形で関わろうと思っているわ。私たちは私たちで原稿があるし」
由紀は鞄から手帳を取り出した。数ページめくっては戻るを数回繰り返し、日付をホワイトボードに書き込んでいく。
「とはいえ、二人の締め切りまでに行われる批評会はせいぜい四回ってところね。毎回進捗報告はしてもらうから、遠慮せずに頼ってほしいわ。とりあえず今日の読み合わせを経ての感想を共有しておきましょうか」
いつの間にか掛けられた眼鏡の位置を直し、ホワイトボードの前に立つ由紀を見て、玲華は率先して前に立ってくれる存在のありがたみを感じた。
「問題は大きな枠組みを壊さずこのまま続きを書くか、思い切って変更するかに集約されると思います。私は前者に賛成です」
「そうね。ただ、場合によってはそのまま続きを書くより大きく修正する方が楽かもしれないわ。葵さんはどうしたい?」
「わたしはこのまま続きを書くことに意味があると思っています。姉の作品を壊すようなことはしたくありません。例え困難でも、それこそ姉の完成稿が無いのならこのまま続きを考えるべきです」
「玲華はどう思う?」
「私も葵さんに賛成かな」
「じゃあ方針としてはそれで決まりね。問題は内容をどうするかだけど……これまでの内容を少し整理してみましょうか」
由紀がホワイトボードに黒字を走らせる。端正で読みやすく、整理された字は、すっと頭の中に入ってくる感覚があった。
「一言で片付けてしまえば、この物語の主題はミラの自立だと私は考えているわ。あくまで個人的な意見なのだけれど。ミラは物語の初めで、姉であるロラに依存している状態ね。それがロラからの通達で家を出ることになる。ミラは旅を続ける中で、出会いや勤労を通して徐々に自立していく」
由紀は一旦書く手を止めて、眼鏡を中指で押し上げた。
「ここからは私の主観なのだけど、恐らくミラとフェリスは結婚するでしょうね。そしてロラは帰らぬ人となる。もちろん異論は認めるわ。他に意見を聞かせて頂戴」
「私はロラには生きててほしいな。死別じゃなくてもミラの自立は結婚を通して完成されると思うし。せめて二人の結婚式までは生きていてほしい。フェリスとミラの幸せな姿を見届けてもらって、初めてミラの自立になるって考えられないかな?」
「私も玲華先輩の意見に賛成です。ロラが結婚式に参加せずに亡くなってしまったら、中途半端な自立が残ってミラは一生旅に出たことを後悔すると思います」
由紀が二人の意見を要約して瞬時にホワイトボードに書き込んでいく。司会から書記までこなす由紀を見ると、この部は由紀がいて成り立っているのだと改めて部長の偉大さを感じた。
「葵さんはどう思う?」
「わたしは……」
黙って聞いていたせいか、葵の声が掠れて上ずったものになる。葵は一度紅茶を口に含んでから発言の続きを始めた。
「わたしは、ミラがロラを発見した時にはすでに息絶えていたという結末でも良いと思います。ハッピーエンドになる必要はないかと。中途半端な自立や旅に出たことへの後悔も、全部背負ったらいい。そっちの方が人間臭くないですか?」
下校を告げるチャイムが部室に鳴り響く。まるでそれは、物語に終末を告げる鐘のようだった。
「様々な意見が出たわね。最終的に決めるのは二人だから、次の批評会でまた進捗を聞かせてね。それじゃあ今日は帰りましょうか」
途中の分かれ道まで四人で話しながら帰路に着く。連休中の過ごし方など他愛もない話をしていると、いつもの分かれ道がやってきた。ここを左に曲がると玲華の家、右に曲がると由紀の家、真っ直ぐ行くとかな子の家がある。四人はまた会うことを約束し、手を振って別れた。
「かな子さんは駅の方に行くんだよね?」
「そうですよ、二駅先くらいです。わたしもその辺りに住んでますけど」
会話がそこで途切れる。時間が経つにつれて、玲華は不安で胸が持ち上がるような気持ちになった。無言の関係でいられるほど、玲華にとってはまだ葵との間にできる空気に順応してはいなかった。沈黙は一定の関係性が無いと、ただただ毒になる。信頼を築き上げて初めて無言でいられるのだ。
