雷痕
翌朝、ラスラフは一行の先頭を歩いた。
ではない。先頭ではなく──前方だった。ズラータたちが歩く列より二十歩ほど前を、独りで歩いていた。距離を置いている。自分から。
氷原は果てがなかった。灰色の空が地平線まで続き、踏みしめる雪の下には凍った大地が沈んでいる。風が低く唸り、ラスラフの外套の裾を叩いた。左の脇腹に走る傷が、歩くたびに鈍く疼く。ヴェレスが蛇神の力で仮に塞いだが、完全には癒えていない。肉の裂け目がまだ皮膚の下で燻り、歩調に合わせて痛みの波を送ってくる。
だが脇腹の痛みより、指先に残る感触のほうが重かった。
昨日。ズラータに触れた瞬間の、あの放電。パチン、という小さな音。弾かれた身体。掌に刻まれた赤い枝分かれの焼痕。あの瞬間から、ラスラフの中で何かが壊れた。近づくことへの恐怖が、骨の髄まで染みている。
背後に気配を感じた。ズラータの足音。ドモヴォイの小さな気配。二人は距離を保ちながらついてきている。ラスラフはその気配を背中で聞きながら、歩調を速めた。もう少し離れておきたい。もう少し。
野営地を選んだとき、ラスラフは一行から離れた場所に陣を構えた。
ズラータとドモヴォイの焚き火から、三十歩は離れた場所。風除けの雪壁を自分で築き、外套にくるまって座った。焚き火は起こさなかった。嵐の力が火に干渉するかもしれない。放電が火花を飛ばすかもしれない。理由はいくらでもあった。そのすべてが本当で、そのすべてが言い訳だった。
足音が近づいてきた。
ラスラフは顔を上げなかった。足音の主はわかっている。軽く、だが迷いのない歩調。ズラータだった。
雪を踏む音が十歩のところで止まった。七歩。五歩。近づいてくる。
「来るな」
声が出た。自分でも驚くほど荒い声だった。
その瞬間、右手から蒼白い火花が弾けた。放電が指先から空気に散り、周囲の雪の表面をぱちぱちと焼いた。感情に連動している。怒りではない。恐怖だ。ズラータが近づくことへの恐怖が、嵐の力を刺激した。
ズラータの足が止まった。
ラスラフは自分の右手を見た。火花がまだ残っている。止められない。触れれば灼く。近づけば傷つける。この手は──
「……すまない」
声が低く掠れた。荒げたことへの謝罪ではなかった。この身体がこうなってしまったことへの、もっと深いところからの謝罪だった。ペルンの怒りではない。自分自身の恐怖が、あの声を絞り出した。
ズラータは何も言わなかった。足音が遠ざかっていく。振り返らなかった。
夜が更けてから、ヴェレスが来た。
人型の姿だった。黒い長衣の裾が雪の上を滑り、琥珀色の双眸が闇の中に浮かんでいる。ラスラフの隣に、自然に腰を下ろした。
放電が弾けた。ヴェレスの腕に蒼白い火花が散る。だがヴェレスは眉ひとつ動かさなかった。神の身体は、人の身体に宿る電気の脆弱さを持たない。火花はヴェレスの肌の上で消え、煙すら立たなかった。
「明日から、力の流れを細く保つ練習を始めよう」
ヴェレスが言った。何事もなかったかのように。放電を気にもせず、修練の話をしている。
ラスラフは答えなかった。だがヴェレスの存在が、今はただ安堵だった。この男だけが──いや、この神だけが「普通に」自分の傍にいてくれる。触れても傷つかない。近づいても灼かれない。人間ではないから。
その事実が、ラスラフの中の何かを軋ませた。人間に触れられず、神にだけ触れられる。人間の仲間を遠ざけ、神の導き手にだけ縋る。この構造が自分をどこへ連れていくのか、ラスラフは考えなかった。考えたくなかった。
「……ああ。頼む」
短く答えた。ヴェレスが小さく頷く。琥珀色の目に何かが揺れた気がしたが、夜の闇ではわからなかった。
遠くに、ズラータの焚き火が見えた。
小さな橙の光が、氷原の闇の中で揺れている。手を伸ばしても届かない距離。数十歩の距離が、昨日までとは違う重さを持っていた。
ラスラフは右手を見た。嵐の紋章が夜闇に薄く光っている。蒼白い紋様が、脈打つように明滅を繰り返していた。この光がある限り、あの焚き火には近づけない。あの温もりには、触れられない。
握り締めた右手の中で、光が消えることはなかった。




