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まだ赤信号

 ——ごめんね、由紀ちゃん。

 大好きだった人から告げられた言葉は、十四歳の由紀にとってはあまりに残酷だった。

 いつからそうだったのか由紀はあまり覚えていない。いつの間にか好きになっていた。その感情が恋と言うのかさえわからなかった。それでも伝えることに意味はあると思っていた。

 ——由紀ちゃんのこと、そういう目で見られない。

「だって私たち、女の子同士でしょ?」

 耳元で聞こえた声に、由紀ははっと目を開ける。明かりの消えた部屋では、その瞳で何かを捉えることはできなかった。だが実際に見なくとも、誰もいないことは明白だった。ここは由紀の部屋であるし、それ以前に家であるから、家族以外はいない。もし見知らぬ人が侵入していたとしたら、由紀の耳元でそんな性格の悪い言葉を囁く前に殺しているだろう。

 そこまで考えて、由紀は息をふっと吐く。そしておでこに手の甲を当てて呟いた。

「そんな御託を並べる余裕はあるみたいね……」

 もっとも、由紀にはそれ以上に確信があった。耳にこびりついたあの声を、あの言葉を、忘れることなどできない。だからそれが現実ではなく夢であることは、由紀自身が一番よくわかっていた。

 由紀はベッドから抜け出してキッチンに向かった。戸棚からコップを取り出し、蛇口をひねる。コップに水を注いで、半分ほど一気に飲んだ。キッチンについた白い蛍光灯が、由紀の顔を青白く照らす。

 十五になる春、由紀はそれまでずっと秘めていた想いを、卒業の寂しさに当てられて伝えてしまったのだ。

「えっと……それは由紀ちゃんが私に恋愛感情を抱いてるってことでいいのかな……?」

 小さい頃から憧れていた、従姉の夏向(かなた)ちゃんが高校を卒業して遠くに行ってしまう前に、この気持ちを伝えておきたかった。胃がキリキリ痛むのと同時に胸は高鳴っていて、とにかく全身が忙しかった。

 由紀にとって夏向は世界そのものだった。四つ離れた由紀と夏向は、家が近所なこともありよく一緒に過ごしていた。夏向はとにかくいろいろなことに興味を持ち、何でもやってみせた。公園で砂遊びをしたり、二人で同じ本を読んだり、一緒に勉強したりした。そのおかげか、由紀自身の成績は由紀が中学に入る頃には飛び抜けて良くなっていた。

 二人でいるのが当たり前だった。それが卒業を機に離れ離れになってしまう。ただそのことが嫌だった。堪えられなかった。その時初めて、由紀は夏向の心を手に入れたいと思っていたことに気がついた。

「気持ち悪いかもしれないけれど、夏向ちゃんが欲しいの」

 感情が思考と切り離されて宙に浮いているような気分だった。どこかで自分を客観視しているようで、その自分すらも内から湧いてくる感情に呑まれそうだった。自分がどこに立っているのかもわからない。ふと足元を見ると、内側に向いたつま先が仲良くくっついていて、このまま私たち二人もくっついてしまえばいいのにと思った。

「ごめんね、由紀ちゃん」

 そんな由紀の淡い心は打ち砕かれて終わった。あの日、夏向に想いを伝えたことが正しかったのかは未だにわからない。あれから二年、由紀と夏向が連絡を取ることは無かった。避けられているとは思わない。お互いに今さら何を話していいのかわからないだけだ。それでもあの日のことは、あの日言われたことは、由紀の中で綺麗に消化できているわけではない。

 私がもし、夏向ちゃんの従姉妹じゃなかったら。私がもし、男の子に生まれて、夏向ちゃんの身内にならずに彼女に出会うことができたら。結果は違うものになったのだろうか。

 ——それは違うと思うな。

 この問いを繰り返す度に、由紀は玲華の言葉を思い出す。夏向にフラれてから、元々億劫だった人付き合いが余計に面倒になり、クラスに仲の良い友人がいなかったことも相まって由紀は一人で行動することが多くなった。幸い三年生という受験期だったこともあり皆周りを気にする余裕などなく、いじめに発展することはなかった。

