表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
雷神の忌み子 ~五感を代償に、少年は永遠の冬を終わらせる~  作者: 蒼月よる


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

79/139

雷痕

 翌朝、ラスラフは一行の先頭を歩いた。


 ではない。先頭ではなく──前方だった。ズラータたちが歩く列より二十歩ほど前を、独りで歩いていた。距離を置いている。自分から。


 氷原は果てがなかった。灰色の空が地平線まで続き、踏みしめる雪の下には凍った大地が沈んでいる。風が低く唸り、ラスラフの外套の裾を叩いた。左の脇腹に走る傷が、歩くたびに鈍く疼く。ヴェレスが蛇神の力で仮に塞いだが、完全には癒えていない。肉の裂け目がまだ皮膚の下で燻り、歩調に合わせて痛みの波を送ってくる。


 だが脇腹の痛みより、指先に残る感触のほうが重かった。


 昨日。ズラータに触れた瞬間の、あの放電。パチン、という小さな音。弾かれた身体。掌に刻まれた赤い枝分かれの焼痕。あの瞬間から、ラスラフの中で何かが壊れた。近づくことへの恐怖が、骨の髄まで染みている。


 背後に気配を感じた。ズラータの足音。ドモヴォイの小さな気配。二人は距離を保ちながらついてきている。ラスラフはその気配を背中で聞きながら、歩調を速めた。もう少し離れておきたい。もう少し。


 野営地を選んだとき、ラスラフは一行から離れた場所に陣を構えた。


 ズラータとドモヴォイの焚き火から、三十歩は離れた場所。風除けの雪壁を自分で築き、外套にくるまって座った。焚き火は起こさなかった。嵐の力が火に干渉するかもしれない。放電が火花を飛ばすかもしれない。理由はいくらでもあった。そのすべてが本当で、そのすべてが言い訳だった。



 足音が近づいてきた。


 ラスラフは顔を上げなかった。足音の主はわかっている。軽く、だが迷いのない歩調。ズラータだった。


 雪を踏む音が十歩のところで止まった。七歩。五歩。近づいてくる。


「来るな」


 声が出た。自分でも驚くほど荒い声だった。


 その瞬間、右手から蒼白い火花が弾けた。放電が指先から空気に散り、周囲の雪の表面をぱちぱちと焼いた。感情に連動している。怒りではない。恐怖だ。ズラータが近づくことへの恐怖が、嵐の力を刺激した。


 ズラータの足が止まった。


 ラスラフは自分の右手を見た。火花がまだ残っている。止められない。触れれば灼く。近づけば傷つける。この手は──


「……すまない」


 声が低く掠れた。荒げたことへの謝罪ではなかった。この身体がこうなってしまったことへの、もっと深いところからの謝罪だった。ペルンの怒りではない。自分自身の恐怖が、あの声を絞り出した。


 ズラータは何も言わなかった。足音が遠ざかっていく。振り返らなかった。



 夜が更けてから、ヴェレスが来た。


 人型の姿だった。黒い長衣の裾が雪の上を滑り、琥珀色の双眸が闇の中に浮かんでいる。ラスラフの隣に、自然に腰を下ろした。


 放電が弾けた。ヴェレスの腕に蒼白い火花が散る。だがヴェレスは眉ひとつ動かさなかった。神の身体は、人の身体に宿る電気の脆弱さを持たない。火花はヴェレスの肌の上で消え、煙すら立たなかった。


「明日から、力の流れを細く保つ練習を始めよう」


 ヴェレスが言った。何事もなかったかのように。放電を気にもせず、修練の話をしている。


 ラスラフは答えなかった。だがヴェレスの存在が、今はただ安堵だった。この男だけが──いや、この神だけが「普通に」自分の傍にいてくれる。触れても傷つかない。近づいても灼かれない。人間ではないから。


 その事実が、ラスラフの中の何かを軋ませた。人間に触れられず、神にだけ触れられる。人間の仲間を遠ざけ、神の導き手にだけ縋る。この構造が自分をどこへ連れていくのか、ラスラフは考えなかった。考えたくなかった。


「……ああ。頼む」


 短く答えた。ヴェレスが小さく頷く。琥珀色の目に何かが揺れた気がしたが、夜の闇ではわからなかった。


 遠くに、ズラータの焚き火が見えた。


 小さな橙の光が、氷原の闇の中で揺れている。手を伸ばしても届かない距離。数十歩の距離が、昨日までとは違う重さを持っていた。


 ラスラフは右手を見た。嵐の紋章が夜闇に薄く光っている。蒼白い紋様が、脈打つように明滅を繰り返していた。この光がある限り、あの焚き火には近づけない。あの温もりには、触れられない。


 握り締めた右手の中で、光が消えることはなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