癒えない傷
最初に感じたのは──何も感じないことだった。
意識が浮上するとき、身体の感覚が先に戻るものだと思っていた。だが右半身から返ってくるものがなかった。暗闇の中で、自分の身体の右側だけが存在しないような感覚。いや、感覚がないのだから「感覚」とは呼べない。ただ、あるべきものがなかった。
左手を動かした。
左手は動いた。指先に毛布の手触りがある。粗い織物の感触。それを頼りに、左手で右腕に触れた。
右腕はあった。肉があり、骨がある。温もりも──いや、温かいのか冷たいのかわからない。左手が右腕の肌に触れている。左手は右腕の感触を返してくる。だが右腕からは何も返ってこない。自分の身体に触れている感覚が、右側からは存在しない。
嵐の痣が広がっていた。
目を開けた。薄暗い空。灰色の雲。野営地の焚き火の残り火が、ぼんやりと橙色に燻っている。身体を起こそうとして、右半身が重いことに気づいた。感覚がないだけではない。力が入りにくい。紋章が広がった部位は、感覚だけでなく筋力も鈍っているようだった。
左手で身体を支え、なんとか上体を起こした。
右腕を見た。蒼白い樹枝状の紋様が、手の甲から前腕、肘、上腕を覆い、肩を越えて胸の右半分にまで達していた。首の付け根にも枝分かれが届いている。右半身が紋章に呑まれかけていた。
左手で右腕に触れた。もう一度。押してみた。つねってみた。何も感じない。自分の腕なのに、他人の腕に触れているようだった。あるべきものが、ない。その不在が──恐怖だった。
意識が戻る間、ペルンの記憶が絶え間なく流れていた。
夢と覚醒の境界で、ペルンの記憶が意識を浸していた。世界樹の下で嵐を纏うペルンの姿。ヴェレスと対峙する嵐神の横顔。天空から雷を呼び、大地を揺るがす力。それらの映像が、ラスラフ自身の記憶と混ざり合い、どこまでが自分の経験でどこからがペルンの記憶なのか判別がつかなくなっていた。
目覚めた今も、記憶の残響が消えない。
意識の背景に、遠雷のような低い響きが常にある。ペルンの怒りが──薄く、だが途切れなく──流れ続けている。背景音のように。消せない雑音のように。目を閉じれば、嵐の中に立つペルンの姿が瞼の裏に浮かぶ。
自分はラスラフだ。
そう確認しなければならないことが、怖かった。
ズラータが数歩離れた場所にいた。
焚き火の傍に座り、膝を抱えている。金色の三つ編みが肩に垂れ、緑色の目がラスラフを見ていた。目の下に深い隈がある。一晩中──いや、二晩か──眠らずにいたのだろう。
ラスラフの身体から、まだ放電が発生していた。微弱だが止まらない。パチパチという小さな音が、毛布の上で断続的に鳴っている。
ズラータの掌を見た。
雷痕が見えた。第七十八話で刻まれた、枝分かれした赤い焼痕。消えていない。そしてその隣に──新しい小さな焼痕が増えていた。人差し指の先。中指の付け根。薬指の側面。新しい焼痕が、古い雷痕の周りに散っている。
意識不明の間に、看護してくれた証だった。
棒きれで毛布をかけ直すたびに。水を飲ませようとするたびに。放電に灼かれながら、それでも傍を離れずに。
ラスラフは何も言えなかった。
謝罪の言葉が喉の奥に詰まり、形にならなかった。ありがとうも、ごめんも、足りない。ズラータの掌の傷が、ラスラフの沈黙を責めていた。
ズラータも何も言わなかった。ただ緑色の目が、ラスラフを見ていた。静かに。確かに。離れない、という意志だけを、目で伝えていた。
「北に行こう」
ヴェレスの声が、野営地の外から響いた。
人型の姿で立っている。黒い長衣に白銀の髪。琥珀色の目が北を向いていた。
「氷冠公国に答えがある。マルジャンナを退けた今、あの地への道が開いた」
ラスラフは立ち上がった。
右半身が重い。感覚がない腕と胸が、鎧のように身体に張りついている。だが足は動いた。左足が地面を踏み、右足が追い、一歩、二歩と歩を刻む。
頭の中にペルンの記憶が流れている。薄い遠雷。常時の背景音。消えない。
周囲に微弱な放電が弾けている。パチパチと空気を灼く蒼白い火花。止まらない。
三重の代償が、同時に進行していた。
身体の感覚を失いつつある。ペルンの記憶が意識に常駐し始めている。放電で仲間に触れられない。三つの鎖が、ラスラフの身体と心と関係に巻きついている。そしてその三つは、別々の問題ではなかった。力を使えば三つとも進行する。一つを止めることは、他の二つも止めることを意味し──それはすなわち、力を手放すことを意味した。
だが力を手放せば、冬を終わらせることはできない。
ラスラフは歩いた。
ズラータが隣を歩き始めた。触れられない距離。三歩の間隔を保ちながら、同じ方向を向いている。手は繋がない。触れない。でも、隣にいる。
ドモヴォイが後方から小さな足でついてくる。もじゃもじゃの髭を風に揺らしながら、二人の背中を見つめている。
一行は北に向かった。
空は暗かった。マルジャンナを退けたはずなのに、北の空の暗さは変わっていない。いや──冬が退いた分だけ、別の暗さが滲み出しているようにも見えた。色のない暗さ。冬とは違う質の、もっと根本的な暗さ。
ラスラフはその空を見て思った。
この空を変えてみせる。たとえこの身がどうなっても。
その「たとえ」の重さを、ラスラフはまだ本当には知らない。




