表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/11

「普通」じゃない後輩、「特別」じゃない妹

「蘭——?」

「あの、大丈夫ですか……?」

 心配そうな表情で少女は玲華の顔を覗いている。リボンの色からして、一年生だ。いや、そんなことは今の玲華にとってどうでもいいことだった。

「あなた、誰?」

「へ?」

「名前は」

「せ、瀬乃です……」

「下の名前は」

「……葵です」

「……蘭じゃないんだ」

「えっと……」

 目の前の少女は困惑しているようだ。だが、玲華にはそんなことを気にしている余裕はない。

 見間違いなんて程度のものじゃない。丸っこい目、背丈、後ろで結われた髪。そのどれもが、蘭を彷彿とさせた。玲華は少女をついまじまじと見つめてしまう。

「もしかして怒らせてしまいましたか……?」

 少女が申し訳なさそうに玲華の顔を覗き込んできた。玲華はその仕草が何を示しているかはすぐに理解できたが、頭の大半を目の前の現象を処理することに使っていたため、生返事しかできない。

「どうしたの玲華。口が開いてるわよ」

「本当にすみませんでした。気をつけます……」

「いいのよ、走っていた私たちも悪いし。それより、迷子?」

「あ、はい……実は化学実験室がどこかわからなくて……」

「それなら、ここを道なりに行けば着くわ。通り過ぎると左手に階段が見えるから、それを目印にしてみて」

「ありがとうございます……! それでは、失礼します……」

 ぺこり、と一礼して少女は去っていった。

「ほら、私たちも行くわよ」

「うん……」

「……頭打った?」

「ううん、大丈夫……」

 チャイムが鳴った。玲華は由紀に手をとられて立ち上がる。教室は目の前なのでもう焦る必要はない。

「……妹さんの名前、蘭さんだっけ?」

「うん……すっごい似てた」

「……そう」

 それ以上、由紀は何も言わなかった。

 その日の放課後は、体育館で部活動紹介だった。玲華たち文芸部は、三年生が早期に引退したので玲華と由紀の二人だけだ。望都高校は、三年生になると部活を続けるか受験に集中するか選ぶことができる。三年の先輩たちは皆受験に専念するとのことで、春に最後の文集を出して辞めていった。文化祭は九月にあるので、受験を考えればそれが妥当だろう。制度上はもちろん九月まで残ることはできるが、そこまで書き続ける人は玲華の知る範囲ではいなかった。

 というわけで、今回の部活動紹介は部長である由紀と、副部長である玲華の二人で行うことになった。部員を獲得しないとまずいという危機感はあるけれど、まあ後二人入ればいいわけだし、文芸部に興味を持ってくれる人はいそうなものだ、と玲華はその点に関しては落ち着いていた。

「どうしたの、さっきからきょろきょろして」

 ただ別の理由で、玲華は落ち着きを失っていた。彼女は一年生の列を探るように視線を動かしていた。

「……さっきの子、いないかなと思って」

「瀬乃さん……だったかしら? でも見つけてどうするの」

「特に何ってわけじゃないんだけど……」

 由紀に言われて玲華は目を伏せる。確かに由紀の言う通り、彼女を見つけて私はどうしたいんだろう。「私の妹になって」とでも言うつもりなのだろうか。

「ただ、会いたいなって思っただけ」

「それは蘭さんの姉として? それとも槇玲華として?」

「…………」

 玲華はその問いに対する明確な答えを持ち合わせていなかった。二人の間に沈黙が降りる。

「時間になりました。それでは、部活動紹介を始めます」

 アナウンスが体育館中に響いた。それを合図に、それまで話し声で賑わっていた体育館の空気が一変する。先ほどまで由紀との間に流れていた沈黙が体育館中に伝播したようだった。それでも、一年生は期待でそわそわと落ち着かない様子だ。

 運動部から紹介が始まっていく。普通に活動内容を紹介するところもあれば、コントのような、劇のようなお芝居をしながら部の個性を紹介するところもあり、十人十色といったところだ。と言っても、各部に与えられた時間は二分。

