順調だ
ヴェレスが修練の終了を告げたのは、紋章が確定してから二日後のことだった。
「基礎と器の拡張は済んだ」
白狼が修練場の中央に立ち、一行を見回している。ラスラフ、ズラータ、ドモヴォイ。三人と一匹が修練場に集まっていた。苔の光が四者の影を石畳に落としている。
「あとは実戦の中で磨くしかない。力の使い方は教えた。だが使い所を知るには、閉じた場所での修練では足りん。おまえには外の世界を見る必要がある」
「外の世界を見ろ、ということか」
「そうだ」
ヴェレスの琥珀色の目がラスラフを捉えた。
「北の氷原に、人間の生存共同体がある。永冬の中で生き延びている集落だ。数は少ないが、それなりの規模で存続している。数百人が寄り集まり、氷原の中で細々と命を繋いでいる」
「人間の集落」
ラスラフの胸に、何かがよぎった。人間の集落。村。人の輪。あの村で忌み子として生きていた記憶が、一瞬だけ頭を掠めた。だが今は違う。あの頃とは力が違う。自分が違う。
「そこに向かえ。人間の社会を知ること、そして──」
ヴェレスが一瞬、間を置いた。白狼の目が遠くを見た。
「冬の女神の勢力圏に近い。冬の女神の力を直に感じてみろ。おまえが何と戦うのかを理解するために。修練場で聞いた言葉と、直に触れた現実では重みが違う」
冬の女神。永冬の体現者。ラスラフがいずれ対峙すべき存在。蛇の庭の修練場では想像するしかなかったものが、北の氷原では現実になる。
ラスラフは頷いた。覚悟はできていた。いや、覚悟という大層なものではなく、前に進むしかないという単純な認識だった。後ろには戻れない。ここに留まっても力は頭打ちだ。ならば前に。
「わかった」
出立の準備は簡素だった。もとより荷は少ない。革袋に干し肉と水、防寒の毛皮、ラスラフの鍛冶槌。養父から受け継いだ小振りの槌を腰に下げ、紐を締め直す。鉄と木の手触り。右手では感じられないから、左手で確かめる。鍛冶槌の重さだけは、腰に下げた感覚で辛うじてわかった。ドモヴォイが腰に下げた小さな革袋の中身を確認し、ズラータが紡錘を帯に差している。
荷を纏めながら、ラスラフは修練場を見回した。石壁に囲まれた円形の広場。苔の青白い光。天蓋の岩に入った亀裂。自分の嵐が刻んだ壁面の焼け跡。この場所で、どれほどの時間を過ごしたのか。日数の感覚は曖昧だった。蛇の庭には昼夜の区別が薄く、苔の光は常に同じ明るさで灯っている。日を数えることを忘れていた。
だが確かに変わった。この場所に来たときの自分と、今の自分は違う。力が違う。器が違う。右腕の感覚を失い、ペルンの紋章を得た。世界樹の記憶を見た。ペルンの怒りに呑まれかけた。ズラータの手に救われた。ヴェレスの教えを受けた。蛇と稲妻の紋様を見た。
ここで過ごした時間は──
「ここで過ごした時間は」
声に出していた。ヴェレスの白銀の背中に向かって。不器用な言葉が口をついた。言い慣れていない種類の言葉だった。感謝を伝えた経験が、ラスラフには乏しかった。
「良かった」
沈黙が落ちた。ヴェレスの耳が動いた。白狼の巨体がゆっくりと振り返り、琥珀色の目がラスラフを見つめた。
「感傷的だな」
皮肉の声だった。だが声に棘はなかった。ヴェレスの目が細まり、そこに柔らかいものが浮かんだ。一瞬だけ。白狼の表情は読みにくいが、ラスラフにはわかった。蛇の庭で過ごした時間が、師と弟子の間に温もりを生んでいた。利害ではなく、共に過ごした時間の重さが、そこにあった。
「あんたは良い師だったと思う。修練は地獄だったが」
「褒めているのか文句を言っているのか判然としないな」
「両方だ」
ヴェレスの口元が緩んだ。琥珀色の目に確かな温もりがあった。三百年を孤独に過ごした神が、弟子の不器用な感謝に表情を崩す。その瞬間だけ、ヴェレスは神ではなく師だった。