 そんな中、由紀はクラスに自分以外にも一人で行動している少女を見つけた。彼女は授業中こそ積極的であれど、休み時間には一人で外に出て空を仰いだり、寂しそうな顔で図書室から借りた本を読んだりしていた。中でも印象的だったのは、時々彼女は机に顔を埋めていて、それが始業のチャイムとともに上がると、瞳にいっぱいの涙を溜めて目をこすっていた横顔だった。それは眠さのせいというより、悪い夢を見て泣いている子どものようだった。

 彼女は学年で一番成績が良いことで有名だった。もちろん由紀もその名を知っていた。そんな学年一の才女が、なぜそんな悲しそうな顔をするのか。深い悲しみに満ちた瞳に、横顔に、いつしか由紀の興味は吸い込まれるように注がれていた。

「ねえあなた、よく私のこと見てるけど何か用?」

 今日も退屈な授業時間を、彼女の横顔を覗くことに注力していると、向こうから声をかけられた。近くで見ると、なるほど由紀の興味を惹くだけの美しさがあった。特に切れ長の目が美しい。そんなことを考えながら、由紀は先ほど投げかけられた質問への解を探していた。

「私は中川由紀よ。よろしく」

 とりあえず自己紹介をしたのだが、その様子に目の前の少女は目を丸くし、そして頬を軽く引きつらせて困り顔をした。

「……何か変なこと言ったかしら?」

「いや、よくこの状況で自己紹介ができるなと思って」

 ああ、と由紀は納得したように頷いて、言葉を続けた。

「ごめんなさい。質問に答えてなかったわね。特段用はないけれど……そうね」

 由紀は顎に手を当てて逡巡した。当たり障りのないことを言ったほうが良いか迷ったが、正直に答えることにした。

「あなたに興味があって。よければ放課後、少し話さない?」

 その発言に余計困惑したように眉根を寄せた少女だったが、すぐに社交辞令を貼り付けた顔をして頷いてくれた。

 その日は放課後になるまで彼女の横顔を覗き見るのはやめにした。そのせいかわからないが、由紀は時間の流れがいつもより遅いように感じた。ずっと見るだけだった彼女と話せることに、少しだけ胸の高揚を覚えていた。

「私は槇玲華。よろしくね、中川さん」

 待ちに待った放課後、席で待っているとセーラー服のリボンを揺らしながら前の席に玲華が腰掛けた。

「それで、私に興味って何? 成績の上げ方なら教えられないよ」

「結構よ。気づいてないかもしれないけれど、私も成績は良い方なの」

 玲華は目をぱちぱちとさせた。少し肩が強張っている気がする。由紀は自分に対する警戒心を玲華から感じ取った。当たり前だ。初めて同じクラスになったのに、授業中にずっと同じ子から視線を感じて声をかけると「興味があるから話したい」なんて言われたら、気味が悪いだろう。

「ごめんなさい。嫌味を言ったわけではないの。それから、あなたに興味があるというのも本当よ」

 そこに他意はないわ、と付け足して、由紀は話を続けた。

「あなた、いつも寂しそうにしているのに一人でいるからどうしたのかなと思って」

 玲華は静かに由紀の言葉を待っていた。それだけでは納得しないというような無言の圧を感じる。由紀は自分の想いを包み隠さず話すことにした。

「時々机に伏して泣いている時があるでしょう? それに、誰かを思うように空を仰いでいることもある。単純に気になってね。私がこれまで聞いてきた槇さんのイメージと違っていたから」

「……あなたの聞いてきた私のイメージって?」

「それなりに明るくてそれなりに元気で、あと頭が頗るいい」

「最後以外ただの一般人じゃん」

「頭が良い自覚はあるのね」

「あなたの言葉を借りるなら、それなりにね」

「私は頗ると言ったのよ」

 そこまで言って会話は途切れた。一瞬の間があって、二人は肩を揺らして笑い合った。

「最初は相当変な子なのかなって思ってたけど、当たってた。でも面白いね、中川さん」

「あなたも、もっと堅物というか近寄り難い人だと思ってたわ」

 玲華はそこで初めて笑顔を見せた。大人びた顔とは裏腹に笑うと歳相応に見えるなと思うと、由紀は胸の辺りに不思議な感覚を抱いた。おそらくそれが、由紀が玲華に橙色の気持ちを抱え始めたきっかけだったと思う。