 玲華たちは文芸部の活動内容である読書会や、自作の小説、詩などを持ち寄っての批評会、その批評会で提出された作品を年に二回文集にすることを説明し、今年部員が四人以上にならなければ同好会に格下げしてしまうことを伝えた。

「終わったね……」

「ええ、お疲れ様」

 すべてのプログラムが終わり、緊張を解く意味で玲華は大きく伸びをした。由紀は少しだけ息を吐いて、背筋を伸ばす。いつ見ても綺麗な所作だと玲華は思った。

「戻りましょうか」

 結局玲華が瀬乃葵を見つけることはなかった。無理もない、一年生だけで三百人はいるのだ。

 二人は普段の活動場所である多目的室に移動した。多目的室とは名ばかりで、実際に授業で使われることはほとんどない。ここは昔、校舎の一部建て替えが行われた際に建てられたプレハブだ。つまり建て替えが終わった今では用済みで、保護者会の集まりなどで使われている。そのため紅茶やコーヒーを入れられるようにカップや電気ケトルが置かれていた。

 今日の活動時間はあと三十分くらいだ。特に話すこともないし、こうして多目的室に来ると各々本を広げて読書を始めるのが日課だった。会話はほとんどない。読書会は気が乗った時に、批評会は決まった曜日に開催される。今年の文化祭に向けた批評会には、人数不足で一年生にも書いてもらうので余裕を持って開催したほうが良いだろうなというのが、二人の共通認識だった。

 玲華にとっては、こうして由紀と静かな時間を過ごすのは嫌いではない。むしろ心地良いとまで思う。今日もいつもと同じように、各自読書をして過ごし、下校するものだと思っていた。

「あの……文芸部の活動場所ってここであってますか」

 その静寂を破ったのは、小柄な少女だった。突然の来訪に、驚きと喜びで玲華と由紀は目を合わせる。

「あってますよ。さあさあいらっしゃい」

「ありがとうございます……って何で隠れてるの、葵」

 彼女を招き入れようとすると、脇に隠れていた少女が気まずそうに顔を出した。

「あ、えっと……こんにちは」

「あれ? 瀬乃さん?」

 玲華は思わず目を丸くしてしまう。そこに現れたのは、今日二度目の再会になる瀬乃葵だった。もう一度会えるとは思ってもみなかったので、玲華はその場で固まってしまった。

「あはは……先ほどはどうも……」

「葵、知り合いなの?」

「まあ、ちょっとね……」

 葵は苦い笑みを浮かべて、気まずそうにした。

「えっと……二人とも入部希望でいいのかしら?」

 二人は示し合わせたようにほぼ同時に首を縦に振った。

「わかった、歓迎するわ。玲華、悪いけどお茶を入れてもらえる?」

 由紀は後輩二人分の椅子を引いて着席を促す。由紀の声で我に返った玲華は、四人分の紅茶を入れるために電気ケトルの電源を入れた。

 葵がもし入部したら、毎日顔を合わせることになる。蘭に似た彼女を、「普通」の目で見ることが自分にできるのだろうか。電気ケトルから昇る湯気を見ながら玲華は不安を募らせた。いっそこの湯気のように不安が上昇してたち消えてしまえばいいのにとさえ思った。

