冬を裂く雷
マルジャンナが動いた。
いや──マルジャンナは動いていなかった。彼女は一歩も踏み出さず、その場に立ったままだった。動いたのは冬そのものだ。
空気が凍った。
ラスラフの周囲三十歩の空間で、空気中の水分がすべて瞬時に凍結した。微細な氷の結晶ではない。空気そのものが氷になる。呼吸しようとした瞬間、肺に入る空気が凍りかけて喉が詰まった。
絶対零度に近い冷気だった。
マルジャンナの力は「冬の操作」ではなかった。冬そのものだった。彼女が存在するだけで、周囲は凍る。意図も攻撃も必要ない。マルジャンナの存在そのものが冬を生む。それに抗うことは、冬に抗うことと同じだった。
ラスラフは嵐を解放した。
紋章が脈動し、右半身が光を放つ。雷撃を前方に叩き込んだ。蒼白い稲光が空気を裂き、凍りついた冷気を蒸発させた。一瞬だけ温かい空間が生まれる。蒸気が立ち上り、呼吸ができるようになった。
だがすぐに凍り直した。三秒ともたない。冷気が押し戻し、蒸気が再凍結し、元の極寒に戻る。
ヴェレスが側面から仕掛けた。
地面から蛇の影が数本伸び、マルジャンナの足元を崩しにかかる。黒い蛇の頭がマルジャンナの足首に絡みつこうとした瞬間──影が凍った。マルジャンナの周囲では、影すら凍る。
だが一瞬の隙が生まれた。
マルジャンナの注意が足元に向いた刹那。ラスラフが踏み込み、全力の雷撃を叩き込んだ。蒼白い稲光が一条、マルジャンナの胸を貫く軌道で撃ち込まれた。
直撃した。
雷光が空間全体を白く染め上げた。轟音が氷の壁を震わせ、天井のない空に雷鳴が轟いた。
光が消えた。
マルジャンナは──立っていた。
胸の前で、氷の鎧が砕けかけていた。雷撃を氷の鎧で受け止めたのだ。鎧の表面にひび割れが走り、蒼白い光が亀裂から漏れている。だがマルジャンナの身体は無傷だった。
「その程度か、雷神の落とし子」
声に感情はなかった。事実を確認する声。嘲りではない。ただ──冬の女神にとって、今の雷撃は「その程度」だった。
ラスラフは歯を食いしばった。全力の雷撃を氷の鎧で防いだ。鎧は砕けかけている。もう一撃叩き込めば貫ける。だが──マルジャンナは鎧を再生させるだろう。永冬の中にいる限り、彼女の氷は無限に再生する。
持久戦では勝てない。
マルジャンナの冬は「維持」に力を必要としない。存在するだけで冬が生まれるのだから、マルジャンナは力を消耗しない。一方、ラスラフは力を使い続けなければ冷気に呑まれる。
時間が経てば経つほど、不利になる。
ペルンの記憶が囁いた。
もっと深く。もっと奥まで力を引き出せ。
ラスラフの意識の背景に流れる低い響き。ペルンの声ではない。ペルンの記憶が、戦闘の状況に反応して浮上してきた衝動。嵐神が全力を出すとき──本当の全力を出すとき──どうしていたかの記憶。
全力を出せば、代償が進む。嵐の痣がさらに広がり、感覚の喪失が加速する。ペルンの記憶の浸食が深まる。放電はさらに悪化する。
だが出さなければ負ける。
マルジャンナの冷気が再び膨張した。氷の鎧が再生していく。冬の女神は微動だにしない。待っている。ラスラフが消耗するのを。冬は──待つことが得意だった。
ラスラフは覚悟を決めた。
右手を握り締めた。嵐の紋章が激しく脈動し、右半身全体が蒼白い光を放った。光が腕を伝い、肩に、胸に広がっていく。痣が──広がっている。今この瞬間にも。
「まだ──まだ奥がある」
呟いた。声は自分の声だったが、言葉はペルンの記憶から来ていた。まだ奥がある。まだ引き出せる。この器にはまだ入る。
ペルンの記憶に半ば身を委ねる決断。制御ではなく、解放。堰を切るのではなく、堰そのものを壊す。
力が溢れ出した。




