触れられない看護
嵐が、世界を塗り替えた。
ラスラフの身体から放たれた力は、制御という枠を超えていた。ペルンの記憶に半ば身を委ね、堰を壊した瞬間──三百年前に死んだ嵐神の力が、ラスラフという器を通じて世界に顕現した。
目が金色に変わった。
灰青色の瞳が金色の光に呑まれ、ラスラフの目からペルンの目に変わる。視界が変容した。マルジャンナの冷気の流れが見える。冬を構成する力の脈動が見える。空気中の氷の結晶の一粒一粒が見える。
ラスラフの頭上で天が裂けた。
暗い空に亀裂が走り、その亀裂から──嵐が噴き出した。渦巻く雲が瞬時に空を覆い、雷光が雲の内側を走った。天空全体が一つの嵐になった。氷の城の天井のない空間に、本物の嵐が生まれていた。
降り注いでいた雪が、嵐の風に吹き散らされた。永遠に降り続けていた雪が──止んだ。嵐の風がマルジャンナの冬を押し返し、雪を巻き上げ、吹雪を逆流させていく。
幾条もの雷が天から落ちた。
一条目がマルジャンナの足元を砕き、氷の床に亀裂を走らせた。二条目が右方の壁を貫き、氷の壁面が崩落した。三条目、四条目、五条目──嵐が冬を蹂躙していく。凍りついた空気が雷の熱で蒸発し、蒸気の壁が立ち上る。
マルジャンナの冬が、後退した。
ラスラフが一歩踏み出した。足元に嵐が渦巻いている。右手を持ち上げた。掌の中心に蒼白い光が凝縮していく。光が、ペルンの紋章──嵐の痣そのものが発する光。力が一点に集束し、蒼白い光球が掌の上で脈動した。
放った。
雷撃ではなかった。ペルンの雷だった。
蒼白い光が一条の柱になってマルジャンナに叩き込まれた。氷の鎧が砕けた。胸を覆っていた氷の防壁が粉々に弾け飛び、マルジャンナの身体を直接貫いた。
マルジャンナが、初めて苦痛の表情を見せた。
蒼白い肌に亀裂のようなものが走り、白銀の髪が乱れた。膝が折れかけた。冬の女神が──膝をついた。だが倒れない。膝をつきながらラスラフを見上げている。
その目に浮かぶのは──怒りではなかった。認識だった。ペルンの力の残滓が、かつての威容で顕現したことへの──認識。
マルジャンナが吹雪に姿を溶かし始めた。
身体の輪郭がぼやけ、白銀の髪が雪に変わり、蒼白い肌が氷の結晶に還っていく。撤退だった。力の核を砕かれ、一時的に弱体化したマルジャンナが、冬の奥に退いていく。
最後の言葉が、吹雪の中から響いた。
「愚かな」
声は哀しかった。怒りではなく。嘲りでもなく。諦めに似た、三百年の孤独が滲んだ哀しみ。
「冬を退けてどうする。冬の先にあるものを、おまえは知らない」
声が消えた。吹雪が消えた。マルジャンナの気配が──退いた。
嵐が止んだ。
金色の光がラスラフの目から消え、灰青色が戻ってきた。だが視界がぼやけていた。足の感覚がない。膝が折れた。氷の床に両膝をつき、両手で身体を支えた。
全身が軋んでいた。力の反動が骨の一本一本を揺さぶっている。右半身の感覚が──鈍い。いや、鈍いのではない。感覚がない。右腕はすでに失われていたが、今は右の胸、肩、首の付け根まで感覚が消えている。紋章が──広がった。
視界の端で、ズラータが駆け寄ろうとしていた。
金色の三つ編みが揺れ、外套の裾が翻る。三歩、二歩──
放電が弾けた。
ラスラフの身体から、蒼白い火花が四方に散った。制御を失った嵐の力が溢れ出し、周囲三歩の空間を帯電させている。ズラータの足が止まった。もう一歩踏み出せば、放電に灼かれる。
ラスラフは手を伸ばした。
右手を──感覚のない右手を、ズラータに向けて伸ばした。届かなかった。指先から蒼白い火花が弾け、空気を焼いている。この手は届かない。守りたい者に、触れられない手。
視界がさらにぼやけた。暗くなっていく。最後に見えたのは、ズラータの緑色の目だった。手を伸ばしているが届かない。触れたいのに触れられない。
意識が途切れた。
闇の中で、声が響いた。ペルンの声か。ラスラフ自身の声か。区別がつかなかった。
「まだ、終わらない」
声は闇に溶け、ラスラフの意識は沈んでいった。




