春は出会いの季節と言うけれど
線香の煙が、窓から差し込む春の光に照らされて、ちりちりと反射していた。
仏壇に添えられた写真に咲く一輪の笑顔に手を合わせて、槇玲華は席に着いた。
「いただきます」
「召し上がれ」
父である悟と向かい合って座り、玲華は自分の皿の卵焼きに手を伸ばした。卵焼きには白だしが入っていて、ほんのりとした風味が口の中に広がる。温め直した白米と味噌汁を交互につついていると、今日一日の天気をテレビが教えてくれた。
玲華が高校生になって二度目の春が来た。今年は一つ学年が上がって、後輩ができる。先輩たちが卒業して二人しかおらず、そのせいで存続の危機にある文芸部は、部員を最低でもあと二人何としてでもかき集めなければ同好会に格下げになってしまう。そうすると部費が安くなるので、文化祭で文集を出すのは絶望的になるだろう。そうなると連鎖的に文芸部の知名度が下がり、ついには廃部になってしまうかもしれない。私たちの代で部活が終わってしまうのはやるせない。なんとなくこう、未来の後輩たちに責められるような気がして。まあでも、二人くらいなら入ってくれそうなものだ。新入生、いい子たちだといいな。
「もうすぐ蘭の命日だな」
そんな春の始まりで膨らんだ胸に冷たい風が吹き抜けるように、悟の言葉が玲華の耳に入ってきた。
「……そうだね、お墓参りの準備しなきゃ」
「ああ……蘭に話しておきたいことがあるんだ。それから、玲華にも」
悟は口を一度開いて何かを言いかけてから、躊躇うように口を結んだ。そして今度は先ほどよりもゆっくりと、軋んだ扉を開くように言葉を紡いだ。
「俺、再婚しようと思ってる」
そのことに関しては、玲華はさして驚きはしなかった。父もいい歳だし、母のことを忘れたっていい頃だ。二人は玲華が幼い頃に離婚したので、彼女は母のことをあまり覚えていない。それに、悟に良い人ができたんだなというのも、なんとなく察していた。だからそのことに関して驚きも抵抗もなかった。
次の言葉を聞くまでは。
「それでな、玲華……玲華に妹ができるんだ」
妹? 私に、蘭以外の妹が?
それは玲華にとって、拒絶や抵抗を通り越してあり得ないに近かった。実感が湧かない、と言った方がいいだろうか。
「玲華が蘭と仲良しだったのはわかる。蘭が亡くなってからまだちょうど二年だし……受け入れ難いかもしれない。でも——」
「大丈夫だよ。父さんの好きにして」
震える声を隠すように玲華は笑顔を貼り付けた。上手く隠せた自信はなかった。
「玲華と同じ望都高校に入学したんだ。頭も良いしすぐに仲良くなれると思う……ああでも」
「でも?」
「……いや、なんでもない。忘れてくれ」
玲華は悟が顔を曇らせたのが気になったが、これ以上追求できる空気ではなかった。何より彼女にはその余裕がなかった。
「とにかく、二人はすぐに仲良くなれるはずさ。ああ、急だけど明日うちに来るから、家の掃除、よろしくな」
悟はそれだけ言って時計に目をやると、「行ってきます!」と勢いよく出て行った。
玲華は少しでも蘭のことを頭に残しておこうと線香の匂いを胸いっぱいに吸った。新鮮だけど煙たい空気は頭の中を駆け巡ってぼーっとさせた。
「蘭、私もう一度お姉ちゃんになるんだって」
ぽつり、と言葉が漏れた。
「私の妹はあなただけなのにね……」
そうして蘭の遺影にキスをして、玲華は家を後にした。
新入生も無事入学して三日ほど経っただろうか。真新しい制服に身を包み、まだ制服に着られている感の否めない後輩たちを見ると、玲華は自然と胸が温かい気持ちになる。
「こういうのを母性って言うのかな?」
「多分違うと思う」
そう答えた女生徒は、掛けていた眼鏡を外してケースに仕舞った。その動作は無駄がなく、どこか美しいとさえ思ってしまう。本人曰く、「幼い頃に芸事を嗜んでいたせいじゃない?」ということだ。
「玲華、次も移動教室だけど荷物取りに戻る? 私は持ってきたけれど」
「抜かりないね由紀……まあそういう私もしっかり持ってきたのだ」
