吹雪の果て
蛇の庭を出る朝だった。
出口に続く通路を抜け、地下から地上へ繋がる縦穴の下に立つ。見上げると、遥か上方に灰白色の光が見える。地上の光だった。永冬の空の、色のない光。蛇の庭に入ったときにも見た光。だがあのときとは、自分が違う。力が違う。右腕の感覚が違う。
ラスラフは立ち止まった。
力を確かめたかった。蛇の庭での修練のすべてが、今の自分に宿っている。それを最後にもう一度、確認してから出たかった。卒業する前の、最後の確認だった。
右手を上げた。感覚のない右手。ペルンの紋章に覆われた右手。力を集中する。嵐の力が右腕を流れ、紋様が蒼白く光った。力の流れは滑らかで、一切の抵抗がない。
風を操った。
縦穴の中を吹き上がる気流を掴み、渦を作る。風が意志に従って旋回し、渦の中心に気圧の谷が生まれた。空気が冷え、水蒸気が凝結し、小さな雲が渦の中に浮かんだ。白い雲だった。苔の光を受けて淡く輝いている。修練場の中で見せた天候操作の片鱗を、今度は意図的に、制御下に置いたまま再現する。覚醒の最中に起きた暴発ではない。意志による天候の改変。
雷を落とした。
一条の蒼白い閃光が縦穴の壁を叩いた。鋭い雷鳴が岩壁の間を反響し、残光が壁面を這う。制御は完璧だった。落とした場所に落ちた。威力も狙い通り。壁面に焼け跡が一つ残り、それ以外に被害はない。精密な一撃。ヴェレスの教え。力の質で戦え。
ラスラフの表情に、自信が浮かんだ。
蛇の庭に来る前の自分を思い出す。嵐の力は発動できたが、制御は不安定で、威力も限られていた。暴走の危険が常にあった。今は違う。力の質が変わった。雷撃だけでなく風を操れる。天候に干渉できる。第二段階覚醒を経て、ペルンの力の本質に一歩近づいた。
代償はある。右腕の感覚は失った。ペルンの記憶は日に日に深く浸食してくる。だが力は確かに自分のものだった。自分の意志で振るえる力だった。少なくとも今は。
ズラータが隣に来た。ラスラフの嵐を見上げ、散っていく雲の残滓を目で追っていた。何も言わなかった。ただ、口元に微かな笑みがあった。巫女としてではなく、旅の仲間としての笑み。それが何を意味するのか、ラスラフは考えかけて、やめた。考えるより先に、その笑みが温かかった。
ドモヴォイが革袋を肩に担ぎ直した。小さな身体に不釣り合いな大きさの革袋を、器用に背負っている。
「さて、行くかのう。地の底は居心地が良かったが、わしはやっぱり地上のほうが好きじゃ。煤の匂いがする場所がな」
「蛇の庭に煤の匂いはなかっただろう」
「だから好きになれんかったんじゃ。苔の光ばかりで、炉の灯りがないんじゃもの。家の精霊にとって炉は心臓みたいなもんじゃからな」
ドモヴォイのぼやきに、ラスラフは小さく笑った。蛇の庭に炉がなかったことを不満に思っていたらしい。この精霊は、どこにいても家と炉を恋しがる。
一行が縦穴を登り始めたとき、ヴェレスは下に残っていた。
白狼の姿で、通路の奥に座している。琥珀色の目が、登っていくラスラフの背中を見つめていた。少年の背中は、蛇の庭に来た頃より広くなった。筋肉がついたわけではない。在り方が変わったのだ。忌み子の背中ではなく、力を持つ者の背中になっていた。
「順調だ」
呟きだった。ラスラフには聞こえない。縦穴を登る足音と風の音が、ヴェレスの声をかき消していた。
順調だ。ラスラフの成長。器の拡張。紋章の完成。第二段階覚醒。すべてが計画通りに──いや、計画以上の速度で進んでいる。ラスラフの素質は予想を超えていた。ペルンの力がこれほど順調に定着するとは、三百年前には想像もしなかった。ペルンの血の力か、それともラスラフ個人の資質か。おそらくその両方だろう。
ヴェレスの評価は嘘ではなかった。ラスラフの成長を認め、その努力を評価している。教え手として、弟子の進歩を喜ぶ気持ちは本物だった。あの不器用な少年が、嵐を操れるようになった。それは紛れもない事実であり、ヴェレスが導いた結果であり、喜ばしいことだった。