「瀬乃さんは改めてになるけれど、二人のお名前聞いてもいいかしら」

 ぴんと綺麗に背筋を伸ばした由紀に釣られて、二人も肩に力が入る。

「ああ、いいのよ。楽にしてもらって構わないわ」

「ありがとうございます……改めまして、瀬乃葵です」

 軽く自己紹介をした葵は、少し肩をすぼめて一度閉じた唇を動かした。

「えと……親の再婚で名字が変わるので、できれば名前で呼んでいただけたらなと……」

「わかったわ、葵さん。そちらは?」

「私は茂木(もぎ)かな子です。名前で呼ばれる方が好きなので私もかな子と呼んでください」

「ありがとう、かな子さん。私たちはどうしましょうか」

「私は名字でも名前でも好きな方で呼んでもらって構わないよ。変なあだ名は嫌だけど」

「同感ね。二人も好きに呼んでくれていいわよ。私は中川由紀、一応部長を任されているわ」

 由紀が目配せをする。四人分の紅茶を入れ終わった玲華は、皆にカップを配ると由紀の視線を受け取って自己紹介をした。

「私は槇玲華。副部長を任されています。よろしくね」

 玲華は今日一番の笑顔を作った。それを確認した由紀が、話の流れを止めないように会話を続ける。

「入部希望ってことだけど、二人は物語を書くのが好きなの?」

「わたしはまだ長編はそんなに書いたことはありませんが、興味あります。短編なら少しだけ」

「かな子さんは?」

「私はめっきり読む方が好きで……葵が書いたやつをよく読んでいます」

「わかった。部活動紹介の時も話したと思うけど、入部したら一応短編や詩でもいいから年に二回出す文集に参加してもらうことになるわ。具体的な時期としては、九月と三月の二回ね。うちの学校は隔年で九月に文化祭が行われるから、文化祭がある年はそこで九月の文集を出すの」

「ちなみにその文化祭は今年だね。二人にも参加してもらうことになるよ」

 二人の表情が緊張で強張るのが伝わる。玲華と由紀はそれを見て微笑ましいと思う反面、ここで下手なことを言うと新入部員を逃してしまうかもしれないという焦りを感じた。

「大丈夫だよ、私も入部する前は書いたことなかったし」

「玲華は今でも読む方が好きよね?」

「そうだね。書くことを体験してみて、よりそう思うようになったかも」

「だから玲華の言う通り、あまり気にしなくて大丈夫よ」

 先ほどよりは安堵した表情を見せた二人に、玲華と由紀は同時に紅茶の入ったカップに口をつけた。程よい温かさが胸に広がっていく。ここで逃しても新入部員は捕まるかもしれないが、早くて確実なことに越したことはない。

 ただ玲華にとって、葵という存在が今後どのような影響を自分に及ぼすのか未知数だった。まるで蘭と話しているみたいで、時々胸に冷たい風が吹く。

「あの……過去の文集って読めたりしますか」

 葵は目の前に出されたカップに映る自分を見つめながら、急に張り詰めた声を響かせた。それに少し気圧された玲華は、葵から目を逸らしたことを悟られないように目線を上手く本棚に移した。

「過去十年分くらいはあるけど……」

「じゃあ……三年前の文集が読みたいです」

「二冊あるけど、両方読む?」

「はい、お願いします。できればその次の年の九月の文集も」

 怪訝な顔で玲華は葵の様子を伺う。どうして入部の前に文集を読みたがるのだろう。その理由を問おうとしたが、どこか不安げに揺れる瞳に吸い込まれそうで喉が引っ込んでしまった。

 玲華は文集が立て掛けられている本棚に手を伸ばし、三年前に出された二冊の文集と二年前に出された九月の文集を葵に渡した。葵は目次を確認すると、唇を一度結んでから、芯のある強い声でこう言った。

「これ、お借りしてもいいですか」

「残念だけど、バックナンバーは一冊ずつしか残ってないから部員以外は持ち出し不可なの。正式に部員になったら借りて行っても問題ないわ」

「いいんじゃない? 三年前ならデータ残ってるだろうし、失くしたらまた作り直せばいいじゃん」

「そうは言ってもねあなた……作り直すのに部員じゃないと印刷費が部費じゃなくて自費になるから、外部の人が持ち出せないようになってるんじゃない」

「お返しした方がいいですか……?」

「ううん、大丈夫。そのまま持って行って。責任はこの槇玲華が取りますから」

「胸を張って言うことでもないけれど……まあ入部届を出してもらえれば拒否されることなんてないから、渡しておくわね。保護者の方にも署名してもらって、顧問の五十嵐先生に渡してもらえるかしら」

「わかりました。よろしくお願いします」

「かな子さんにも渡しておくわね」

「はい、ありがとうございます」

 チャイムが部室に鳴り響く。それを合図に、放送部の下校のアナウンスが流れ始めた。

「時間だし帰りましょうか。もう二人とも、来週から活動に参加してもらっても結構だから。よろしくね」

 かな子と葵に別れを告げて、玲華は由紀と二人帰路につく。二人は中学も同じだったので家の方向もそれほど変わらない。徒歩二十分くらいかけて、夕陽で影が落ちた道を歩いていく。