葵の様子をそっと伺うと、俯いて晴れない顔をしていた。夕陽に照らされた葵の影が伸びる。少し青白くさえも見える葵の表情は不気味だった。
「ねえ、葵さん」
上ずった声で玲華は葵の名を呼ぶ。葵が顔を上げて玲華と視線を交わす。光のない瞳に玲華は一瞬ぎょっとしたが、お腹に力を入れて言葉を投げかけた。
「寄り道、していかない?」
葵はしばらく玲華を見つめた後、再び俯いた。葵の機嫌を損ねてしまったのかと思い、玲華が続けて言葉を発するために口を動かそうとしたその時、玲華の左手に冷たい感触が走った。
「いいですよ。連れて行ってください」
それが葵の手だと気づくのに少し時間がかかった。緊張で汗ばんでいた玲華の手を葵は握りしめる。玲華にとってはその感触がほんの少しだけ心地良かった。
「うん。でもさすがに手を繋ぐのはまずいんじゃないかな? 誰かに見られたりしたら勘違いされちゃうよ」
「勘違いされてもいいんじゃないですか。協力するって言いましたよね、玲華さん。わたしの姉になるならこのくらいしてもらわないと。それとも——」
葵は繋いでいる玲華の左手を引っ張って顔を引き寄せる。耳元で囁く葵の声は、熱を帯びていてある種の輝きを放っていた。
「キスの方がいいですか?」
玲華は心臓を掴まれたような気持ちになる。苦しくはあったが、不思議とそれが嫌だと感じたわけではなかった。
「……着いたら手は離してね」
「はーい」
二人の影が重なり合って溶けてしまいそうだった。握った手の温度が少しずつ溶け合って同じ温度になっていく。玲華はそれがほんの少しだけ心地良く感じた。
「昔はよくここで遊んでたんだ。特にこのブランコが好きで」
そこは、玲華の家からそれほど遠くない場所にある小さな公園だった。椅子が二つ付いたブランコと、小さな滑り台とアスレチックを組み合わせた遊具、そして砂場があるだけだ。玲華は鞄を置いてブランコに駆け寄った。
「……それは蘭さんと、ですか?」
「そうだよ。ほら、葵さんも」
玲華に促されて葵も隣のブランコに腰掛ける。少しずつ速度の増していくブランコを漕いでいると、懐かしい気分になる。玲華は目を閉じてブランコをさらに加速させていった。時々夕陽が玲華の目を焼いて、目を閉じていても瞼の上から太陽の存在を感じさせる。手を伸ばせば掴めそうなのに、チェーンを握った手を離すことができない。離せば飛ばされて落ちてしまう。両手でしがみつかないと怪我をしてしまうという恐怖心は、幼い頃と何も変わらなかった。
ブランコが振れる度に金属の擦れる音がする。二人分のその音だけが響いて、玲華は葵と二人きりの世界を創っているような感覚に陥った。今この瞬間だけは、この世界に私たちしかいない。それはどこか優越感を覚えるものだった。
「楽しいね、葵さん」
「まあ、悪くはないです。高校生にもなってブランコを漕ぐことになるとは思いませんでしたけど」
そう言った葵の頬も緩んでいた。先ほどまでしていた晴れない表情はすっかり鳴りを潜めていた。
「脚本、どうしましょうか」
「葵さんはハッピーエンドが嫌いなの?」
葵は目を伏せた。ブランコを揺らすのをやめて、言葉を慎重に選んでいるように見える。物憂げに揺れる瞳に、玲華は吸い込まれるような感覚を抱いた。
「嫌いではないです。ただ人生なんてそんなに上手くいかないじゃないですか」
「だからこそ物語の中ではハッピーエンドがいいと思わない?」
「……そうですね、そういう考え方も素敵だと思います」
でも、と葵は言葉を続ける。
「今回に限っては、ハッピーエンドにするつもりはありません」
葵は膝に乗せていた手を握りしめた。玲華は葵の呼吸が少し乱れていることに気づいた。
「葵さんは……この作品を完成させることで愛花さんに認めてもらえるって言ってたよね。それがハッピーエンドを拒む理由と関係しているの?」
「……そうとも言えますし、違うとも言えます」
葵は地面に足をつけて体を前後に揺らした。微かに金属の擦れる音がする。ゆっくりと揺らしているせいか、動作に音が追いついていないように見えた。どこかちぐはぐな感じがする。
「ミラに、自分を重ねてしまって」
ぽつぽつと降る糸雨のように、葵の言葉が玲華の耳に降ってくる。