「覚えておけ、ラスラフ。力の大きさではなく質で戦え。そして──」
ヴェレスが言葉を切った。何かを言いかけて、飲み込んだ。琥珀色の目が一瞬揺れ、何かの感情が表面近くまで浮かび上がり、すぐに沈んだ。
「いや、何でもない。行け」
ラスラフはそれ以上追わなかった。ヴェレスが言いかけて止めた言葉の中身は、知りようがなかった。だがその一瞬の揺れが、ラスラフの記憶に残った。いつかその言葉の意味がわかる日が来るのかもしれない。来ないのかもしれない。
宿営地の片隅で、ズラータがモコシュに祈っていた。
紡錘を両手で包み、膝をつき、目を閉じている。唇が微かに動いているが、声は聞こえなかった。祈りの姿だった。巫女の正式な祈りではなく、もっと個人的な、切実な祈り。毎晩のように繰り返してきた祈り。応答のない祈り。
ラスラフは声をかけなかった。少し離れた場所に座り、ズラータの横顔を見ていた。淡い金色の三つ編みが背に流れ、白磁に近い肌が苔の光を受けて青白く見える。紡錘を包む指先に、力が込められていた。祈りの姿は、いつも静かだった。
祈りが終わった。ズラータが目を開けた。
その瞳に何が映っていたのか、ラスラフにはわからなかった。モコシュの声が聴こえたのか。応答があったのか。ズラータの表情からは読み取れなかった。三人称限定の視点では、ズラータの内側に届かない。
だがズラータの手が紡錘を少し強く握った。まるで何かを確かめるように。微かな温もりを──応答ではなく、残響のようなものを──感じ取ったかのように。あるかないかの境界にあるものに、すがるように。
「まだ繋がっている」
ズラータの唇が動いた。聞こえるか聞こえないかの声だった。自分に言い聞かせる声。自分を奮い立たせる声。
ラスラフは黙っていた。ズラータの細い糸がどこまで持つのか、ラスラフにはわからなかった。わからないから、黙っていた。声をかけることが正しいのか、黙っていることが正しいのか。不器用な自分には判断がつかなかった。ただ、ズラータがそこにいることを確認できることに、静かな安堵があった。
ズラータが立ち上がった。紡錘を帯に差し、衣服の裾を整える。祈りの後の彼女は、いつもこうだった。何事もなかったかのように立ち上がり、背筋を伸ばし、巫女の姿勢に戻る。応答があってもなくても、やることは変わらない。前に進む。傍にいる。それだけだ。
その在り方が、ラスラフには眩しかった。力が衰えていく中でなお折れない芯の強さ。自分が忌み子として耐えてきた十七年と、ズラータが巫女として背負ってきた年月は、質が違うのかもしれない。だが折れないという一点において、二人は似ているのかもしれなかった。
一行が出立の最後の確認をしているとき、ドモヴォイがふと足を止めた。
蛇の庭の通路の途中、封じられた壁の前だった。以前、ドモヴォイが「鼓動が聞こえる」と言った壁。あのとき確かに、壁の向こうから脈打つような振動を感じた。精霊の本能が何かを感知し、もじゃもじゃの髭が逆立った。
今日は、何も聞こえなかった。
ドモヴォイは壁に耳を当てた。もじゃもじゃの髭が壁面に触れる。小さな目を閉じ、精霊の感覚を研ぎ澄ませた。呼吸を止め、全身を耳にして、壁の向こうの気配を探った。
静かだった。何の鼓動もない。何の振動もない。ただの石壁だった。冷たく、硬く、何も語らない石の壁。
「……気のせいだったのかね」
ドモヴォイは首をかしげ、壁から離れた。小さな足音を立てて通路を去っていく。
壁の表面に、以前はなかった微かな亀裂が走っていた。髪の毛ほどの細さで、壁の中央から斜めに伸びている。苔の光では見えにくい。暗がりの中で、石の色と同化している。ドモヴォイの目にも、それは映らなかった。
亀裂は静かに、そこにあった。壁の向こうで何かが変わったのか、変わっていないのか。答えを知る者は、この場にはいなかった。




