癒せない手
長老が「力を見せてほしい」と言ったのは、朝餉の後だった。
「住民を安心させたい。ペルンの力とはどのようなものか。制御された状態で見せてもらえれば、恐怖を和らげることができる」
断る理由はなかった。ラスラフは広場に立った。
ヴォログダの住民が集まっていた。防壁の修繕を中断した男たち、子供を抱いた母親たち、杖を突いた老人たち。数十人の視線がラスラフに注がれている。期待と恐怖の入り混じった視線。二日前に通りで浴びたのと同じ目が、今度は広場を囲んで並んでいた。
ラスラフは空を見上げた。灰白色の天蓋。風はない。
力を集中した。
右腕の紋章が蒼白く発光し、空気が震えた。帯電した気流が渦を巻き、ラスラフを中心に風が生まれる。頭上の雲が動いた。渦を描くように回転し始め、中心が暗く沈む。雷雲の生成。制御された天候の改変。
雷を放った。
一条の蒼白い閃光が天に向かって伸びた。上向きの雷撃。地上から空へ。灰白色の雲を貫き、その裂け目から──一瞬だけ、青い光が見えた。永冬の雲の向こうにある、三百年間誰も見ていない空の色。
歓声が上がった。
子供が叫び、男たちが拳を突き上げ、女たちが隣の者と顔を見合わせた。「ペルンの力だ」。「冬を終わらせられる」。「やっぱり本物だ」。声が波のように広場を渡っていく。長老が頷き、杖を地面に一つ打ち鳴らした。満足の表情だった。
ラスラフの中に、二つの感情が共存していた。
役に立てている。この人々の恐怖を和らげ、希望を灯すことができた。力が誰かのために使えている。それは嬉しかった。
だが同時に、見世物にされている感覚が拭えなかった。長老の依頼は政治的な判断だった。住民を安心させるためのデモンストレーション。ラスラフの力を「管理可能な存在」として見せることで、集落の秩序を保つ。それは理にかなっている。だがラスラフの意志とは無関係に、力が演出されているのも事実だった。
広場を離れ、集落の外れに出た。雪壁の切れ目から氷原が見える場所に、白狼が座っていた。
琥珀色の目がラスラフを見上げた。
「利用されるぞ」
ヴェレスの声は低かった。
「何の話だ」
「今のことだ。長老は賢い男だ。だからこそ、おまえの力を政治の道具として使い始める。今日はデモンストレーション。明日は防衛の依頼。その次は──」
「彼らは安心したいだけだ」
ラスラフが遮った。ヴェレスは白狼の姿のまま、首を傾げた。
「安心の次は依存が来る。依存の次は要求が来る。神の力を持つ者に、人間はそうする。歴史が証明している」
「ヴォログダの人たちがそうだと言うのか」
「彼らに限った話ではない。人間は神を利用するか、石を投げるかのどちらかだ。中間はない」
その言葉の重さに、ラスラフは押し黙った。利用するか、石を投げるか。故郷の村で石を投げられた記憶が蘇った。ヴォログダでは──利用される側に回ったのか。
ズラータが背後から近づいていた。
白狼の言葉を聞いていたのだろう。ラスラフの横に立ち、ヴェレスを見つめた。緑色の瞳に鋭い光が宿っている。
「蛇神の言葉にも一理はある。だが──」
ズラータの声は静かだった。
「人間を見下しているわけではないのに、なぜそんな言い方をする」
ヴェレスの琥珀色の目が、ズラータを見た。
「見下してなどいない。期待していないだけだ」
「同じことだ。期待しないということは、相手に何かを委ねることを拒むということだ。それは──」
ズラータの言葉が途切れた。何かに気づいたように、白狼を見つめる目が細まった。
「自分のことを言っているのか」
ヴェレスは答えなかった。琥珀色の瞳が一瞬だけ揺れたように見えた。だがそれは炉火の揺らめきのように曖昧で、確かめようがなかった。
ラスラフがヴェレスに問いかけた。
「あんたは人間に石を投げられたことがあるのか」
白狼は答えなかった。
琥珀色の目をラスラフから外し、氷原の闇に向き直った。ゆっくりと立ち上がり、雪の上を歩き始める。白銀の毛並みが闇に溶けていく。足跡は残らない。三百年の孤独を纏った影が、永冬の暗がりに消えていった。




