導く人、導かれる人
どうして、なんだろう。
——わたしの姉は、もうあなただけなんですから。
今日は第一回目の批評会で、葵とかな子のアイディア出しを手伝う日だ。雨音が屋根を打ち付ける中、玲華は部室で先日の葵の言葉を反芻していた。
あの時の葵は、とても悲しそうで、それでいて何かに苦しんでいるようにも見えた。そして葵は、玲華に妹として愛されることに執着しているようにも見えた。
どうして、妹であることにこだわるんだろう。私の妹は蘭だけで、それはきっと葵さんも同じなはずなのに。
もっと知る必要がある。葵さんのこと、葵さんのお姉さんのこと。私にはそれを知る権利があるはずだ。でも、こんな時だけ姉を気取るのはやはり傲慢かもしれないと思う。玲華の心は錨を下ろした船のように重苦しく水底に縫い付けられていた。
「こんにちは、槇先輩」
雨音がより一層大きく室内に響く。戸を開けて現れたのはかな子だった。
「こんにちは、かな子さん。葵さんは一緒じゃないの?」
「葵なら少し遅れるってグループにメッセ入ってましたよ。あと中川先輩も」
言われて玲華はスマートフォンを取り出した。新着メッセージ、三件。二人からの連絡と、それに返答したかな子のメッセージが入っていた。
「どうします? その……先に始めますか?」
「由紀が来てからにしよっか。まだ時間あるし」
そうですね、とかな子が頷いたところで、二人の間に静寂が訪れた。会話の切れ目は時間が経つにつれて気まずくなっていく。何か話題を、と考えている時間が次第に場の空気を重くしていく。
だが今日この場に限っては、かな子と二人きりになれたのは玲華にとってチャンスだった。なぜなら、今玲華が接触できる人間の中で最も葵に近いのがかな子か優香だけだからだ。少なくとも三年以上の付き合いがあるかな子なら、何か知っているかもしれない。さて、どう切り出したものか。
「……私の顔に何かついてます?」
「え、ううん……そうじゃないんだけど……いや、そうかもね。早く始めたいって顔に書いてある」
かな子は鞄から取り出して読んでいた一枚の紙で自身の顔を隠した。それを見て玲華は、かわいい後輩の力作を読んでみたい気分になった。かな子からその紙を一瞬で奪う。
「わっ……ちょっ、やめてください」
「いいじゃんいいじゃん、減るものでもないし。それに結局みんな見るんだよ?」
「心の準備ってものがあります。いきなり取り上げないでください」
その言葉を皮切りに、玲華が逃げるように席を立つ。それを見越してか、かな子も素早く自分の席を立つと、玲華に向かって飛び跳ねたり背伸びをしたりして、なんとか紙を取り返そうとする。
しかし二十センチほどの差がある二人の身長では、玲華が腕を伸ばせばいくらかな子がジャンプしてもその先に握られた紙には届かない。三、四回ほど跳ね回ったかな子は疲れてしまったのか、息を切らしながら自分の席に着いた。それを涼しい顔で見ていた玲華も、自分の席に着いて紙に書かれた文字を追う。
「どれどれ……テーマは『立場の違う恋』で、女生徒会長に憧れて生徒会に入った一年女子が紆余曲折あって最後に射止める話……これってつまり、生徒会長と生徒会役員の子が女の子同士で付き合うってこと?」
「は、はい。やっぱりまずいですかね……?」
「まずくはないけど……ちょっとびっくりした。かな子さんからそういう発想が出てくるとは思わなくて。あ、もちろん変な意味じゃないよ。アイディアがあるだけすごいことだし……伝わってるかな、私の気持ち」
あたふたする玲華を見て、かな子が吹き出して笑った。その反応に、玲華は困惑してしまう。
「槇先輩でも焦ることあるんですね。いつも余裕そうなのに」
「私の反応を見て楽しまないで……」
「さっきの仕返しです」
そうしてかな子は歯を見せて笑った。
「世の中には色々な恋愛模様がありますから。それを伝えられたらいいなと思って」
かな子は目を閉じて両手を胸の前で重ねた。それは大切に仕舞っている何かを開いて読み返しているように見えた。
「……片思い中だって、前に言ってたよね?」
「槇先輩にはまだ話しませんよ。でも……これは憂鬱な天気に当てられて出る独り言なんですけど」
かな子が窓際へ移動する。外はまだ雨脚が強く、ちゃんと耳を澄ませなければかな子の声はかき消されてしまいそうだった。
