目覚め──三つの鎖
ズラータは棒きれを使っていた。
二日目の朝だった。氷の城から離れた野営地。ラスラフは意識を失ったまま、毛布にくるまれて横たわっている。呼吸はある。浅いが、途切れてはいない。
だが触れられなかった。
ラスラフの身体から、常時微弱な放電が発生していた。意識がないにもかかわらず、嵐の力が溢れ続けている。制御を失った力が、身体の表面に蒼白い火花を散らし、ぱちぱちと小さな音を立てていた。毛布に触れれば火花が飛ぶ。肌に触れれば灼かれる。
だから棒きれだった。
ズラータは細い木の枝を両手で握り、毛布の端をそっとかけ直した。棒きれの先で毛布の位置を調整し、ラスラフの胸元まで引き上げる。棒が毛布に触れるたびに、微かな放電が木の表面を走った。木は電気を通しにくい。だが完全には遮断できない。棒を握る指先に、びりびりとした痺れが伝わってくる。
丁寧だった。
棒きれを使う手つきが、丁寧だった。かつて治癒の手で傷を癒していた巫女が、今は棒きれで毛布をかけている。モコシュの力で傷口に光を当て、痛みを和らげ、裂けた肌を繋いでいたその手が──木の枝越しにしかラスラフに触れられない。
その落差が、何よりも残酷だった。
ズラータは棒を置き、少し離れた場所からラスラフの顔色を見た。血の気がない。唇が乾いている。額に汗が浮いているが、拭ってやることもできない。水を飲ませたいが、口元に器を持っていけば放電で手を灼かれる。
棒きれで、器を支えた。
水を入れた小さな器を棒で支え、ラスラフの唇に近づける。器が唇に触れ、水が少し流れ込んだ。ラスラフが無意識に嚥下した。器が放電で弾かれ、水が少しこぼれた。
もう一度。棒で器を支え直し、唇に近づける。今度は少し多く飲ませることができた。
「お嬢、少し休んだほうが」
ドモヴォイが小さな声で言った。
もじゃもじゃの髭に霜がついている。焚き火の傍に座り、ズラータの顔色を心配そうに見上げていた。ズラータの唇も青みがかっている。凍傷の跡が指先に残り、目の下に深い隈がある。一晩中眠らずに看護していたのだ。
「休まない」
ズラータは首を振った。声は掠れていたが、意志は明確だった。
「この子が目を覚ましたとき、誰もいなかったら」
言葉が途切れた。棒きれを握り直し、毛布のずれを直す。
「また離れていく」
声は震えていなかった。事実を述べているだけだった。ラスラフが目覚めたとき、傍に誰もいなければ──あの子はまた独りで立ち上がり、独りで距離を取り、独りで歩き始める。十七年間そうしてきたように。忌み子として育った少年は、独りでいることが「当然」だと信じている。
だからズラータは離れない。
放電が指先を焼いた。毛布の端を直そうとして、棒きれが滑り、指が毛布の端に触れてしまった。蒼白い火花が弾け、人差し指の先に小さな赤い焼痕ができた。ズラータは手を引き、指先を見つめ、そしてまた棒きれを握り直した。
何度でも。何度灼かれても。
ヴェレスが来た。
人型の姿で、黒い長衣の裾を雪に引きずりながら。琥珀色の目がラスラフの身体を見下ろした。
「器が力に耐えきれなかった。ペルンの力を限界以上に引き出した反動だ」
冷静な診断だった。感情を排した声。だがラスラフの嵐の痣を見たとき、琥珀色の目が僅かに見開かれた。
痣が広がっていた。
右手の甲から始まった蒼白い紋様が、今は右腕全体を覆い、胸の右半分に達し、首の付け根に指先のような枝分かれが届いている。右半身の広い範囲が、嵐の紋章に呑まれていた。
ヴェレスは黙って痣の広がりを確認した。予定より早い──その思考が琥珀色の目の奥に浮かんだ。計画にとっては好都合だった。器が拡大している。ペルンの力をより多く受け入れる準備が、予想以上の速度で進んでいる。
だがラスラフの苦痛を見る目に──計算だけではない感情が揺れた。
意識を失い、毛布にくるまれ、棒きれでしか看護してもらえない少年。放電で仲間を近づけず、傷ついた身体で横たわっている教え子。この状況をヴェレスが作った。力の覚醒を促し、制御の希望を与え、マルジャンナへの対峙を導いた。すべて計画の通りだった。
計画の通りだった。
ヴェレスは視線をズラータに向けた。棒きれを握って毛布を直す巫女の手。指先の新しい焼痕。一晩中眠らずに傍にいた証拠。
琥珀色の目が、一瞬だけ、影を帯びた。
何も言わず、ヴェレスは野営地の外に歩いていった。
夜。
ズラータは眠れずにラスラフの傍にいた。焚き火の明かりが、ラスラフの顔を照らしている。眉間に皺が寄っている。夢を見ているのか。苦しそうな表情。
ラスラフが寝言を呟いた。
「……ズラータ」
名前だった。自分の名前。意識のない口が、自分の名を呼んでいる。
ズラータは手を伸ばした。
放電が弾けた。蒼白い火花がズラータの指先を灼き、手が弾かれた。小さなパチンという音。あのときと同じ音。第七十八話のあの瞬間と同じ、小さく、残酷な音。
名前を呼ばれたのに、触れられない。
ズラータの頬を、涙が一筋伝った。声は出さなかった。唇を噛み、雷痕の残る掌を握り締め、ただ涙だけが頬を滑っていった。
焚き火の明かりが、揺れていた。