 それから二人は、よく一緒に行動するようになった。移動教室の時に一緒に移動したり、休み時間に話したり、一緒に下校したりした。休日も時々会うようになった。買い物をしたり、由紀の家で遊んだり、一緒に勉強をしたりした。

 気づけば季節は本格的に夏になる手前で、雨が多くなっていた。その日も、いつものように由紀の家で試験前の勉強会をしていた。

「そういえば玲華の家には行ったことないわね」

 何気なく呟いた由紀の独り言に、玲華が驚いたように肩を跳ねた。そしてバツが悪そうな顔をして「うちはちょっとね」と答えた。

「いいのよ、無理に行きたいわけではないし」

「ごめんね。色々と事情があって……」

「……もし差し支えなければでいいのだけど、聞きたいわ。その事情について」

 玲華は少し困ったように、そして寂しそうに笑った。その表情を見ると、出会った頃の玲華を想起させる。あの頃の玲華は、毎日のようにずっと独りでその寂しさを抱えていた。だから由紀は、今度こそ隣で支えてあげたいと思ったのだ。一人では重くても、二人ならきっと大丈夫だと。

「つまんない話になるよ。それでも聞きたい?」

「愚問だわ」

 由紀は息を抜いて笑顔を作った。その笑顔に絆されて、玲華がすべて話してくれるようにと願った。

「うちは……父と二人暮らしなんだ。私が幼い頃に両親は離婚して、年子の妹と一緒に父に引き取られた。そこからは三人で仲良くやってたよ。でも——」

 玲華は努めて明るく笑ったが、その声は震えていた。

「妹が病気になったの。なんかよくわからない名前の長い病気でさ。治療は難しいって言われた。それで、今年の春亡くなったの」

 玲華は目を伏せた。そこに先ほどの取り繕った笑顔は既に無く、悲しみを湛えた瞳があった。

「妹は料理が得意で、いつも学校から帰ってきたらご飯を作ってくれてた。その他の家事は私と父さんで分担して、忙しかったけど楽しかった。でも突然だった。余命半年だって言われて。妹はそこから示し合わせたようにしっかり半年後に遠くに行ってしまった」

 だんだんと痛ましさの増してくる玲華の表情を見ると、由紀まで胸を締め付けられるようだった。大切な人が遠くへ行ってしまう感覚は、由紀にも覚えがあった。もっとも、その人はまだ生きている。連絡を取ろうと思えば取れる距離にいるが、そこには越えられない生死の壁と同じように分厚くて大きな壁があるように感じていた。

 ぱん、と軽く手を叩く音がした。はっとして由紀が音の主を見ると、玲華が向かいで手を合わせて笑顔を作っていた。

「はい、つまんない話終わり。そういえば私も由紀に聞きたいことがあるんだけど」

「内容によっては答えられないかもしれないけれど……なに?」

 怪訝な顔をして玲華の言葉を待っていると、至って真剣な表情で玲華は言葉を紡いだ。

「由紀ってさ、私以外に友達いないの?」

「……は?」

「気に障ったならごめん。だって最初に私が声をかけた時も一人だったし、この二、三ヶ月私以外の人と行動してるの見たことないもん。あと、なんだか人間関係を構築するのすごく面倒くさそうにしてる感じする。何かあった?」

