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面影か、幻影か

 玲華と蘭が普通の姉妹でなくなったのは、蘭が中学生に上がってすぐのことだった。

 その日は悟が休日出勤で、玲華は蘭と二人でテレビを見ていた。傾いた陽がリビングの窓から斜めに差し込んで、二人が座るソファを照らしていた。

 たまたま夕方に再放送されていたドラマを欠伸を噛み殺しながら見ていた。はじめはよくあるラブストーリーだと思っていたら、急に女性同士のキスシーンが始まったのだ。思わず玲華は目を逸らした。中学二年生だった玲華にとっては刺激が強すぎだ、と思いチャンネルを変えようとリモコンに手を伸ばすと、隣に座る蘭が手で制止してきたのだ。思わず玲華は蘭の横顔を覗き込む。すると蘭は食い入るように画面を見つめていた。その瞳は若干熱を帯び、煌々と輝いているように見えた。頬も若干紅潮している。キスシーンが終わってから、玲華は恐る恐る蘭に声をかけた。

「蘭、もしかして興味あるの……?」

 蘭は目をぎょっと開いたが、すぐに目を伏せて胸に手を当てた。

「わかんない……でも、なんだか胸がドキドキして顔が熱い……」

 その蘭の仕草や声色で、玲華も胸の奥に微かな火が灯ったように感じた。でもこれは、いけない感情ではないかと戸惑いを隠せない。

 蘭と目が合う。蘭の目は丸っこくて大きくて、いつもは可愛いと思っていた玲華だったが、夕日に照らされたせいか今の蘭はとても美しかった。女性としての魅力を感じるほどに。玲華は胸の奥の灯火が大きくなった気がした。

「ねえ、お姉ちゃん……試してみない?」

 試すって、何を? なんて言えなかった。玲華の目線は蘭の唇に吸い込まれていた。少しぷっくりと膨らんだその唇に触れてみたい、奪ってみたいと一瞬でも思ってしまった。玲華は蘭の言葉に頷き、きゅっと目を閉じた。

 蘭の顔が近づいてくるのが目を閉じていてもわかる。もう少し、もう少しで、私は蘭とキスをするんだと思うと、より一層胸の高鳴りを感じた。

 二人の唇がゆっくりと重なり合う。まるでそこだけ時間が止まったみたいだ。どちらからともなく唇を離すと、お互い瞳孔の開いた目で見つめ合った。

「すごい……これがキスなんだ……」

 蘭はそう呟くと、足早に自分の部屋へ駆けていった。一方の玲華は、急に力の抜けた体を支えることもできず、流れるままにソファに崩れ落ちてその身を預けた。そして自分の下唇をもう一度指でなぞってみた。先ほどの高揚感は熱を帯びて確かにそこに存在していた。

 それから二人は悟の目を盗んでは度々キスをするようになった。もっとも、それから約一年後の春に玲華と蘭は運命によって引き裂かれることになる。蘭が倒れたのだ。聞いたこともないような長い病名を告げられた蘭は、秋に余命半年と言われ、しっかり半年後の春にこの世を去った。

 そんな玲華が葵とキスをしてわかったことがある。目や背丈、髪型は似ているが、葵の唇は蘭より少し薄かったこと。それと、キスをしても何も満たされた気がしなかったこと。蘭とキスをした時のような高揚感や背徳感から来る胸の高鳴りは一切なかったのだ。

 葵は蘭とは違う。そんな当たり前のことが、玲華を夢の中から引きずり出そうとしていた。

「じゃあ、ミーティング始めるわね」

 由紀が前に立って、ホワイトボードに字を書き込んでいく。その中でも「九月、文化祭」と赤字で書かれたそれは、一際目立っていた。

「入部してまだ一週間とそこらで悪いけど、葵さんとかな子さんには九月の文化祭で出す文集に参加してもらうわ」

 緊張で二人が息をのむのが伝わる。それを見て由紀は柔らかい笑みを浮かべた。

「そんなに緊張しなくて大丈夫よ。これから二週間に一度、各自書いた作品を持ち寄って批評会をします。短編、長編、詩、どれでもいいわ。もし小説を書く場合は、初めの四回はプロットや設定のみの提出も認めます。ちなみに文化祭は九月末に行われるけど、印刷の関係上九月頭の批評会が最後になります。要するに文化祭までに批評会は約十回行われるってことね。第一回はちょうど来週の金曜に開催します。質問あるかしら?」

