誇りを胸に
ベッドに仰向けになったかな子は、両腕を目一杯伸ばしてスマホと睨めっこしていた。画面には二十一時を示す丸っこい文字が表示されている。しばらく放置してバックライトが消え、時間が見えなくなるとまた横にあるスイッチを押して画面を点ける、という無意味な動作を繰り返してもう十分程度の時間が経過していた。
メッセージアプリを開き、「瀬乃葵」と書かれた文字をタップする。かな子はそこに文字を打とうと指を動かしたが、指は空中で行き場を失くしたように動かない。何と送っていいのかわからなかった。
——かな子は黙ってて。
かな子の心臓を深く突き刺した今日の葵の言葉を、未だに抜くことができずにいた。葵を支えて、葵を導くことは自分にはできないのだと改めて思い知らされた。それでも自分にできることがあるはずだとスマートフォンを開いたのだが、結局のところ何もできずにいる。
「一年半じゃ、まだ引きずってるか……」
一年半前の秋。葵の口から、かな子は彼女の姉が亡くなったことを聞かされた。空が落ちてくるような感覚を抱いたあの衝撃を、かな子は昨日のことのように思い返すことができる。
鬱陶しい。それが葵に対するかな子の第一印象だった。
入学して一ヶ月、どこのグループにも参加しようとせず、教室で一人読書をするかな子に声をかけてきたのが葵だった。今思えば、人との関わりを拒絶するように本を開いていた自分は異端だったのかもしれない。それでも当時は、友人を連れてお手洗いに行くより一人で本を読んでいる方が何倍も幸せだった。
「ね、何読んでるの?」
かな子は本から一度目を離す。後ろで結われた髪を揺らしながら、葵はかな子の前の席に座った。それに答える代わりにかな子は本を立てて表紙を見せる。だが、葵はあまり本に興味を示さなかった。
「茂木さん……だったっけ?」
「うん」
かな子はあくまで本から目を離さずに、葵に返事をした。何故葵がかな子の名前を知っているのかなどと言って会話を掘り下げることはしない。それがかな子なりの拒絶の意志だった。あなたと話すより私は読書がしたいです、と。
これでもう葵は声をかけてこないだろう。そもそも教室で本ばかり読んで根暗にしか見えない私に、これ以上関わろうとする人なんていない。そう踏んでいたかな子だったが、少し後ろめたい気持ちが無いわけではなかった。
人と話すのが嫌なわけではない。ただ、集団の中で人の話を聞いたり、学校の外でもスマホでメッセージのやり取りをしたりするのが苦手なだけだ。それに、みんなでいるより一人で過ごす方が心地よいと感じる時間が多いだけで、孤独が好きなわけではなかった。だから本の世界に逃げてしまう。寂しいから、本を読んでいるのかもしれない。
「昨日のテレビ見た?」
その素っ頓狂な質問と態度にかな子は思わず顔を上げてしまった。もう話しかけてこないと思っていたので、目を丸くして葵を見つめてしまう。それを見て葵は片方の口角を上げて目を細めた。
「やっとこっち見てくれた」
「……どうして私に構うの」
「んー、どうしてかな。いつも寂しそうにしてるからかも?」
「それって——」
葵が伸びをしたのと同時に、教室にチャイムが鳴り響く。かな子の言葉はチャイムの音にかき消されてしまった。葵は振り返ることなく自分の席に戻っていった。
同情なら、鬱陶しいと思った。同情で話しかけられるほど、私は人に飢えていない。孤独だし寂しいけれど、私には本がある。だが、もし同情じゃないならと考えると、かな子はむず痒さを覚えた。もしかしたら入学して初めての友人ができるかもしれない。
そんな淡い期待は、その日の内に打ち砕かれてしまった。休み時間や昼食中、掃除の時間にも葵の周りには常に人がいて、その中心にいる葵は笑っていた。やっぱり私には同情で声をかけたのだ。それかクラス全員と仲良くなることがステータスだと思っているタイプの人間なのだろう。
ここまで考えて、かな子は自分の胸を拳で叩いた。どうしていつもそんなひどいことを考えてしまうのか、自分でも嫌になる。少なくともこんなことを考えてしまう自分より葵はいい人だ。だから周りから好かれるのだ。私と彼女は、住む世界が違う。
実際それから一週間、葵がかな子に声をかけることは無かった。何も変わらないかな子の日常が訪れた。一人で本を読み、放課後は部活をして帰る。ソフトテニスをしている間は、余計なことを考えずに済むのでよかった。それでもかな子は運動が得意なわけではなく、体を動していると気分がすっきりするし、居心地も悪くないという理由で仮入部していた。
しかし、そんなかな子の日常を壊したのは、またしても葵だった。仮入部期間が終わり、正式な入部となる五月中旬頃のことだ。それまで一度も体験入部にすら来なかった葵が、急に部活に現れた。もしかして知らなかったのは私だけかもしれないとも思ったが、同じクラスで同じソフトテニス部の子が葵に寄っていった。その子と一通り話してから、葵がかな子の方に近づいてきた。
「よろしくね、茂木さん」
葵は笑顔を貼り付けた。聞きたいことはたくさんあった。それでも振り絞るように出た声で聞けたのは一つだけだった。
「どうして、ソフトテニス部に入ろうと思ったの」
「茂木さんがいるから、かな」