「……昔の葵さんのこと、聞いていい? 脚本の参考になるかもしれないし」
葵は軽く首を縦に動かした。俯いたまま葵は、軋む扉を開けるようにゆっくりと口を動かしていく。その動作は葵自身のことを上手く伝えるために言葉を探しているようにも見えた。
「幼い頃、父が亡くなりました。それからは母と姉と三人暮らしで……母はわたしたち二人を育てるために働いていたので、わたしは姉と過ごす時間が長くて。言うなればお姉ちゃんっ子でした。三つ違いの姉は、わたしより何でもできて、とても尊敬していたのを覚えています。実際、今思えば姉は他の小学生と比べても勉強ができる方でした。勉強を教わる度にわたしは感動して、姉に懐いていました」
そんな時は決まって「お姉ちゃんは天才ですから」と胸を張って言っていた、と葵は寂しげに笑う。
「ある日、中学生になった姉にわたしは言ったんです。『将来はお姉ちゃんみたいになりたい』って。そしたらその翌日から姉が勉強に対して厳しくなって。毎日宿題が終わるまでは友だちとも遊べず、姉に監視されるようになりました。夏休みや冬休みなどの長期休暇中は、学校からの宿題に加えて姉が自作した問題集を解かされていました」
昔のことを話す葵は、案外穏やかな表情をしていた。大切に仕舞っていたアルバムをめくるように、葵はゆっくりと話を続けた。
「それでもわたしはその時間が全然苦ではなくて、むしろ姉が側で勉強を見てくれる優越感を味わっていました。姉に気にかけてもらえるのが嬉しくて、あの頃は本当に姉みたいに……いえ、姉そのものになれると思っていたんです」
夕陽の差す角度がだんだんと鋭利になっていく。それに呼応するように、先ほどまで穏やかだった葵の表情にも影が落ち始めた。
「でも、姉が望都高校に進学して、わたしも中学生になって、その時間は無くなってしまったんです。姉は文芸部に入って、勉強と部活で忙しくなって、わたしの勉強を見ている余裕がなくなって。中学に入った途端、わたしは姉と過ごす時間が激減してしまった。寂しさを埋めるためにわたしもソフトテニスを始めました。それでも全然心が晴れなくて、かえって心に余裕がなくなっていきました。そんな生活が一年続きました」
葵が太ももの上に手を乗せて組んだ。織り込まれたスカートのシワが、均一に列を成しているのが目に入ってくる。玲華はその均一なシワに不気味さを感じた。
「あの頃はわたしも幼かった。だから短絡的な思考に至ってしまったんです。テストで席次一番を取れば、姉が振り向いてくれる。姉が褒めてくれる。認めてくれるって」
「……結果はどうだったの?」
「取りましたよ、一番。姉に報告しました。なんて言ったと思います?」
葵が自嘲気味に笑みを零す。鼻から息を吐いて、言葉を続けた。
「『葵ならそのくらい余裕でしょ?』って興味なさそうに言われて。一蹴されました。わたしのこれまでの努力を一言で片付けられて、期待していた言葉をくれなくて、わたしは腹が立ってしまった。だからわたしは、お姉ちゃんなんか大嫌いって叫んで、家を飛び出してしまったんです」
だんだんと葵の目から光が消えていく。空は月が夕陽を追いかけるように、夜が始まろうとしていた。紺色の空を見上げる葵は、そのままどこかに消えてしまいそうだった。
「ただ夢中で走って、走って、息が切れるまで走っていたら、駅前の商店街の方まで来てしまっていて。走って冷静な頭になると、どうしてあんなことをしてしまったのかという思いが強くなりました。だから姉に謝ろうと思って、その時たまたまポケットに入っていた千円札でケーキを買ったんです。姉が好きだったいちごのショートケーキ。一切れだけですけど」
葵の表情が少しずつ歪んでいく。次の言葉が出る間に、葵の顔は苦悶するような表情で埋め尽くされていた。
「その時は携帯電話を置いてきていたので、姉に連絡する手段が無くてそのまま家に帰ろうとしていました。今でも覚えています、あの時のこと。わたしが信号を渡りきったところで、後ろから大きな声でわたしを呼ぶ声がしたんです。慌てて振り返ると、姉が走りながらこちらに向かっていました。姉は大きく手を振って、わたしの方へ走ってきて、そのまま」