 かな子が真っ直ぐ手を挙げた。背が小さい故の癖なのか、腰を少し浮かせて前のめりになりながら右手をピンと張って少しでも目立とうとする。

「批評会以外の日は何をするんですか?」

「各自ここで作品を書くのもよし、図書室で調べ物をするもよし、読書するもよし、要するに自由よ。だけど金曜の批評会には参加してね。もし欠席する場合は別日に開催するから、事前に連絡してくれると助かるわ」

「パソコンの持ち込みは……」

「それは多分ダメね……一応一台は学校から文芸部用に借りることはできるけれど」

「先輩方はどうするんですか?」

「私は家のパソコンで書くわ。玲華は?」

「私は書くものによって変えるかな。短い詩とかだと紙に書くけど、小説になると長いし修正も簡単なパソコンで書くよ」

「じゃあ、その間先輩方は部室に来ないんですか?」

「私たちは多分ここで読書してると思うわ。毎日居るかはわからないけど」

「由紀は習い事もあるもんね」

「中川先輩習い事やってるんですか?」

「ええ。書道よ。隔週金曜で教室に通ってるわ」

 そんなやり取りを黙って見ている葵が気になり、玲華は声をかけた。

「不安?」

「……そうですね。人生で小説も詩も書いた経験って少ないですし、本当に完成させられるのかなと……」

「大丈夫だよ。私たちがサポートするから……って言っても、葵さんの方が経験があるかもしれないけどね」

「いえ……ありがとうございます」

 由紀はぐるっと三人を見回して何もないことを確認すると、ホワイトボードのマーカーを置いた。

「じゃあ、質問もないようだしミーティングは終わります。この後は各自作業を開始してください……といっても、どうしたらいいかわからないだろうから、私と玲華で色々相談に乗るわ。まずは来週金曜の批評会までに、自分が書きたい内容を文章にまとめてきて。案を複数出すのをおすすめするわ。メモや箇条書き程度で構わないから」

 玲華たちが先輩たちにしてもらったように、後輩たちにもそれをする。なんでもいいから案を出して、それぞれの関係性を繋いでいく。言わば連想ゲームのような感じだ。世間ではその手法に名前がついているらしいことを、玲華はこの前たまたまネットで見かけた。

