凍てつく進軍
ヴェレスが人型に戻った。
白狼の姿から変容するとき、銀の毛並みが影のように溶け、黒い長衣を纏った壮年の男の姿が立ち現れる。琥珀色の双眸は変わらない。ただ目に宿る光が、獣の鋭さから知恵者の深みへと質を変えた。
「マルジャンナについて、話しておくことがある」
珍しく真剣な口調だった。ヴェレスの声には常に余裕があり、皮肉か比喩を挟む。だが今の声は、そのどちらもなかった。緊張がある。冬の女神の名を口にするとき、ヴェレスの声は違う響きを帯びる。
「マルジャンナは冬を司るのではない。冬そのものだ」
ラスラフは黙って聞いた。
「冬を操る者と、冬の化身は違う。おまえが風を操るように、マルジャンナが冬を操るのではない。マルジャンナの存在そのものが冬を生む。永冬が続く限り、あいつは力を増し続ける。終わりがない」
ヴェレスの目が、ラスラフを見据えた。
「正面から力比べをすれば、おまえが勝つ保証はない」
冷徹な分析だった。ラスラフの力を育ててきた導き手が、その力の限界を告げている。
「なぜマルジャンナは永冬を維持しているんだ」
ラスラフが問うた。
ヴェレスは間を置いた。琥珀色の目が何かを量るように細められ、視線が一瞬、横に逸れた。飲み込んでいる。何かを。ラスラフには、それが何かはわからなかった。
「冬の中でこそ存在できるからだ」
ヴェレスの答えは明快だった。
「マルジャンナは冬と死の女神だ。春が来れば力を失い、夏には消滅する。それが本来の摂理だった。だが三百年前に永冬が始まり、春が来なくなった。マルジャンナにとっては──永遠に自分の季節が続く状態だ」
理屈は通っていた。
「だから冬を永遠にしようとしている。自分が消えないために」
「そういうことだ」
嘘ではなかった。マルジャンナが永冬の中で力を増しているのは事実だ。永冬が終われば弱体化するのも事実だ。
だがヴェレスは語らなかった。永冬がなぜ「ただの冬」ではないのか。永冬がこの世界にとってどんな機能を果たしているのか。冬の奥にある、もっと深い暗さ──あの北の空の黒さが何を意味するのか。
ヴェレスの琥珀色の目が、一瞬だけ影を帯びた。言葉を飲み込む表情。ラスラフは見逃した。
「ではどう戦う」
ラスラフの問いは実務的だった。倒すべき敵と、倒し方。それだけが必要だった。
「殺す必要はない」
ヴェレスの声は明快さを取り戻した。戦略を語るときのヴェレスは、比喩を使わず直截に話す。
「神を殺すことは容易ではない。だが退かせることはできる。マルジャンナの力の核──冬の結晶と呼ばれるものがある。それを砕けば、一時的に弱体化する。弱体化した隙に退かせればいい」
「核を砕く方法は」
「嵐の力でなければ届かない。冬の核は冷気の鎧で覆われている。それを貫けるのは、ペルンの雷だけだ」
合理的な戦略だった。核を砕き、弱体化させ、退かせる。全滅させる必要はない。
だがヴェレスは言わなかった。マルジャンナを退けた先に何があるのか。冬を後退させたとき、その空白に何が流れ込むのか。北の空のあの暗さが、冬の向こうに何を隠しているのか。
「わかった」
ラスラフは了承した。
ヴェレスを信じている。師を、導き手を。この男の戦略に従えば、マルジャンナを退けられる。そう信じている。信じているから追及しない。問い詰めない。なぜマルジャンナの目的を詳しく語らないのか、なぜ戦略の先を言わないのか──そこに疑問を持たない。
ヴェレスが頷いた。
ラスラフが背を向け、野営地に戻っていく。
ヴェレスはその背中を見送った。琥珀色の目に浮かんでいるのは──計算か。安堵か。それとも、教え子の信頼を利用していることへの、もっと複雑な何かか。
ラスラフは歩きながら、ペルンの記憶の片隅に引っかかるものを感じていた。
マルジャンナの名をヴェレスが口にしたとき、ペルンの記憶が反応した。だがその反応は──予想していたものと違った。ペルンの記憶がマルジャンナに対して返した感情は、「憎悪」ではなかった。
悲哀だった。
なぜ嵐神が冬の女神を哀しむのか。ラスラフには、わからなかった。