 二人分の長い影を眺めていると、嫌な考えが玲華の頭の中をぐるぐると回りだしてきた。蘭に似た少女に出会い、同じ部活で活動することになった今日。ここまで来ると、逆に明日会う新しい妹のことを受け入れられるかもしれないと彼女は思った。

 いや、でもこれから平日は毎日葵さんと顔を合わせることになるのだ。玲華の思考は深く落ちていく。葵さんを見る度に、もし蘭が生きていたらちょうど彼女と同い年なんだな、と余計なことを考えてしまう。蘭が高校生になって制服を着る姿も見てみたかったなと、どうしても葵さんに蘭を重ねてしまう。

「考え事?」

 自然と俯いていた玲華の視線が、隣に並ぶ由紀に移る。由紀は特に心配そうな表情をしているわけでもなく、「明日の天気はどう?」とでも聞くような調子だった。

 由紀はいつも、玲華のことを気にかけてくれているようで、それでいて必要以上に踏み込まない優しさがある。その優しさにいつも甘えてしまうのだが、そのことに少し後ろめたさというか、罪悪感とまでは行かないにしろ、多少の申し訳なさが玲華にはあった。

「……うん、ちょっとね」

「葵さんのこと?」

 玲華は視線を元に戻した。夕陽に後ろから照らされて伸びた二人分の影を見つめる。

「由紀は葵さんを見てどう思った?」

「そうね……あなたと知り合ったのは中学三年の時だから、妹さんの姿を実際に見たことないし……似ているのかどうか私には判断しかねるわ」

「写真あるよ、見る?」

 玲華は自身のスマートフォンを取り出して、画面をなぞっていく。こうして画像欄を漁っていると、蘭が亡くなってから経過した時間が上からのしかかってくるように感じた。

「……似てるわね……」

「やっぱりそう思う……?」

「もちろん違う部分もあるけど、雰囲気がそっくりね」

「違う部分、か……」

 葵を見た時、玲華は本当に蘭が目の前に現れたような気がしていた。しかし、時間が経つにつれてどこか蘭ではないような違和感を覚えたのも事実だ。よく考えなくとも、葵は蘭に似ているだけで蘭本人ではないのだから、違和感を抱くのも当然だった。ただ、それが具体的に何なのかまではまだわからなかった。

「明日には新しい妹と会うし……今日は蘭にそっくりな葵さんに会うし……散々だよ」

「そうね……」

 玲華の方を向いていた由紀の視線も、少し俯いたものになる。由紀は深刻な問題にぶち当たると、唇を結んで考える癖があった。そういう時、玲華は別の話題を振るわけでも、話を切り上げるわけでもなく、ただ黙って由紀の答えが出るまで待つ。

「まあ、葵さんと蘭さんが別人だってことは頭に入れておいた方がいいわね」

「頭ではわかってるんだけどね……」

 由紀と別れる最後の交差点に来た。ここを右に行けば由紀の家、左に行けば玲華の家がある。

「じゃあ、また月曜に」

「ええ、健闘を祈るわ」

 ありがとうの意味も込めて、玲華は右手を上げて由紀に振る。遠ざかる由紀の背中を見送ってから、玲華は薄暗くなった帰り道をひとり歩いた。




「よし、準備いいな」

「う、うん……」

 悟と玲華は壁に掛けられた時計を見やる。長針と短針が重なり正午を指していた。もうすぐ「二人」がやってくる時間だ。

「やっぱり俺、近くまで迎えに行ってくるよ」

「すれ違いにならない? 連絡入るまで待っていようよ」

「そ、そうだな……でもうちマンションだし、部屋番号間違えないかな……」

「それこそちゃんとメッセで送ったんでしょ? 大丈夫だと思うけど……」

 そわそわして落ち着かない父を見ていると、玲華まで余裕がなくなってくる。こういう時、蘭がいてくれたら父さんを一喝してくれるのにな。蘭がいない今、心配性な悟の性格が玲華にまで伝播してしまいそうだった。