「っと……ごめんなさい、私は先に上がるわね。玲華、戸締まりお願いできるかしら」

「ああうん、任せて。今日がその書道の日だっけ」

「ええ、そうよ。じゃあよろしくね」

 三人は由紀に手を振り、別れを告げる。その後ろ姿はいつ見ても美しい所作だ。

「なんというか……中川先輩って綺麗ですよね。すっごくモテそう」

「かな子さんもそう思う? 実際由紀はよく告白されてるよ。いつも断ってるけど」

「どうして断るんだろう……結構理想が高めなんですかね」

「いや、好きな人がいるんだって。でもずっと片思いだって言ってた」

 さすがに由紀の秘密を多く語るわけにはいかない。玲華は嘘のない範囲で話を続けることにした。

「……でもその気持ち、少しわかるかも」

 かな子が少し寂しそうに笑った。

「私も片思い中なので」

「なになに、それわたしも聞いていいやつ?」

「葵はだーめ」

「えー、じゃあ他の人ならいいの?」

「中川先輩になら話してもいいかな」

「私は?」

「槇先輩は保留で」

「えー……」

 葵がころころと笑った。かな子さんと居る時の葵さんはよく笑うな、と玲華は微笑ましくなる。それだけ肩の力を抜いて過ごせる相手なのだろう。

「二人とも仲いいよね。いつ知り合ったの?」

「いつでしょう……気がついたら隣にいたので」

「葵は覚えてないの?」

「えっと……中学生になる頃には既に知ってた気がする?」

「なんで疑問形なの」

「ごめん、自信なくて」

 それを聞いたかな子がむすっと頬を膨らませる。それを見て葵は、人差し指でかな子の頬をつつき始めた。

「そういえば槇先輩は中川先輩と出会ったのっていつなんですか?」

 葵は頬をつつく手を止めずに玲華に質問してきた。

「由紀とは中学からだよ。と言っても三年生の時に初めて同じクラスになったんだけど」

「意外です。もっと前かと思ってました」

「確かに……由紀とはもう随分長く付き合ってるような気分だよ。なんだろうね」

「わたしたちからするともう熟年夫婦って感じです、お二人とも」

「夫婦か……」

「……何か引っかかります?」

 かな子に顔を覗き込まれる。その見透かされそうな瞳に玲華は一瞬怖じ気づいて反射的に首を引っ込めてしまった。

「由紀には片思いの人がいるんだし、私と夫婦はちょっと違うかもね。かえって迷惑かも」

「……私はそうは思いませんけどね」

 寂しそうに呟くかな子の湿った声が、玲華の鼓膜をひんやりと響かせる。まるで冷たい手を首筋に当てられた時のように、心臓までドキリとした。

「さ、そろそろ時間だし帰りましょ。葵は今日用事あるんだっけ?」

「うん、今日は一緒に帰れない。ごめんね」

「気にしないで。じゃまた来週ね」

 かな子が鞄を肩に掛けて去っていくのを、二人で見送った。

「……私たちも帰ろっか」

 葵の用事というのは、玲華と二人で一緒に帰ることだった。今日また優香と葵と悟の四人で家で食事をすることになっている。

 二人で家路を歩く。月と太陽が同居するこの時間は、独特の寂寥感を覚える。玲華は空に手を伸ばした。今なら星に手が届くだろうか。蘭が旅立ってしまったこの空の向こうは、どんな景色が広がっているのだろう。

 蘭に手が届かなくても、葵は隣にいる。昼と夜の境界線が曖昧になって、玲華の気持ちもそこに引っ張られるようだった。

「ねえ、葵さん」

 隣を歩く葵に玲華は視線を合わせる。だが、そこに一瞬蘭を幻視して言葉に詰まってしまった。

 葵とキスをした時、玲華は気づいてしまった。葵さんは蘭ではない。だからきちんと伝えなくては。私はあなたの姉にはなれないと。

 あなたは蘭の代わりにはなれない、と。

「わたしたちは姉妹になるんですよ、玲華さん」

 玲華が口を開きかけたのを遮るように、葵は一歩前に出て、夕陽に背を向けた。葵の影が玲華の方に伸びてくる。

 葵は驚くほど冷たい目をしていた。そして、玲華が言わんとしていることをすべて見抜いているようにも見えた。その目に捉えられたら、私は心臓を鷲掴みにされる。そう思わせるほど鋭い目をしていた。

「母と悟さんは結婚して、わたしたちは姉妹になるんです。だから、言わないでください。わたしの姉は、もうあなただけなんですから」

 葵の影がさらに伸びてきて、玲華はその影に飲み込まれてしまいそうな感覚に陥る。不安定に揺れる葵の瞳は、どこか寂しげで翳りがあった。

「それでも私の妹は……蘭だけなんだよ」

 消え入りそうな声で玲華は呟く。葵の歪んだ表情が玲華の目に映った次の瞬間、その顔は玲華の目の前にあった。唇に冷たい感触が伝わる。キスをされたんだと気づくまでに少し時間がかかった。

「ドキドキしませんか、わたしにキスされても」

 玲華は胸に手を当てて考えてみる。だが、考えるという行為そのものが、葵の問いへの答えになっていた。

 葵の瞳が玲華を覗く。玲華の瞳を探るように見つめるその瞳は、問いへの答えを見つけると視線を外して力なく項垂れた。玲華の腕に縋るようにしがみついていた葵の手は、そのままするりと伝って玲華の手を握った。

「……手を繋いで帰ってもいいですか」

 嫌だと言えなかったのは、葵さんへの同情なのだろうか。それとも葵さんに蘭を幻視してしまう瞬間があるからだろうか。だとしたら、私は自分が思う以上に酷い人間なのかもしれないと、葵に手を握られながらその感情の所在を玲華は考えていた。

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