氷の下の噂
ズラータが手を翳した。
療養所の寝台に横たわる老人の胸の上に、細い指を広げる。凍傷が悪化していた。指先が黒ずみ、甲に紫色の斑が浮いている。放置すれば指を失う。三百年の永冬を生き延びた老人が、最後に指を冬に奪われようとしていた。
ズラータの手のひらが淡く光った──はずだった。
光は生まれなかった。
指先に力を集中する。モコシュの温もりを呼び起こす。大地の記憶を通じて傷を癒す、巫女の力。何度もやってきた。軽い凍傷なら触れるだけで消せた。寒さに蝕まれた皮膚が温もりを取り戻し、血の色が戻る。それが巫女の癒しだった。
手のひらに何も起きなかった。
温もりがない。力が応答しない。蛇の庭にいた頃から薄々感じていた減衰が、今ここで決定的になった。指先を見つめた。以前なら光を帯びていた掌が、ただの人間の手としてそこにある。
もう一度、力を込めた。
モコシュの名を心の中で呼んだ。大地母神。私の神。どうか、この者を癒す力をお与えください。応答はない。沈黙が返ってくるだけだった。大地の温もりは遠く、巫女の手はただの人の手だった。
老人が薄く目を開き、ズラータを見上げた。期待の目だった。巫女が来てくれた。治してもらえる。その期待が、ズラータの胸を刺した。
「……すまない。今は力が──」
声が震えた。それ以上は言えなかった。
周囲に人の気配があった。
療養所にいた集落の者たちが、ズラータの治療を見ていた。巫女の力が失敗する瞬間を。手を翳しても光が生まれない。凍傷が癒されない。モコシュの巫女と名乗った娘が、ただの人間の手を老人の胸に置いているだけの光景を。
視線が集まっていた。
同情の目があった。困惑の目があった。そして──失望の目があった。ペルンの力を持つ者に同行する巫女。その巫女に力がないのなら。期待外れだと言わんばかりの表情が、一人、二人と並んでいる。
ズラータの仮面が外れかけた。
一瞬だけ、表情が崩れた。唇が震え、目の縁が赤くなり、巫女の毅然とした顔が剥がれて、力を失いつつある十六歳の少女の顔がのぞいた。一瞬だった。すぐに引き締め直し、静かに手を下ろした。
「薬草で対処する。手当てはできる」
声は平静だった。だがその声を聞いたラスラフには──仮面の裏が見えていた。
宿所に戻るズラータの背を追った。
石畳を踏む足音が早い。逃げるようではないが、一人になりたいのが歩調に出ていた。ラスラフは迷い、それでも声をかけた。
「大丈夫か」
ズラータが足を止めた。振り返った顔には、いつもの無愛想な表情が戻っていた。
「少し疲れているだけだ」
笑顔を作ろうとした。笑顔というには硬すぎる、口元のわずかな変化だった。巫女としての表情ではなく、ラスラフを安心させるための表情。それが却って痛々しかった。
ラスラフは気づいていた。
蛇の庭にいた頃から、ズラータの力が弱まっていることを。大地の記憶を読み取る力が薄れ、モコシュの声が遠くなっていることを。ズラータがそれを隠そうとしていることも、隠しきれていないことも。
だがそれを言葉にする残酷さを、ラスラフは選べなかった。「力が弱まっているだろう」と言ってしまえば、ズラータの最後の砦を崩すことになる。巫女としての自分を保とうとしている彼女の、その努力を否定することになる。
二人の間に沈黙が落ちた。
炉の灯りが石壁に揺れ、二つの影を伸ばしている。ラスラフの影とズラータの影。近くにいるのに、互いの核心に触れられない。
「……休め」
それだけ言って、ラスラフは背を向けた。ズラータが何か言いかけ、口を閉じたのが気配でわかった。
夜だった。
集落の外れに、小さな影が膝をついていた。
ズラータだった。雪の上に膝をつき、紡錘を両手で握り、頭を垂れている。祈りの姿勢。巫女が神に問う、最も古い形。
ラスラフは足を止めた。声をかけるべきではないと直感した。これは彼女一人のものだった。
ズラータの唇が動いた。
「モコシュ様」
声は微かだった。風がさらっていくほどの。
「私はもう──巫女ではないのですか」
応答はなかった。
永冬の空が沈黙を返し、雪原が静寂を広げ、何も起きなかった。大地の温もりも、神の声も、何も。
涙がこぼれた。
音もなく。声を上げず。雪の上に落ちた滴が、一瞬だけ温もりの跡を残し、すぐに凍った。自分の身体から出るものだけが温かい。大地も空も何も応えない世界で、涙だけが温もりを持っていた。
やがてズラータは涙を拭い、立ち上がった。紡錘を帯に挟み直す。力を失った巫女の力の媒介。もう何の役にも立たない道具を、それでも手放さない。
背筋を伸ばした。
巫女の力がなくても、私にはやるべきことがある。その言葉が口をついて出たのか、それとも心の中だけで唱えたのか、ラスラフには聞こえなかった。ただ、立ち上がった背中が──折れていなかったことだけが見えた。