「……! 来たぞ、開けてくる!」

 チャイムの音とほぼ同時に玄関に駆けていく悟を見て、玲華は深い溜め息を吐いて代わりに期待と不安の入り混じった空気を吸い込んだ。新しく家族ができるかもしれない喜びと不安。その新しい家族は、私の新たな拠り所になってくれるのだろうか。

 ずっと蘭のことだけを考えて生きてきた。蘭のいる生活が当たり前で、これから先も蘭と一緒に歩んでいくんだと思えば、不安は無かった。二年前、中学三年生になってすぐの玲華は、その蘭を失ってしまった。彼女はまだ、その欠けたピースを埋められずにいる。

「玲華、どうしたんだ?」

 ぼーっとしていたら、二人を出迎えに行くのに遅れてしまった。玲華は慌てて玄関に向かう。

「お、来たか。紹介するよ、娘の玲華だ」

「こんに——」

 こんにちは、と言いかけた口が開いたまま塞がらなかった。雷に打たれたようなこの感覚が、初めてではないように感じられて仕方がない。

「ま、槇先輩がどうしてここに……」

「葵さん、だよね……?」

 二人してほぼ同時に発した疑問。状況がまるで理解できていない二人だった。

「あら、お知り合いなの葵?」

「え? えっと……初対面ではない、かな……」

「そうなの。あ、申し遅れました、私、瀬乃優香と申します。よろしくね、玲華ちゃん」

「は、はい……よろしくお願いします……」

「玲華、葵さんのこと知ってるのか?」

「知ってるも何も、昨日入部した部活の後輩だよ……」

 俄には信じ難いが、目の前にいるのは正真正銘瀬乃葵だった。さすがに会うのが三回目にもなると、衝撃も薄くなってしまう。

「……え、ちょっと待って。新しくできる妹って——」

「そうだ、玲華。葵さんが玲華の妹になる」

 前言撤回。理解が追いつかない。玲華は頭から煙を吹いて思考停止しそうだった。まるで壊れたロボットみたいに脳の処理能力が限界を超えた玲華は、そのまま口をぽかんと開けてそれ以上言葉を紡ぐことができなくなった。

「立ち話もなんだし、上がってくれ」

「ありがとう。まずは妹さんにもご挨拶しなきゃね」

 悟の誘導で二人が中に入っていく。葵は玲華の方を気にしているようだったが、優香に呼ばれて後を追っていった。

「玲華、昼食の用意手伝ってくれるか」

「う、うん……」

 線香の煙が部屋に漂う。悟は窓を開けてから、呆然と立ち尽くす玲華の方に寄ってきて、二人には聞こえないように小声で話しかけてきた。

「玲華、大丈夫か」

「……ちょっとびっくりしただけだから」

「やっぱり、蘭に少し似てるよな。雰囲気とか」

「父さんは知ってたの? 葵さんが蘭に似てるってこと」

「写真で見ただけで、実際に会うのは今日が初めてだな。でも似てると思ったよ」

「なんで先に言ってくれなかったの」

「実際に会ったことなかったから、俺の思い過ごしかもしれないってな。それにそんなこと言ったら、玲華は二人に会ってくれたか?」

 そのくらい平気だよ、と言おうとしたが、悟の言ってることは正しかった。そのあまりの正しさに、玲華は眉を顰めた。新しく妹ができると聞いただけでも動揺していたのに、その子が蘭に似ているなんて言われたら拒絶していたかもしれない。その点で悟のやり方は間違っていなかったのだが、やはり少し腹立たしいので、玲華は昼食のオムライスの卵を悟の分だけ半熟から堅焼きに変えることにした。

「あの、わたしも手伝います」

「ああいいよ、葵さんはゆっくりしてくれ」

「いえ、その……座っていると落ち着かなくて」

 葵は困ったように目を細めて笑った。

「これから家族になるんですし、お客さんってわけじゃないので、何か手伝わせてください」

「そうだな……じゃあ配膳をお願いしようかな」

 あらかじめ作っておいたチキンライスを悟が電子レンジで温め、その上に玲華が焼いた卵を上から被せて葵に渡す。どれも半熟で、自分でも中々の出来だと玲華は思った。

「あれ、悟さんのだけ半熟じゃないんですね」

「え、ほんとだ……玲華、もしかして怒ってる……?」

「ノーコメントで」

 玲華はさっとエプロンを外して席に座った。玲華の隣に悟が、葵の隣に優香が座り、玲華と葵が向かい合わせになるように座った。手を合わせて、それぞれオムライスを口に入れる。