「その子は……きっと迷っているんだと思います。いつも手を引いてくれていた大切な人が突然いなくなって、どうやって生きていけばいいのかわからない。だからその面影に縋って、その面影を追いかけて、周りが見えていない。私が代わりに手を引いてあげたいけど、きっと私じゃダメなんです。隣に並んで歩くことはできても、あの子の前を歩くことはできない。だって私は、あの子にずっと手を引かれて歩いてきたから……」
同じなんです、とかな子は寂しそうに笑った。
「私はその子のことが好きなのかもしれない。でもそれが恋人として好きなのか、友人として好きなのか、まだわからなくて。でもこれだけははっきりと言えます」
かな子は目を伏せて胸に手を当てた。その目は煌々と輝いていて、頬は少し紅潮していた。眩しくてキラキラしているその顔は、あの日キスをした蘭によく似ていた。
「私は彼女を、特別だと思ってる」
「……いい物語になるといいね」
かな子はそれににっこりと笑って返した。
「だから葵のこと、よろしくお願いしますね。槇先輩」
「……どうして私にそれを言うの?」
先ほどまで玲華の周りをぴょんぴょんと跳ね回っていた後輩とは思えないほど、かな子は大人びた顔をしていた。ある種の諦観をも感じさせる表情は、蛍光灯に照らされて青白く見えた。
「槇先輩が葵のお姉さんになるんですよね?」
「聞いたんだ、葵さんから」
かな子と葵の仲なら、すでに話していてもおかしくはないだろう。しかし、返ってきた言葉は意外なものだった。
「聞いていませんよ。でも今の反応を見て確信に変わりました」
かな子は奇妙なほど目と唇を薄く細めて笑顔を作った。
「親御さんが再婚して新しく姉ができるってところまでは聞きました。それから、名字が『槇』だってことも。でもその後いくら聞いても誤魔化されたので」
「……じゃあ話が早いや。かな子さんに聞きたいことがあるの」
かな子が書いた紙を彼女から取り上げた時とは力関係が逆になっていることに玲華は気づいた。それすらも演技だったのではないかと思わせるほど、かな子の狡猾な一面を見せられた。背中からは緊張で変な汗が出て、制服が背中に張り付いていた。声が震えるのを抑えて、玲華はかな子を正面から見据える。
「葵さんは、どうしてあんなに姉という存在に……自分が妹であることに固執しているの?」
玲華はかな子の瞳を覗き込んだ。瞳の色は変わらない。
「それは多分、本人から聞くべきことだと思います。でも、葵は必要以上に自分のことを語らないだろうから——」
かな子は鞄からメモ帳を取り出し、何かを書いてから破って玲華に手渡した。メモには短く「元文芸部員、瀬乃愛花」とだけ書かれてあった。直接言わない理由を問いただそうとしたが、すぐにかな子は後ろを向いてドアの方に駆け寄って行ってしまった。
「すみません、遅くなりました……」
「いらっしゃい、葵」
そうしてかな子は首にかけていたタオルを、入ってきた葵に被せた。
「わっ、準備いいねかな子」
「今日体育だったから」
「……それ、使用済みじゃないよね」
「さて、どうだか」
その柔らかい笑顔を見る限り、冗談であることは明白だった。葵は受け取ったタオルで濡れた右肩を拭き始めた。
「ちょっと、仲が良いのはよろしいけど入り口は塞がないでくれる?」
「あ、すみません中川先輩」
由紀が軽口を叩いて手をひらひらさせながら入ってくる。その左肩は少し濡れていた。
「由紀、肩濡れてるじゃん。風邪引いちゃうよ」
玲華はかな子から渡されたメモをポケットに入れ、もう片方のポケットからハンカチを出して由紀に近づいた。
「ごめんなさい先輩。やっぱり濡れちゃいましたね」
「いいのよ。私が傘に入れなかったせいで後輩に風邪を引かれるのはいい気分じゃないもの」
由紀はいつも照れ隠しをする時、行動の原理が自分のエゴから来たものだというような言い方をする。それを由紀なりの優しさと捉えられるか、嫌味な女だと思うかで友人関係が出来上がっているのだなと玲華は感じていた。
「これ使って。私も由紀に風邪引かれたら困るし、葵さんだってそうだろうから」
少し考えた後、由紀は玲華の気遣いを素直に受け取った。
「ありがとう。それじゃあ始めましょうか」
四人がパイプ椅子を引く音が、雨音とともに木霊した。葵の隣に玲華が、その向かいにかな子と由紀が座る。
「今日は主にかな子さんと葵さんのアイディア出しを手伝おうと思っているの。その前に確認なのだけど、二人とも書きたい話はあったりする? この一週間で何かアイディアが浮かんでいたら教えてほしいわ」
「私はさっき槇先輩に見られましたけど、一応書きたい話を持ってきました」
