離れる背中
追撃は予告なく来た。
北に向かって歩き始めた午前のことだった。氷原の東側から、冷気の壁が迫ってくるのを風の層が教えた。霜の牙の残存部隊。昨日の戦闘で撃退したはずの精霊が、再編成して追ってきていた。
六体。昨日より少ないが、統率は変わらない。
ラスラフは前に出た。
だが力を抑制しなければならなかった。昨日のような全力の嵐を解放すれば、味方への余波が──放電が──さらに悪化する。制御しながら戦う。力を必要最小限に絞り、精密な雷撃で一体ずつ仕留める。
それが、どれほど難しいことか。
一体目。右から来た精霊に雷撃を放つ。力を絞った分、威力が落ちている。霜の鎧を砕くのに二撃必要だった。二体目。左から。風の壁で受け止めてから雷撃。三撃。制御に気を取られて、反応が遅れる。
四体目が死角から来た。
氷の刃が閃いた。ラスラフは身をよじったが、遅かった。刃がラスラフの左の脇腹を裂いた。外套を断ち、肌を切り、肉に食い込む。冷たい痛みが走った。左半身だから──感覚がある。痛みがある。血が氷原に落ち、赤い点が白い雪に滲んだ。
痛い。
当たり前のことが、今は異様に鮮明だった。右半身なら感じなかった痛み。左半身だから感じる。冷たい刃の感触と、熱い血の流出と、肉が裂ける灼けるような激痛。感覚があることの証。
残る精霊を雷撃で払った。力を絞った分、仕留めるのに手数がかかった。最後の一体を風で吹き飛ばし、氷原に叩きつけてから、雷撃で消滅させた。
嵐が止んだ。
ラスラフは膝をついた。
左の脇腹を押さえている。血が指の間から滲み、外套を赤黒く染めていた。傷は深くない。致命傷ではない。だが出血が多い。永冬の冷気が傷口を刺し、痛みが脈打つように波打った。
ズラータが駆け寄った。
これまで何十回もしてきた行為だった。戦闘の後、傷を負ったラスラフのもとに駆け寄り、傷を診て、手当てをする。旅の中で繰り返した日常。ズラータの靴が雪を蹴り、三歩、二歩、一歩と距離を詰める。
膝をつき、ラスラフの傍にしゃがんだ。手を伸ばした。治癒の力はもうないが、傷口を押さえ、止血し、薬草を当てる──そのための手。巫女の手ではなく、旅の仲間の手。
指先がラスラフの肌に触れた。
蒼白い閃光が走った。
静かだった。轟音はなかった。昨日の嵐のような派手さはなかった。ただ、鋭い──刺すように鋭い放電が、ラスラフの肌からズラータの指先を貫いた。パチン、という小さな音。それだけだった。
ズラータの身体が弾かれた。
触れた瞬間の反射。ズラータが後ろに倒れ、氷の上に仰向けに倒れた。受け身を取る間もなかった。背中が氷を叩き、息が詰まる音がした。
ラスラフは凍りついた。
身体が動かなかった。ズラータに駆け寄ろうとする衝動と、近づけばまた傷つけるという恐怖が、同時に足を掴んだ。指先から、まだ微かな火花が立ち昇っている。止められなかった。止められない。
ズラータが起き上がった。
ゆっくりと。右の掌を見つめていた。
掌に、枝分かれした赤い焼痕が走っていた。指先から手首にかけて、稲妻の形に肌が焼けている。雷の痕。ラスラフの身体に刻まれた嵐の痣と同じ樹枝状の紋様が、ズラータの掌に──焼き印のように刻まれていた。
消えない傷だった。
ズラータは痛みに顔を歪めた。だが声は上げなかった。唇を噛み、左手で右の手首を押さえ、焼痕を見つめている。白い肌に走る赤い枝の紋様。巫女の手に刻まれた、嵐の代償の証。
ラスラフは自分の手を見た。
右手の指先から、微かな火花がまだ立ち昇っている。ズラータに触れたとき、自分の意志とは無関係に放電した。止められなかった。触れるだけで傷つける手。守りたい者を、触れるだけで灼く手。
「ごめん」
声が震えていた。喉の奥が詰まり、言葉がまともに出ない。ズラータに駆け寄りたかった。傷を見たかった。手当てをしたかった。だが足が動かない。一歩踏み出せば、また放電する。近づけば、また傷つける。
ズラータが口を開いた。「大丈夫」と言おうとしたのだろう。唇が動き、声を出そうとした。だが声が出なかった。痛みのせいか。それとも──「大丈夫」が嘘になることを知っていたからか。
口を閉じた。
二人の間に、数歩の距離があった。
手を伸ばせば届く距離。だが伸ばせない。伸ばせば、また蒼白い閃光が走る。またズラータの肌を焼く。また、あの小さなパチンという音が鳴る。
数歩の距離が、世界で最も遠い距離になった。
忌み子だった頃、人々は自分を避けた。石を投げ、目を逸らし、指を交差させた。あのとき、ラスラフと人間の間にあった距離は──社会的なものだった。心が生む距離。偏見が生む壁。だが今、ラスラフとズラータの間にある距離は、物理的な脅威だった。近づけば傷つく。触れれば灼かれる。嵐の力が、人間としての接触そのものを否定している。
忌み子の孤立が、嵐の力で再現されていた。
ヴェレスが来た。
白狼の姿ではなく、人型だった。黒い長衣が風に揺れ、琥珀色の目がラスラフを見下ろしている。ラスラフの傍に来て──肩に手を置いた。
放電は起きなかった。
神の身体には、人の身体に宿る電気の脆弱さがない。ヴェレスの手はラスラフの帯電した身体に触れても傷つかない。神だから。人間ではないから。
その手が温かかった。
ラスラフはその温もりに──ヴェレスの手だけが、今の自分に触れられるという事実に──縋りたい衝動を感じた。師の手。導き手の手。この手だけが、嵐の代償を超えて自分に届く。
「制御を学べば、こうはならなくなる」
ヴェレスの声は静かだった。
ラスラフは答えなかった。ズラータの掌の焼痕が、目に焼きついていた。枝分かれした赤い紋様。自分の嵐の痣と同じ形。触れるだけで刻んでしまった、消えない傷。
ズラータは立ち上がっていた。
右手を外套の中に隠し、左手で雪を払い、何事もなかったかのように歩き出そうとしている。だがその歩調が、わずかに不安定だった。右手を庇うように、左肩を前に出して歩いている。
ラスラフはその背中を見つめた。
追いかけたかった。隣を歩きたかった。肩に触れたかった。だが自分の手は──今は、誰も触れられない手だった。守りたい者を灼く手だった。
永冬の氷原に、二つの影が並んで歩いている。並んでいるが、その間には数歩の空白がある。以前はなかった空白。埋められない空白。手を伸ばせば届くのに、伸ばせない距離。
嵐の代償が、最も残酷な形で始まっていた。