「おいしい……」

 一口食べた葵が、目を丸くして呟いた。

「母が作るのよりおいしいです」

「ちょっと葵、私のだって美味しいでしょ?」

「まあ不味くはないけど……日によって味が変わるから。それと後片付けしないし」

「それが家庭の味なのよ」

「片付けるまでが料理だよ」

「そこは分担制なの」

 二人の会話で食卓に静かな明かりが灯されたようだった。玲華も卵とチキンライスをスプーンで縦に割り、スプーンの上で一体となったオムライスを口に運ぶ。ケチャップのほどよい酸味と、とろとろの卵が口の中に広がった。我ながら上出来だと玲華は一人頷いた。

 葵が目の前で食事をする光景に、玲華はどこか懐かしさを感じていたが、それが余計にこの空間を歪なものにしていた。蘭が帰ってきた、と思う一方で、それなら隣に座る優香は誰だという話になるし、やはり葵と蘭は別人だなと思う瞬間がある。頭の中がこんがらがって、葵と蘭の境界線が曖昧になっていく気がした。

「そういえば、二人は文芸部なのよね?」

「はい、そうですが……」

「……玲華ちゃん、この子のことよろしくね」

 通常なら社交辞令として受け取るべき言葉が、なぜか本当に言葉通りの意味を持っているような気がして、玲華は背筋が伸びた気がした。優香の言葉には、母として娘の身を案じているような、そんな重みがあった。

「……こちらこそ、よろしくお願いします」

 何か大きな渦に飲み込まれそうな感覚を覚えながらも、玲華は社交辞令を返した。

「それにしても蘭さん、葵に似てるわね」

「やっぱりそう思うよな? 実際に会ってみて余計に感じたよ。まあ性格とかは違うかもしれないけど、見た目がね」

「……どんな妹さんだったのか聞いてもいいですか?」

 葵の視線が玲華を捉える。その目は何かに縋るようにも見えた。

「すごくしっかりしてて、料理が得に上手だった。最初は父さんが作ってたのを二人で手伝ってたんだけど、蘭が十一歳くらいになる頃にはもうひとりで一通り作れるようになってて、蘭が中学に入ってからは炊事の主導権を握ってたね。あとはよく一緒に勉強してたから、蘭の成績は良かったよ。休日は蘭と一緒に料理をして、勉強してって感じだったかな」

「仲が良かったんですね」

「そうだね……少なくとも私は蘭のことが好きだったよ」

 玲華は胸に手を当てて目を閉じた。そうすれば、今でも蘭が自分の側にいるように感じられるのだ。

「わたしにも姉がいたので、どこか懐かしい気持ちになります」

「いた、ってことは今は……」

「はい。事故でした」

 葵は笑顔を作ったが、その目は色を失っているように見えた。

 きっと私にとっての蘭がそうであるように、葵さんにとっても亡くなったお姉さんは大切な存在なのだろう。玲華は波を捕まえるような気分で葵の表情を眺めていた。これから先、いつかやってくる別れまでずっと一緒にいて、道標のように手を引いてくれる存在。それがこんなにも早く、あっさりと失われてしまった喪失感は拭いきれない。心にぽっかりと穴が開いたような気分になる。

「すみません、湿っぽくなってしまって」

「大丈夫だよ葵さん。俺たちは家族になるんだから、変に気を遣わなくていい」

「でも……」

「じゃあ、皿洗いは玲華と葵さんにお願いしようかな」

「いいよ、任せて」

 玲華は努めて明るく笑った。

「それと玲華、終わったら葵さんに部屋を案内してやってくれ。蘭が使ってた部屋」

 その言葉に、ピタリと玲華の頬が硬直する。悟が再婚して妹ができるということは、要するに蘭が使っていた部屋を新しい妹が使うということでもあった。蘭の部屋は、玲華が時々掃除をしている以外はそのままの状態で手を加えていない。蘭を忘れないように、玲華はたまに部屋に入って蘭を感じていた。