少し恥ずかしそうにしながら、かな子は紙を机の中央に置く。それを葵と由紀が覗き込もうとするが、向かい合って座っているため紙を横にし身を乗り出して読む形になった。
「あ、ごめんなさい……見づらいですよね。口頭で説明しても良いですか?」
かな子の提案に、二人は頷いてから席に着く。それを確認すると、かな子は紙を引き寄せて説明を始めた。
「良いんじゃないかしら。色々な恋愛模様を描くのは素敵なことだと思うわ」
その言葉に、かな子は少しだけ目を輝かせて安堵のため息を零した。
「葵さんは何かある?」
「いえ……考えてはいたんですけど、中々思いつかなくて。すみません」
「謝らなくていいのよ。ゼロからイチを生み出すのは簡単じゃないもの——」
「おう、やってるかい」
建てつけの悪いプレハブの扉が、ガラガラと音を立てる。外はまだ雨脚が強く、扉が開くと室内に反響する雨音が大きく鳴り響く。四人の視線は、自然と入り口に立つ少し猫背の男性教師に集まった。
「こんにちは、五十嵐先生。何か御用ですか?」
「一年の二人が入部届を出しに来たから、ちょっと顔を出しにな。すまんね、ミーティングの途中だったかい?」
柔らかい口調で笑顔を頬に乗せながら、五十嵐は辺りを見回した。
「大丈夫です、先生も参加されますか?」
目が合った玲華が五十嵐に返答する。五十嵐は席が四つしかないのを確認すると、手に持っていた資料を由紀に渡した。
「あんまり邪魔しちゃ悪いからねえ、用件だけ伝えて帰るよ。実は望都祭で演劇部の新一年生が舞台をやるんだが、その脚本は毎回文芸部が書くことになっていてね。まあ望都祭は二年に一度だからここにいる誰も経験してないだろうが、過去の未完の脚本があるからそれを手直ししてほしくてね。それがこの脚本」
五十嵐は由紀に手渡した紙束を指差した。四部合わせても厚さはそこまでなく、由紀が片手で持てる程度だ。
「期限は稽古の都合上、七月頭の定期考査が終わった頃には八割方完成していてほしいねえ。まあその脚本も割と出来上がっている方だが、大幅な手直しをしたかったら早めにな。質問はあるか?」
「それじゃあ私から。全員でこの脚本の手直しをするんですか?」
由紀の質問に、五十嵐は顎に手を当てて軽く唸った。
「いや、それだと望都祭で出す文集の内容がこれだけになってしまう。ああ、完成したこの脚本も文集に載せていいからな。そうだねえ……できれば一年と二年でペアでやってほしいかな」
「わかりました。誰が書くか決まり次第、またご連絡します」
「助かるよ中川。じゃあよろしくな」
五十嵐は用件が済むと長居することもなく、部室を後にした。それを見送ってから、由紀が四部ある脚本のうち二部を玲華と葵に渡す。
「不思議な風習ですね。演劇部の脚本を文芸部が執筆するなんて。演劇部にも脚本を書く人はいそうなのに」
「ああ、それは多分人手不足で五十嵐先生が演劇部の副顧問もやってるからじゃないかな。まあ私たちも勉強になるしそこは良いんだけど……質問」
前のめり気味に玲華が手を挙げて三人と目を合わせる。きょとんとした顔の三人の表情を確認すると、玲華は少し勢いをつけて言葉を発した。
「この中に脚本を執筆した経験がある人は挙手」
お互いがお互いを見る。誰の手も挙がらない空気と、静寂の中に響く雨音が不思議な間を作り出した。
「まあ、そうだよね……」
「どうしましょうか……やっぱり今からでも断ってくる?」
「言いくるめられるのがオチだよ……まあでも二人で考えろっていう点だけは救いの余地があるのかなあ……ひとりじゃないだけマシかも」
そう言って玲華は由紀から受け取った脚本に目線を移す。そこには「タイトル未定」の文字とともに、見覚えのある作者の名前が記されていた。
「これって……」
「……あの」
葵は苦しそうな表情を必死に抑えながら、言葉を落とした。唇を噛んで目を伏せながら話そうとする葵から言葉が出てくるのを三人は待った。
「これ、わたしにやらせてください」
そうして葵は俯いたまま、脚本を大事そうに両手で抱えた。天井を打ちつける雨音が大きくなった気がする。約二十ページほどの紙束を胸に当てて抱きしめるその指は、少し震えていた。
「葵、無理しちゃだめだよ。苦しいならやらなくても——」
「かな子は黙ってて」
少し荒い呼吸をしながら、葵は鋭い言葉をかな子にぶつける。かな子は目を細めて葵を一瞬だけ睨んだ。すぐに表情を戻したが、唇を結んでこれ以上話すのをやめたようだった。