 由紀は軽くため息を吐いた。目を閉じて軽く息を吸って、重くならないように返答する準備をした。

「まあ、ちょっとね。仲間外れにされているわけではないわ。人間関係が面倒だっていうのは、当たらずといえども遠からずって感じね」

「……私とはいても平気?」

「ええ。平気よ」

 由紀は前髪の端を耳にかけ、顔の火照りを感じながら付け加えた。

「私は選んであなたと一緒にいるのよ。誇りに思いなさい」

「傲慢だね、由紀は。でもありがとう」

 玲華が嬉しそうに笑った。普段は大人びて静かな表情をしている玲華だが、心から笑うと歳相応に見えてかわいいなと改めて思う。

「人間関係を構築するのが面倒だというよりは、その必要を感じなくなったのよ。無理に人と仲良くしなくてもいいと思っただけ」

 由紀は玲華に聞こえるか聞こえないかの小さな声で呟いた。

「それはそうだけど……でも私にはそれが由紀の本心には見えないな」

「どういう意味かしら」

「そのままだよ。だってそんなこと言う人が、さっきの私の話を聞いてあんなに寂しそうな顔なんてしないもん」

 由紀は咄嗟に顔に手を当てた。そんなに酷い顔をしていたのだろうか。玲華は真剣な表情で由紀を見つめた。その瞳は、由紀の凍った心を氷解させるほど熱を帯びていた。だから、つい変なことを口走ってしまう。

「……玲華は、自分が女性じゃなくて男性に生まれていたら良かったと思ったことはある?」

 突然投げかけられた質問に、玲華は目をぱちくりさせてきょとんとした顔をした。

「私はあるわ。ただそれだけの話よ」

 玲華は口を少し開いて何かを言いかけたが、すぐに噤んで俯いた。そしてしばらくしてから、覚悟を決めたように顔を上げて、由紀の瞳を捉えた。

「それは違うと思うな」

 由紀は顔を顰めた。思わず怒気の含んだ声を出してしまう。

「あなたに何がわかるっていうの?」

「わかる、わかるの。それは違う。由紀が誰を好きになってその思考に至ったのかわからないけど、でも——」

「勝手に決めつけないで!」

 二人を挟む丸テーブルに、由紀が物凄い剣幕で思い切り手をついた。汗をかいた二人分のグラスが揺れる。

「……ごめんなさい……」

「……ううん、いいの」

 長い沈黙が二人を覆った。部屋の空気はどんどん重くなっていき、由紀の心にのしかかってくる。口を開こうとしても、上手く動かない。頭の中は伝えたいことでいっぱいなのに、いざ言葉にしようとすると唇がそれを跳ね返す。

「今日は、帰るね……」

 結局、先に口を開いたのは玲華だった。玲華は荷物をまとめ始めた。引き留めようとしても上手く声が出ない。当然だ。自分で自分の首を絞めてしまったのだ。玲華の横顔を覗き見ると、その睫毛が寂しげに揺れていた。

 玲華は悪くない。それでも、由紀の中で触れられたくない部分に玲華は触れてしまった。触れさせてしまった。腹の中に手を入れられて、ぐちゃぐちゃとかき混ぜられたような気分だった。その一点の引っかかりが、由紀の唇に、心に、鍵をかけてしまった。

 ここで玲華が帰ってしまったら、どんな顔をして明日から会えば良いのだろう。どんな風に学校で過ごせば良いのだろう。せめて「待って」の一言でも言えば良いのだ。そうだ、「待って玲華」と言えば。

「……お邪魔しました」

 掠れた声で玲華は別れの挨拶をし、由紀の家を後にした。その後ろ姿を見送ってから、由紀はそのまま力なく倒れ込んだ。

 家に自分以外誰もいなくて良かった。あの剣幕を家族に聞かれていたら、後で問い詰められることになっただろう。実質的には由紀が玲華を追い出す形になったのだから。

 明日、どんな顔をして玲華に会えば良いのだろう。教室でまた一人、退屈な時間を過ごす羽目になる。彼女の横顔を覗き見ることさえ許されない。いっそしばらく学校を休んでしまおうかとも思うが、成績に響きそうなのでやめた。

「結局私は、自分のことしか考えられないのね……」

 こんな時にまで成績や保身のことを考えていられる自分に嫌気がさした。玲華と由紀、どちらが悪いのかと聞かれても、恐らくどちらも悪くないということは由紀にもわかっていた。そこまで理解しているのに、感情の部分が、理性ではない部分が、玲華への思いを募らせていく。