「あの……その部屋って蘭さんのお部屋なんですよね? わたしは別に部屋がなくても大丈夫——」

「玲華、よろしくな」

「…………わかった」

 悟の強い押しに、玲華は唇を噛んだ。本当は父の言葉に反抗したかった。でもここで反抗したって蘭が帰ってくるわけじゃない。それでも悔しくて、つい唇を噛んでしまう。ここで泣き叫んで拒絶したら、何かが変わるだろうか。蘭が戻ってくるだろうか。そんなことは、絶対に起こり得ない。

「で、でも……」

「いいの、葵さん。先に部屋に案内してきていい?」

「もちろん。それなら皿洗いは俺がやっておくよ」

 そうして父に皿洗いを押し付けることが、玲華にできる精一杯の反抗だった。

 玲華は無言でダイニングを抜け、乱暴に部屋を開ける。もう蘭の匂いもしなくなってしまった部屋にせめて光が欲しくて、彼女は思い切りカーテンを開けた。光に当てられた埃が乱反射して輝いていた。

 玲華はベッドに向かい、そこに腰掛けた。葵はしばらく立ち尽くしていたが、扉を閉めて辺りを見回すように目線を動かしていた。

「ここが、新しいあなたの部屋」

「でもここには、蘭さんの面影が残ってるんですよね?」

「どうだろう、もう二年経っちゃったし」

「二年で忘れられるわけないじゃないですか……蘭さんのこと、大事に思っていたんですよね?」

「うん、そうだよ……私は蘭が好きだった。でもね、葵さん」

 だんだんと自分の瞳から色が消えていくのがわかる。急に冷気が流れ込んだように、玲華は体中の温度が下がっていくのを感じた。

「蘭はもう、帰ってこないんだよ」

 冷え切った喉から放たれる声は、自身の予想以上に渇いていて冷たかった。

「けれど、あなたは蘭にとてもよく似ている。まるで蘭が戻ってきたみたい」

 ——まあ、葵さんと蘭さんが別人だってことは頭に入れておいた方がいいわね。

 由紀の声が玲華の頭に響く。それでも、渇いた体は蘭を欲していた。

「わたし、玲華さんの妹になります」

 玲華の隣に葵が腰掛ける。ベッドが少し軋む音がした。

「それは……どういう意味かわかって言ってるの?」

「はい。わたしが蘭さんの代わりになります。だから玲華さん、あなたもわたしの姉になってください」

 葵の瞳は揺れていた。加えて、胸に当てた手が震えている。

「玲華さんが蘭さんにしてたこと、されてたこと、全部教えてください。わたしが玲華さんの特別になります。妹になります……だから」

 葵の顔が近づいてくる。こうして近くで見ると、葵の整った顔立ちがよりはっきりと感じられた。そして彼女はその手を玲華の手に重ねて、その目でゆらゆらと玲華の瞳を捉えた。少し汗ばんだ葵の手は、冷え切ったこの部屋の中だと余計に熱く感じた。

「わたしを愛してください。玲華さんの妹として」

 玲華は葵の瞳をじっと覗き込んだ。葵さんの瞳に映る私は、どんな色をしているのだろう。未だ亡き妹の面影を追いかけている私は、葵さんにどう映っているのだろう。

 少なくとも玲華には、葵は自分と同じでいなくなった人の面影を探して彷徨っているように見えた。

「じゃあ、キスして。蘭が私にしてくれたように、ここに」

 玲華は人差し指を自分の下唇に軽くあてた。

 もし、葵がキスをしないならそれでもいいと思った。いや、むしろしない方がお互いのためかもしれない。だってここでキスをしてしまったら、されてしまったら、二人は覚めない夢を見続けることになる。

 葵は一瞬目を見開いたが、すぐに目を伏せて顔をさらに玲華の方へ近づけてきた。それを合図に、玲華はそっと目を閉じる。

 蘭より薄い葵の唇は、玲華には何の味もしなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