「やるのは構わないけど……理由を聞いてもいいかしら。そんなに苦しそうにして、ましてや親友の忠告を無視してまで引き受けたい理由を」
「……これがわたしに残された最後の使命なんです」
「それは、お姉さんとのこと?」
玲華は横に座る葵に身体を向ける。全員の視線が葵に集中する中、葵は誰とも目を合わせずに声を絞り出した。
ただ一言「はい」とだけ。
このメンバーの中で、葵のお姉さんのことを知らないのは由紀だけだ。玲華はこれ以上の説明を葵に求めるか逡巡していた。すると程なくして葵が唇を小さく動かした。
「この脚本の作者、瀬乃愛花はわたしの姉なんです。姉の生きた証を、最期の作品を、この手で完成させたい。それだけです」
「わかったわ。それなら玲華に葵さんのサポートをお願いするわね」
突然のことに玲華は目を開いて由紀を見る。葵が脚本を完成させたいなら、書くより読む方に軍配が上がる玲華よりも、ある程度書き慣れている由紀の方が適任だろうという疑問を視線で由紀に投げかけた。その視線に由紀は柔らかい笑みを浮かべて答えた。
「この件に関しては、私より玲華のほうが適任よ。それに私はもう書きたいネタがあるし……いいわよね、葵さん?」
「構いません。わたしは誰と組んでも、この脚本を完成させるだけです」
「それじゃあ今日はここまで。五十嵐先生には私から伝えておくから、二人は執筆に集中して。次の批評会は二週間後、連休明けね。解散」
由紀がいたずらっぽく言うと、ちょうど下校のチャイムが流れた。
「帰ろう、葵」
椅子に座ったまま動かない葵に、かな子は後ろから手を回して優しく抱きしめた。その腕を少しだけ自分の方に引き寄せて、葵はかな子に小さく「ごめんね」と零した。
「私たちも帰りましょうか」
外に出ると、雨上がりの冷たい空気が流れていた。ぽつぽつと水溜まりができている。見上げるとまだ晴れた空とは言えず、いつ降り出すかわからない様子だった。
「どうして由紀じゃなくて私なの?」
いつもの帰り道を由紀と歩きながら、玲華は笑顔で誤魔化された疑問を改めて投げかけた。
「玲華はきっと小説を書き慣れている私の方が適任だと考えているんでしょう?」
玲華は軽く頷いて、次の言葉を待った。
「確かに、理屈だけで言ったらそうなるかもしれない。でも今の葵さんに必要なのは、書くスキルがある人じゃなくて、葵さんの完成をサポートできる人よ」
隣を歩く由紀が、玲華の顔を覗き込むように視線を向ける。由紀と目が合った。
「それはきっと、私でもかな子さんでもだめなの。葵さんを側で支えて、導いてあげられるのはあなただけよ」
「それは買い被りすぎだよ、由紀。私はまだ蘭のことを忘れられずにいて、葵さんを妹として受け入れることさえできていないのに」
玲華は交わった由紀の視線から目を逸らした。葵と接する度に、玲華は蘭を幻視してしまう。それなのに、キスの味はしないし手を握られても心臓が跳ねることもない。
「玲華はどうしたい? このまま葵さんと姉妹ごっこを続けるか、本当の意味で姉妹になるか」
「……わからない。ただ、怖いんだと思う」
怖い。玲華はもう一度声を出さずに口の動きだけを再現してみたが、先ほどより幾分か重く感じた。唇に手を当てて動きを確認する。三度目はさらに動きがぎこちなくなった気がした。
「怖い?」
「うん、怖い。葵さんを受け入れることで、私の中の蘭が薄れてしまうような気がして。それに葵さんがお姉さんの脚本を完成させた後、葵さんはどうなってしまうんだろうって」
葵は脚本を完成させることが自分の最後の使命だと言っていた。あの時の葵の表情が、声が、玲華の心につっかえて仕方がない。
脚本を完成させた後、葵さんはどうなるんだろう。その背中に手が届くうちに、こちら側に引き止めておいた方が良いのではないか。玲華は空に手を伸ばした。曇り空がまだ晴れる様子はない。
「そうね……玲華がそう思うのも理解はできるけれど」
由紀が一歩前に出る。太陽と月が同居するこの時間帯は、今日に限って雲によりどちらも鳴りを潜めていた。
「大丈夫、何があっても私はあなたを支えるわ」
「……うん、ありがとう」
支えてくれるのは有り難いし心強い。玲華は差し出された由紀の手を掴み、一歩前に踏み出した。根本的な解決策ではないが、今は由紀を信じることしかできない。
「よろしくね、一番の友人さん」
「……ええもちろんよ、一番の友人さん」
一瞬、玲華には由紀の顔が強張ったように見えた気がした。曇り空はまだ晴れない。だんだんと空は夜に堕ちていくようだった。