 翌日、由紀は重い胃を擦りながら登校した。玲華は既に来ていたが、二人が目を合わせることはなかった。

 玲華は何を思って、あの時あんな言葉を発したのだろう。どうして私の気持ちがわかるなんて言葉を口にしたのだろう。先日よりは幾分冷静になった由紀の心は、不安と自責の念で覆われていた。私の気持ちがわかってたまるかという我ながら幼稚な理由で声を荒げてしまったことを後悔しているが、それでも素直に謝れないのはそれが由紀にとって大事な感情で、簡単にわかってほしくないものだからであった。決めつけないでと言っておきながら、決めつけてしまったのは私の方だったかもしれない。ここで玲華に向き合うことは、自分自身と向き合うことになるだろう。その覚悟が、由紀にはまだできなかった。

 結局由紀は一週間、悶々とした気持ちを抱えて玲華の背中を見つめることになった。今の席の位置なら、玲華が振り向きさえしなければ顔を見ることはない。試験前だというのに、勉強は全く頭に入って来なかった。今日も黒板と玲華の背中を斜め後ろから交互に見ているだけで、一日が終わるはずだった。

「由紀、ちょっといいかな」

 鞄を肩に通したところで、玲華が由紀の後ろ姿に声をかけてきた。由紀は少しだけ首を後ろに傾けて、聞こえるか聞こえないかの大きさで「ええ」と呟いた。まだ後ろを振り向く勇気はない。由紀は前を向いたまま家路へ歩き出した。すぐ後ろに玲華がついて歩く。由紀はいつもより歩幅を狭くし、歩く速度も落とした。

 梅雨開けが近いのか、今は幸い雨は降っていなかった。閉じた傘を右手に握り、今朝降った雨のせいで濡れている道路を一歩一歩踏みしめながら歩いていく。空はどんよりと暗く、今にも泣き出しそうだった。

 まだどちらも口を開く気配はない。いくらいつもの半分程度の速度で歩いているとはいえ、刻々と二人の分かれる道が近づいてきていた。空を見上げても重苦しい空気に覆われていて、まるで由紀の心の中を再現しているようだった。

 二人の足が止まる。信号は赤だ。玲華が横に並ぶ。由紀より五センチ以上高い背が、今は同じくらいに見える。いつも授業中に見ていた横顔を盗み見た。。それはいつの間にか隣にあって、気づけば正面から見る機会も増えていた。それなのに最近は背中ばかり見るようになってしまった。いつの間にか玲華は前を歩くようになって、私の手の届かないところへ行ってしまうのだろうか。由紀は夏向の背中を思い出した。最後に見た夏向の背中は、とても寂しそうだった。その寂しさを湛えたまま、由紀は彼女を送り出してしまった。

 過去の選択を過ちにしないために、今がある。ここで行動しなければ、過ちを認めるだけでなく新たな過ちを増やしてしまうことになる。それなら私がかける言葉は一つしかない。由紀は息を吸って唇を噛んだ。

「ごめんなさい、玲華」

 信号が青になった。俯いていた玲華が顔を上げて驚いたように由紀を見る。その視線を感じながら、由紀は信号が赤に変わる前に歩き出した。慌てて玲華が由紀の背中を追う。そして信号を渡り切ったところで二人は再び横に並んだ。