その返答を聞いたかな子は、顔が熱くなった気がした。頭に血が昇って視界が滲む。この人はどこまで私を馬鹿にしたら気が済むのだろう。葵を睨むために彼女の顔を見たかな子は、一瞬で血の気が引いていくのを感じた。葵は目を伏せて、とても寂しそうな顔をしていた。それはまるで、教室の隅で本を読んでいる時のかな子の表情と相違なかった。
「瀬乃さん……?」
「ああ、ごめんね。冗談だから、さっきの」
そしてまた葵は貼り付けるような笑顔をした。かな子は、葵との間にある見えない壁にぶつかった気がした。それでもここで言わなければ、手を伸ばさなければ、自分も葵も前に進めないという自覚があった。
「せ、瀬乃さん。私たち……友だちにならない?」
葵は驚いたようにじっとかな子の瞳を覗き、そして笑った。
「変な人。私たちもう友だちでしょ?」
「う、うん。友だち」
葵のその笑顔は、先ほどのように貼り付けたものではなく心から頬を崩して笑っているように見えた。葵は目尻に涙を溜めてしばらく笑っていた。
その後、葵は毎日部活動に精を出していた。そのせいもあってか葵はどんどん頭角を現し、一年生ながら秋の大会ではレギュラーに抜擢された。教室では葵と話す機会もあまり無いかな子だったが、部活の時はそれなりに話したり、一緒に帰宅したりする時もあった。葵はあまり自分のことを語ることは無く、代わりに葵の姉の話をよく聞かされた。
「でもね、最近お姉ちゃんと全然話せてなくて」
陽が短くなり、柔らかく冷たい空気が街を包む頃、葵が珍しくかな子にそうこぼした。
「最近っていうか、わたしが中学生になってからなんだけど」
「喧嘩でもしたの?」
「そういうわけじゃなくて。お姉ちゃん、高校に入って忙しいみたい」
「もしかして葵が急に部活に入ったのってそれが理由?」
葵はばつが悪そうに俯いて、肯定の意を示した。
「打ち込める何かが欲しくて。そうしたら寂しさを埋められるかなと思ったんだけど、やっぱりダメ。でもね」
葵は夕陽に頬を染めて、少し恥ずかしそうにしながら言葉を続けた。
「わたしがソフトテニスを続けられてるのは、かな子がいるからだよ。ありがとう」
かな子は目を瞬かせた。急に耳に入ってきた自身への感謝の言葉が、すぐには理解できなかった。だからこう返すしかない。
「それは、どうして?」
「最初にかな子に声をかけた時、わたしに似てるなって思ったの。ううん、むしろ羨ましかった。わたしは周りに話しかけてくれる人がいて、それはそれで幸せなんだけど、でも窮屈さも感じてた。一人になりたい時だってあった。その時、教室の隅で本を読みながら周りの様子を探ってるかな子を見て、この子は自分の気持ちに正直に生きてるんだって思った。だから憧れてたの。それでつい話しかけちゃった」
葵が一歩前に出る。二人の間に影が線を引いた。葵の横顔を夕陽が照らしている。
「あの時冗談だって言ったけど、この部活を選んだ理由はかな子がいたからっていうのは半分本当。だからありがとう。わたしと友だちになってくれて」
葵がかな子に手を差し出す。かな子は自分の瞳が開いていくのを感じていた。こんな自分でも、誰かの役に立てたのだと思うと嬉しかった。差し出された手を握ると、葵が軽く引っ張ってくれた。かな子の瞳は、夕陽に輝く柔らかい葵の笑顔を映し出し、心臓が高鳴るのを感じた。嵐が吹き荒れていたかな子の心に、ようやく穏やかな空気が流れ始めた。
そんな平穏を壊したのは、やはり葵だった。二人が中学二年生になった秋、光を失った瞳を持った葵は、その唇を少しだけ動かして、こう言った。
「お姉ちゃん、死んじゃった。わたしのせいで」
その時の葵の表情は、無を司っているように見えるほど、感情の一切が表に現れていなかった。不気味なほどに葵は無表情だったが、それが逆に葵を壊してしまった深い悲しみを痛いほど感じられた。
手に握っていたスマホが震え、画面が明るくなる。かな子の思考は一気に現在に引き戻された。新着メッセージ、一件。
『今日はごめん。ひどいこと言っちゃって』
『気にしてないよ。葵が感情的になるくらい、葵にとっては大事なことだもん』
かな子は半分嘘を吐いた。気にしていないなんて、きっと葵には嘘だと見抜かれているだろう。それでも今の葵を責める気になんてなれなかった。
『今になって、すごく不安を感じてる。わたしにお姉ちゃんの作品を完成させることができるのかって』
葵が自分を頼ってくれているのは嬉しい。だが、葵のサポートを任されたのは玲華の方だった。顧問直々にやって来て一年生と二年生から一人ずつペアでやってほしいと言われたからとはいえ、葵でなく自分がやってもよかったし、仮に葵がやるとしてもサポートだって玲華ではなく由紀でもよかったはずだ。いや、経験値的には断然由紀がやるべきだ。しかしかな子は、心の何処かで今回の脚本は葵と玲華にしか手直しできないことも感じていた。
『大丈夫、葵ならきっとできるよ。少なくとも私と中川先輩はそう思ってる』
葵はきっとそう言ってほしかったのだろう。私が葵を導くことはできなくても、せめて背中を押してあげるくらいはしたい。それが後ろを歩く者の使命だ。
たとえこの先、自分と葵の距離が離れようとも、その時背中を押したのが自分であると誇れるように。
視界が滲む。これでいいのだと自分に言い聞かせて、かな子はゆっくりと目を閉じた。




