鎖
窓の外を眺めていると、建物や電柱が横に流れていく。車から見える景色をぼーっと眺めていると、自然と考え事が浮かんでくるのが不思議だった。玲華はこの時間が嫌いではない。賑やかな車内も好きだが、疲れて寝息を立てる葵を横目に、ぽつぽつと浮かんでくる事柄を整理できるこの時間も大切に思っていた。
五月頭の連休中にある日曜日は、蘭の命日が近いこともあり、槇家では蘭のお墓参りに行くのが恒例となっていた。
「元気してた、蘭?」
玲華は墓石に刻まれた文字を撫でながら優しく語りかけるように呟いた。よく晴れた空から降り注ぐ光は、春の残り香を連れてくるようだった。
一通り掃除を終え、花を供え、線香に火を点けて四人で手を合わせる。今年のお墓参りは、新しい家族を迎え入れる挨拶も兼ねていた。
蘭は今どこにいるのだろう。どこにいて何をしているのだろう。墓参りとは、結局のところ今を生きる私たちが故人を失った悲しみや喪失感から逃げるためにあるのだろうか。蘭はどこにもいなくて、生きている人間が生み出した天国だの黄泉の国だのから見守ってくれているというのは幻想なのだろうか。私はこの先、ずっと蘭に囚われて生きていくのだろうか。
「おねえちゃん……」
後部座席の右隣に座る葵の頭が、玲華の肩に寄りかかってきた。その重みで玲華の思考は一気に現実へ引き戻される。帰りの車で眠りについた葵の顔は始めこそ良かったものの、だんだんとうなされるように歪んでいった。さすがに起こそうと声をかけようとした時だった。
「ごめんね……おねえちゃん……」
その声はあまりに湿度を孕んでいて、とても寂しそうで懺悔するような声色だった。思わず玲華は葵を起こそうとした手を一度引っ込めて、そしてその手で徐に頭を撫でた。その横顔を見ていると、玲華は蘭のことを思い出す。昔、蘭が車内で寝た時も、こうして頭を撫でていた気がする。玲華は墓前に手を合わせた時の葵の複雑な表情を思い出した。
帰ったら葵さんと話をしよう。葵さんのお姉さんのこと、ちゃんと聞いておかなきゃ。きっとそこに答えがあるだろうから。
玲華はまとまらなくなった思考を落ち着かせるように、ゆっくりと目を閉じた。次に目を開けた時は、すでに景色の移ろいはなく、右肩に乗ったままの葵の頭に手を乗せて葵に声をかけた。
「着いたよ、葵さん」
「すみません、肩借りてしまって……」
「私の肩枕、硬くなかった?」
「少し首が痛いです」
「それは車の中で寝たせいだよ、私のせいじゃないもん」
玲華が唇を尖らせて見せると、葵の唇から笑みが零れる。もう涙は無かった。
「葵さん、少し話がしたいから葵さんの部屋に行ってもいいかな?」
蘭の部屋は結局葵が使うことになったのだが、葵はまだ遠慮しているのか部屋の内装にほとんど手をつけていない。実際に葵が住んでいるわけではないので、槇家に居る時の葵は寝る時と着替えの時以外はほとんどリビングで過ごしていた。それを象徴するように、葵は少し遅れて了承の返事をし、こう答えた。
「ああ、蘭さんの部屋ですね。わかりました」
ひとまずそれぞれの部屋に戻り、部屋着に着替える。この連休中、葵と優香は槇家に泊まっていた。引っ越しの準備は徐々に始まっており、少しずつ小さな荷物から運んでいるようだが、玲華は未だに葵が私物を持ち込んで部屋に置いているのを見たことがない。リュックサックに文庫本一冊と教科書やノート、参考書などを入れている程度だ。
部屋着に着替えると一気に疲れを感じる。それでも気が緩むわけではなかった。むしろ手に汗をかくくらいだ。
ノックの後、短い返事が聞こえる。玲華はゆっくりとドアを開けた。そこには部屋の換気のために窓を開けようとしている葵がいた。その姿が蘭に似ていてあまりに懐かしく、玲華はこれから聞こうとしていた言葉を飲み込みそうになる。
「どうしたんですか、ぼーっとして」
「……ううん、なんでもない」
この部屋には机と呼べるようなものは脚の短い丸テーブルと、一人で座るように壁に向かって置かれた勉強机しかない。よって、クッションを敷いて向い合せで座るか、ベッドに腰掛けて並んで座るかのどちらかだ。少し考えて、玲華は後者を選択した。
陽は少し傾いているが、まだ月が見える時間ではない。陽の沈む時間帯がだんだん遅くなっていて、少しずつ夏が近づいているのを感じた。
「それで、話ってなんですか? 雑談って雰囲気でもないみたいですけど」
ここで躊躇しても仕方がない。玲華は息を吸って、吐く動作に言葉を乗せた。
「昔の葵さんのこと、聞きたくて」
「……昔って言われても、何から話せばいいのか——」
「お姉さんとのこと、知りたいの。愛花さんとのこと」
目を見て言えなかったことを後悔した。葵が今どんな顔をしているのかわからない。しばらくの沈黙の後、先ほどよりも小さく渇いた声で葵は言葉を紡いだ。
「……一つ、聞かせてください。姉とのことを知ってどうするんですか。昔のわたしを知って、どうするんですか?」
語気が少しずつ冷たく鋭利なものになっていく。喉元に氷でできた剣を向けられているようだった。ここで怯んではいけない。玲華はお腹に力を入れて葵を真っ直ぐ見据えた。
「聞く権利があると思ったの。葵さんの姉として」