「ううん、私の方こそごめんなさい。言葉が足りなかった」

 玲華は強張った頬を少し緩めて微笑んだ。

「由紀に話したいことがあるの。聞いてくれる?」

「ええ、もちろんよ。私もあなたに話したいことがある」

 由紀は目を細めて笑った。上手く笑えているかはわからないが、玲華の表情を見る限り心配はいらないだろう。

 結局そのまま二人は別れることなく、由紀の家に向かった。鍵を開けて部屋へ案内する。この時間ならまだ両親は帰ってこない。由紀が自身の秘密を話すのには都合が良かった。

「さて、何から話そうか……」

 出された麦茶に一口つけてから、玲華は姿勢を正して呟いた。

「由紀に質問なんだけど……女性じゃなくて男性に生まれたら良かったって思ったきっかけは何?」

 急に核心を突いた質問をぶつけられて由紀はたじろいだ。でも、話すと決めたのだ。由紀は一度呼吸を整えてから、極めて冷静に言葉を選び始めた。

「変な話かもしれないけれど……四つ上の従姉がいて、簡単に言えばその子を好きになってしまったの」

 玲華の表情をちらりと見る。玲華は目を伏せ、由紀の話に耳を傾けていた。今のところ玲華に大きな変化はないので、話を続けることにした。

「告白したけど見事にフラれたわ。『だって私たち、女の子同士でしょ』と言われてしまって。それからは連絡も取ってないし、顔も見ていない。ただそれだけの話よ」

「……そっか。うん、わかった」

 玲華は伏せていた目を由紀の方へ向け、少し表情を崩してから口を開いた。

「私ね、妹に恋をしたの」

 その一言は由紀の胸を揺さぶるのに十分だった。由紀は自分の瞳孔が開いていくのを感じた。

「変でしょ? 私も変だなって未だに思う。これがただの家族への愛だったのか、本当に恋愛感情だったのかも、今は確かめようがない。でもね、初めて妹とキスをした時、信じられないくらい胸がドキドキして、唇が熱くなって、そして幸せだった。満たされたような気がした」

 玲華は胸に手を当てて、何かを確かめるような仕草をした。瞳が熱を帯びていて、由紀にはそれがなぜかとても美しく見えた。

「だからね、私は自分が槇玲華として、あの子の姉として生まれたことを後悔してはいない。もしかしたらあれは一過性の感情で、私も妹もその先普通に人を好きになって、結婚して、初めてキスをした日のことなんて忘れちゃうかもしれない。それでも私は、あの子の姉として生まれなければきっとこの感情を知らなかった。だから血が繋がってるとか女の子同士だからとかは関係ない。だって私は姉として生まれなければ、あの子に出会うこともなかったかもしれないんだもん」

 玲華の瞳が由紀を捉える。熱っぽくキラキラした瞳を見ると、由紀は胸が苦しくなった。どうしてこの子はこんなに真っ直ぐ生きていられるのだろう。

「……そんなの綺麗事よ……」

「そうだね、綺麗事かもしれない。でもこの気持ちだけは本物だと思わない? 由紀が従姉妹のお姉さんを好きになった気持ちにだけは、嘘を吐かないでほしいって思うな」

 そうだ。そんなのはただの綺麗事だ。玲華だって本当は、妹さんと別の形で出会って、お付き合いしたかったに決まっている。でも、そんな玲華を、いやそんな玲華だからこそ、私は。彼女を、槇玲華という人間を美しく思ってしまったのかもしれない。自分の気持ちを受け入れて、前を向いている彼女を。

「でもね、そう思えるようになったのは由紀に出会ってからだよ。ありがとう」

 突然自分の名前が出たことに由紀は怪訝な顔をした。疑問の眼差しを向けると、玲華は言葉を続けた。

「妹がいなくなって、私は本当に世界で一人ぼっちになったような気がしてた。でもね、私に興味を持ってくれる人がいたから、今の気持ちを受け入れることができたんだ」

 玲華が由紀の手を両手で包んだ。玲華の体温を感じる。温かくて心地良かった。由紀は自分の心が絆されていくように感じた。

「だから由紀、これからもずっと友だちでいてね」

 その言葉の重みを、当時の由紀は知る由もなかった。ずっと友だちでいることの難しさを、今になって思い知る。心の額縁に入れて大事に飾っている言葉を思い返すうちに、だいぶ夜も更けてしまっていた。

 由紀はコップに残った水を飲み干した。あれから二年経った今も、玲華のあの言葉が呪いのように由紀の心を縛りつけている。

 玲華は自分の気持ちを受け入れて、前に進んだ。それなのに私は、夏向ちゃんのことも玲華のことも受け入れられないでいる。いつの日か玲華を好きになってしまった。今はまだ友だちとしていられているが、この関係がいつ壊れてしまうのかわからない。それを壊すのは私かもしれない。

 玲華に好きだと言える未来は、せめて明るくあってほしい。そのために今の私にできるのは、玲華に手を差し伸べることだけだ。エゴだと言われようとも、偽善者だと思われようとも、私は私のために玲華を支える。

 すっかり冴えてしまった脳を少しでも休ませようと、由紀はベッドに戻った。目を閉じて、呼吸を深くしていく。良い夢が見られるように願って、由紀の意識は闇に消えた。

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