葵は視線を下ろし、ぽつり、と小さな声で言葉を落とした。
「右折してきた車にぶつかって、そのまま……」
「葵さん、大丈夫?」
葵は呼吸を荒げ、額に汗をかいていた。立ち上がって葵の方に駆け寄ろうとした玲華を、葵は手で静止する。
「その車の運転手は飲酒運転をしていたらしくて。でもそんなことはどうでもいいんです。わたしはもう訳が分からなくて、体が勝手に動いて、すぐに姉の方へ行きました。まだ辛うじて意識のあった姉がこう言ったんです。『見て』って。離れないんです、あの時の光景が。あの時わたしが家を飛び出さなければ、大嫌いなんて言わずにいたら、姉はまだ人生を歩めていたはずなのに。あの時から、わたしの時間も、姉の時間も、止まったままなんです」
葵はしばらく深呼吸を繰り返した。今にも倒れそうだった先ほどに比べ、少しだけ持ち直したように見える。それでも葵が苦しそうなのは変わらない。玲華は立ち上がって葵の背中に手を当て、優しく擦った。
「わたしはただ、姉と一緒にいたかった。姉に認めてほしかった。でもその時間を奪い取ったのは、他でもない自分自身なんです。自分の選択で、わたしは姉の人生まで台無しにしてしまった。だから決めたんです。姉みたいになることが夢だったわたしが、姉自身になることで姉への贖罪になるって。姉のように明るくて、頭が良い、そんな人間になろうって。だから高校も同じ望都に入ると決めていたし、姉のように小説を書く練習もした。文芸部に入って姉の作品が載った文集を手に入れて、文体を姉に近づけようとした」
葵はゆっくりと息を吐いた。その瞳は濡れているようにも見える。疲弊した表情に不気味な笑みを浮かべて、葵は自身を嘲った。
「矛盾してるように聞こえますよね。姉になると言いながら、妹として愛されることに拘って。それがわたしを形成するパーツだとか言って。でも自分の中では不思議と変に思わないんです。姉に認められるためには、わたしは妹であらねばならない。それと同時に、わたしは姉自身にならなければいけない。姉に——瀬乃愛花になったわたしを含めて姉に認められたいんです。結局傲慢なのは変わらないけど。だから玲華さんには、わたしを妹として愛してほしいんです」
そこで初めて、二人の視線が交錯した。縋るような葵の表情は、出会った頃より強くなっている気がする。
「共犯ですね、玲華さん」
いたずらっぽく笑った後、葵は目を閉じて顔を近づけてきた。玲華もそっと目を閉じる。相変わらず心臓が鼓動を速めることはないが、嫌な感じはしなかった。むしろほんの少し、甘い匂いがした。
「ミラがわたしでロラが姉なら、ミラには理不尽を背負って生きてほしいんです。それにミラにはもうフェリスがいますから、見方によっては十分ハッピーエンドじゃないでしょうか」
すっかり陽は落ちて、辺りは暗くなっていた。公園に設置された灯りが青白く光り、月が顔を出して夜を告げていた。
「……帰ろうか、葵さん」
「はい」
二人は帰路を歩いていく。ここから玲華の家までさほど遠くない。徒歩十分程度だ。
「わたし、玲華さんが協力してくれると言ってくれて、嬉しかった」
その言葉に、玲華は心にチクチクと針を刺されるような痛みを覚えた。
「理由は言わなくていいです。聞いたらきっと、今の関係性が壊れてしまうだろうから」
そこまでわかっていて、葵さんは夢を見ることを選んだんだ。それなのに私は、葵さんを夢から叩き起こすことが葵さんにとっても自分にとっても幸せだと信じている。本当に、これで良いのだろうか。二人でずっと覚めない夢を見続ける選択肢だってあるはずだ。過去に向き合ってわざわざ自分たちから過酷な道を選ばなくても、今側にいてくれる妹を選ぶことだってできる。
「玲華さん、好きですよ」
「……うん、ありがと」
今はそう返すことしかできなかった。きっと今のままではいけない。葵さんを夢から覚ますなら今すぐにでもそうすべきだし、二人で夢を見続けるならもっと葵さんを愛さなければならない。狭間で揺れる玲華の心は、夜の闇に溶けてしまいそうだった。




