永冬を生きる者たち
北への街道は灰白色に閉ざされていた。
マルジャンナとの初戦から十日が過ぎている。雪は絶えず降り、空と大地の境界が溶け合ったまま、永遠に続く白の中をラスラフは歩いていた。左手で握った杖が雪を踏むたびに鈍い音を立てる。右手は外套の中に入れている。使い物にならないからだ。
ふと、右手を出してみた。外気に晒された指が冷えるはずだった。左手なら刺すような痛みが走る寒さだ。だが右手は何も返さない。触覚が死んでいた。嵐の痣が右半身を覆ってから、その部位の感覚はすべて沈黙している。
左手で右腕を撫でてみる。左の指先には、自分の腕に触れている感触がある。革の外套越しに筋張った前腕の輪郭がわかる。だが右腕は何も応えない。自分の腕に触れているのに、片側からしか世界が返ってこない。まるで右半身だけが別の場所にあるような、奇妙な乖離だった。
「ラスラフ」
ズラータの声がした。三歩ほど先を歩いている。放電を警戒して、この距離を保つのが二人の間の暗黙の取り決めになっていた。
「食事にしよう」
頷いて、道の脇に座った。干し肉と固いパンを出す。器に雪を入れて溶かし、白湯を作る。ズラータが火を熾し、ラスラフは器を右手で持とうとした。
指に力が入らなかった。いや、力は入っている。入っているはずだが、器を握る圧力がわからない。硬すぎるのか、弱すぎるのか。感覚が返ってこないから、指が器に正しく掛かっているかすら判断できない。
陶器の割れる音が響いた。
器が雪の上に落ち、二つに砕けていた。白湯が雪を溶かして泥の筋を作る。ラスラフは右手を見つめた。指は開いている。いつ離したのか、わからなかった。
「……すまない」
「替えがある」
ズラータは淡白に言って、別の器を差し出した。余計なことは言わない。それが彼女の優しさだった。だが余計なことを言わずに済んでしまうほど、こういう場面が日常になっていることが、ラスラフには不気味だった。
夜営地は荒野の森の縁に設けた。枯れた針葉樹が風除けになり、雪を掻き分けて地面を露出させ、火を焚く。ドモヴォイが手際よく焚き火の周りに石を並べ、風の通り道を読んで枝を組んだ。家の精霊の本領だった。
「おまえさんたち、火の番はわしに任せて寝ろ。寝不足の人間ほど使い物にならんものはないぞ」
ドモヴォイの小言を聞きながら、ラスラフは毛皮に包まって目を閉じた。ズラータは焚き火の反対側で横になっている。三歩の距離。いつもの距離だ。
眠りは浅かった。夢の中で何かが渦巻いていた。風の音か、記憶の断片か。判別がつかないまま意識が沈んでいく。
蒼白い閃光が闇を裂いた。
凄まじい轟音が夜営地を震わせ、ラスラフは跳ね起きた。目の前で、太い幹の針葉樹が縦に裂けていた。裂け目から白い煙が上がり、焦げた木の匂いが鼻を突く。幹の内側が露出し、冬の闇の中に蒼白い光が残像のように揺れている。
「ぎゃあっ!」
ドモヴォイが転がるように飛び退いていた。髭が逆立ち、小さな体が震えている。
「な、なんじゃ今のは! わしの髭が焦げたぞ! おまえさん寝ながら何をしておる!」
ラスラフの右手が微かに帯電していた。蒼白い火花が指の間を這い、消えていく。寝ている間の放電だ。制御の効かない無意識の暴走。
ズラータはすでに起き上がっていた。だが驚いた様子はない。目を一度瞬いただけで、裂けた木を確認し、それからラスラフを見た。
「怪我は」
「ない」
「そう」
それだけだった。驚かない。慣れている。この十日で何度目かの放電だからだ。ズラータの中で、ラスラフの放電は「起こりうること」として処理されている。その「慣れ」が、ラスラフには何よりも恐ろしかった。
翌朝、荒野の開けた雪原で修練を行った。ヴェレスが白狼の姿で雪の上に座り、琥珀色の双眸でラスラフを見つめている。
「放電の閾値が上がっている。以前は抑えられた出力が、今は漏れ出しているだろう」
ラスラフは右手を掲げ、意識を集中した。嵐の痣が脈打つように光り、指先から微かな雷光が走る。それを抑え込もうとする。かつてなら抑えられた出力だった。だが今は、力そのものが大きくなっている。水を掌で受け止めようとしているのに、水量が増えて指の隙間から溢れていく感覚に近い。
放電が弾けた。雪原に蒼白い光が走り、数歩先の雪が蒸発して土が露出する。
「力に身体が追いついていないだけだ。慣れる」
ヴェレスの声には断定があった。だがその断定の裏に、急かすような響きがある。慣れろ、ではなく、早く慣れろ。ラスラフはそれを感じ取ったが、問い質す言葉を持たなかった。
修練を終え、北の空を見上げた。永冬の灰白色とは異なる、暗く重い色が地平線の上に広がっている。雲ではない。もっと硬質な、人工的な暗さだ。
「あの暗さは氷冠公国の城壁だ」
ヴェレスが低い声で告げた。琥珀の目が北の暗色を見据えている。
「人間が、冬の中に国を築いている」
ラスラフは目を細めた。人間の国。大きな集団。村の外に出てから、人の群れというものをほとんど見ていない。北の空の暗い影が、巨大な何かの輪郭のように見えた。