集団で廊下を歩く一年生を眺めていると、玲華は一年前を思い出す。この学校は校内の移動にショートカットが利く分、迷いやすい。道なりに校舎内を歩くより、中庭を突っ切ったほうが早かったり、逆に中庭を突っ切ると行き過ぎて戻る羽目になったりと、なかなか楽しい構造をしている。だからああやって一年生が集団で歩くのは、移動教室で迷わないために自然と編み出された本能のようなものだ。
「うちの学校、迷いやすいもんね。近道たくさんあるし」
「近道なんてしようとするから迷うのよ。道なりに一周すれば目的地は必ず見つかるわ」
「でも急がないといけない時ってあるじゃん」
「人生は余裕がすべてよ。余裕を持つための努力を怠ってはいけないの」
「じゃあ私たちもそろそろ行こっか。余裕が大事なんでしょ?」
玲華と由紀は二教科分の教科書、ノート、問題集、プリントを抱える。軽く胸の下まで高さがあるそれは、見た目同様重量もそれなりだ。
「日直、黒板消してから出てってくれー」
化学教師の弱々しい声が耳に入る。そこで玲華は自身が日直であることを思い出した。
「ごめん由紀、先に行く?」
「いいえ、私も手伝うわ。二枚分の黒板、あなた一人だと遅刻するかもしれないし」
「ありがと。持つべきものは友だ」
はいはい、と言いつつ由紀は黒板消しを手に取る。なんだかんだ言って付き合ってくれる彼女が玲華は好きだった。きっとこういうのを面倒見が良い、と言うのだろう。玲華の網膜にふと妹の蘭と過ごした記憶が映し出される。蘭とはよく一緒に勉強をしていたが炊事の方は蘭がやってくれていたので、一方的に面倒を見ていたという感じはしない。
「……妹か……」
そして玲華は、今朝の悟との会話を脳内で反芻した。実際には誰にも聞こえないくらいの小ささで不意に漏れた言葉だったが、由紀にはしっかりと届いたようだ。黒板の字を消す手を止めて、由紀が玲華の方を伺う。
「……もうすぐ妹さんの命日だっけ?」
「え? ああうん、そう。そうなんだけど……」
「何か問題?」
「……父さんが再婚するんだ。それで、妹ができるって」
「そう……」
一瞬の逡巡の後、由紀は再び手を動かし始めた。
「まあ、悩んでる暇があったら手を動かしたほうがいいわ。考えるのもいいけど、結局相手に伝わるのは言葉と行動だけよ」
いつの間にか上下ある黒板の二枚目も消し終わった由紀は、手を合わせてチョークの粉を払った。
「急ぎましょう。あと五分で授業が始まるわ。一年生も入りづらそうにしているし」
あたりを見回すと、さっき廊下で見たのとはまた違う一年生らしき集団がちらほらと廊下に立っている。この学校は制服のリボンで学年がわかるようになっているから、先輩がいるのを見て入るのを躊躇ったのだろう。それか、何やら深刻そうな話をしているのが空気で伝わったのかもしれない。玲華は急いで自分の担当範囲を消していった。急いで消すとチョークの粉が舞って吸い込みそうになるので、息を止める。そして玲華はさっき由紀がしたのと同じように、手を合わせて粉を払った。ついでに制服に少し付いた粉も払う。
「おまたせ由紀。行こっか」
授業開始まであと三分。次の物理学教室は同じ階にあるとはいえ、それなりに距離はある。二人は荷物を落とさないようにしながら、小走りで教室へ向かった。次の角を曲がれば目的地だ。
「なんとか間に合いそうだね」
彼女たちは他の通行人の邪魔にならないように縦になって走っていた。玲華が前で、由紀が後ろ。玲華は振り返って先ほどの言葉を由紀にかけた。
それは一瞬だった。まるでドラマで主人公の中身が入れ替わるみたいに。
「——っ! 玲華、前!」
「え?」
遅かった。気づいた時には、玲華は尻もちをついて荷物をぶちまけていた。
「玲華! 大丈夫?」
「いてて……私は平気。あなたは——」
玲華は彼女を見て、絶句した。言葉を失った。何が起こったのかわからなかった。頭がおかしくなったと思った。
「すみません! 急いでたもので……」
そう言った少女は、少女の姿は。
玲華の妹である蘭に、とてもよく似ていた。