葵は大きく目を見開いた後、眉間に皺を寄せて唇を噛んだ。
「随分と傲慢なんですね。わたしにキスをされても、何とも思わないくせに。自分の妹は蘭さんだけだって態度をとりながら、こんな時だけ姉気取りだなんて」
「都合が良すぎるのはわかってる。それでも私は、葵さんのことを放っておけない」
「それはわたしが蘭さんに似ているからですか? それとも玲華さん、あなたに似ているからですか?」
そう言った葵の目は、凍りつくほどの温度を孕んでいた。玲華は「違う」と言おうとして唇を動かしたが、声にならない。その瞳に当てられて、もう一度唇に力を入れてようやく出た声は自分でも驚くほど小さかった。
「……脚本を完成させるの、やめられないかな」
その瞬間、二人の間に流れる時間が止まったように見えた。部屋中の空気が葵を起点にして凍りついていく。勉強机に置かれた時計の秒針音すら聞こえない。まるで時間が凍ってしまったように感じるほどの静寂が訪れた。
その静寂を破ったのは、葵の笑い声だった。ふつふつと腹の底から湧き出るようなその声は、とても渇いていて驚くほどに冷たかった。玲華は冷気を纏ったその笑い声に全身を刺されるような感覚を抱いた。見てはいけないとわかっていても、葵から目が離せない。だんだんと大きくなっていく葵の笑い声に比例して、部屋の温度がどんどん下がっていくのを玲華は肌で感じていた。一頻り笑った葵は、色の失われた瞳で玲華の心臓を突き刺した。
「玲華さん、やっぱりあなたはわたしと似ている」
そうして葵は目を細めて笑顔を作った。顔に笑顔を貼り付けたと言った方が適切かもしれない。
「玲華さんはわたしがこの脚本を完成させることで、姉への思いを断ち切ってしまうのが不安なんですよね? でもそれは逆です」
葵の手が玲華の頬に触れる。その手は驚くほど冷たく、玲華は全身で鳥肌が立つのを感じた。
「わたしは姉の作品を完成させることで、姉に認めてもらえる。それが瀬乃葵としての意思なんです。こうすることで、やっとわたしは完成される」
葵が目を閉じて顔を近づけてくる。玲華は動くことさえできなかった。心臓が苦しいのは、呼吸が浅くなっているのを教えてくれているからなのか、葵にキスをされたからなのかわからなかった。
「玲華さん、あなたの妹になりたいのは、それがわたし自身を形成するパーツの一つだからです。妹という属性が不可欠なんです。妹として愛されることが必要なんです」
「……わからない。わからないよ葵さん。どうしてそこまで……」
「本当はわかっているはずです、玲華さん。ただ目を逸らしているだけ。あなただって、姉として妹に愛されることを望んでいるはずです」
「違う、私は——」
葵がもう一度玲華の唇を塞ぐ。そしてゆっくりと離した。
「二人で幸せになりましょう、玲華さん。安心してわたしに身を委ねてください。わたしに蘭さんを重ねるの、難しいことじゃないでしょう? だってわたしは蘭さんに似ているのだから」
葵は笑顔を貼り付けたまま、薄くなった目を開けて玲華を捉えた。相変わらず色の無く鋭い瞳に、光が宿ることはない。葵は再度顔を近づけてきた。
「……やめて。お願いだから、やめて……!」
玲華は力を入れて葵を跳ね除けようとする。体重をかけてくる葵を玲華は少しずつ押し返していった。
「どうしてわたしを拒絶するんですか? わたしの言う通りにすれば、わたしも玲華さんも幸せになれるんですよ? ずっと夢を見続けることの何がいけないんですか?」
「……それは本当の幸せじゃない。蘭はこんなこと望んでない。愛花さんだって、こんなこと——」
「聞きたくない」
葵は玲華から離れて立ち上がり、玲華を見下ろした。
「死人に口なし。口があればわたしだってこんなに悩まずに済んだのに……」
そう言った葵はとても寂しそうで、震える手をもう片方の手で抱えるようにして押さえつけていた。その様子に、玲華は心に引っかかっていたあの日の葵の姿を思い出す。脚本を完成させると言った部室でのあの日の表情や声を。
葵が部屋の扉を開ける。去り際に玲華の方を肩越しに見て、はっきりとした声でこう言った。
「脚本は完成させます。玲華さんにも、邪魔はさせませんから」
そうして葵はいつもより少し大きめな音を立てて扉を閉めた。一人取り残された玲華は、蘭の部屋で膝を抱えた。
葵さんの言う通りだ。葵さんに蘭を重ねておきながら、過去に囚われた葵さんを解放できるなんて考えが甘かった。玲華は眉根を寄せて歯を食いしばった。
葵さんが何としてでも愛花さんの脚本を完成させるなら、私がそれを邪魔しても意味はない。それなら、私は私なりの答えを葵さんに伝えるしかない。脚本は完成させる。葵さんも幸せにしてみせる。だけど、そのためには捨てなければならないものがある。
玲華はスマートフォンを取り出し、葵にメッセージを送った。
『協力するよ、葵さん』
程なくして、葵からのメッセージを受信した端末が光った。玲華はベッドに仰向けで横たわって端末を顔の正面に向ける。
『それは、どういう意味かわかって言ってるんですか?』
『うん。私は葵さんの姉になる』
次の返事を確認する前に、玲華は目を閉じた。
「ごめんね、蘭——」
太陽が夜に堕ちていく。もう蘭の部屋に光が入ることは無かった。