だがラスラフに見えない角度で、ヴェレスの表情に別の色が混じっていた。
満足ではなかった。計算だった。器が拡張された。紋章が完成した。力が質的に変化した。それはすべて、ラスラフがペルンの神格をより深く受け入れられるようになったことを意味する。器が大きくなった。器の型ができた。次の段階──さらに深い覚醒──への道が開かれた。そしてペルンの力が覚醒すればするほど、対であるヴェレスの力も連動して回復する。ラスラフの成長は、ヴェレスの回復と直結していた。弟子の進歩が、師の回復の糧となっている。
計算の中に、微かな苦味が混じった。
ラスラフの不器用な感謝を思い出した。「ここで過ごした時間は、良かった」。あの言葉に偽りはなかっただろう。鍛冶屋の息子の不器用な口から出た、精一杯の感謝。そしてヴェレスが感じた温もりにも、偽りはなかった。師弟の間に生まれた情は本物だった。教えることに手を抜かなかった。ラスラフの疑問にはすべて答えた。嘘はつかなかった──真実のすべてを語らなかっただけで。
だが情と計算は、ヴェレスの中で矛盾なく共存していた。三百年をかけて磨かれた生存本能は、情に優先する。情があるからこそ、計画を止められない。ラスラフが強くなることを望んでいる。それは教え手としての願いであり、同時に、自己保存のための計算であり、同時に──自分でも正確には名付けられない何かでもあった。
ヴェレスは目を閉じた。
琥珀色の瞳が闇に沈む。再び開いたとき、そこにあるのは師の眼差しだったのか、それとも別の何かだったのか。蛇の庭の闇は深く、ヴェレスの表情を隠している。三百年の孤独を知る闇が、神の顔を覆っている。
地上に出た。
永冬の荒野が広がっていた。灰白色の空が頭上にのしかかり、雪原が地平線まで続いている。三百年間変わらない景色。色のない世界。冬の女神が支配する、凍りついた大地。空には雲があるのかないのかわからない。空全体が一枚の灰色の布のようだった。太陽の気配はない。光はあるが、光源がどこにあるのかわからない。永冬の空とはそういうものだった。
風が吹いた。
ラスラフは目を細めた。以前と同じ風だった。永冬の冷たい風。頬を切り、外套の裾を揺らし、雪片を巻き上げる風。骨を削るような乾いた冷気。
だが感じ方が違った。
風の層が見える。地表を這う冷気の層。その上を走る気流。さらに上空を流れる大気の動き。覚醒した力が、風の構造を透視するように読み取っている。以前は一枚の壁のように感じていた風が、今は無数の層に分かれて見えた。それぞれの層が異なる速度で異なる方向に流れ、互いに干渉し合い、渦を作り、嵐の種を孕んでいる。
掴めば動く。この風を、自分の意志で動かせる。蛇の庭の修練場で確かめたことが、地上でも変わらず機能している。天候操作は場所を選ばない。空がある限り、風がある限り、ラスラフの力は届く。
強くなった。確かに強くなった。
だが右腕は何も感じなかった。風の層は読めるのに、風が右腕に当たっている感触がない。冷たさがない。痛みがない。右腕だけが、永冬の世界から切り離されている。風が吹いても右腕には届かない。感覚がないということは、世界と繋がっていないということだ。
左手を風にかざした。冷たかった。骨を削るような冷気が指先を刺す。生きている。左手はまだ感じている。冷たさを、風を、世界の手触りを。痛みを感じられることが、生きている証だった。
右腕を外套の中に戻した。もう戻らないものを嘆くより、残っているものを守る。それが今の自分にできることだった。
「北じゃな」
ドモヴォイが雪原の向こうを見つめた。灰白色の空と白い大地の境界が曖昧に溶け合う地平線。その向こうに、氷原が広がっている。
「人間の集落があるそうじゃ。温かい飯が食えるといいがのう」
「期待するな」
ズラータが淡々と言った。だが口元に、微かな笑みがあった。
「期待するなと言われて期待しないのは無理じゃぞ。わしは家の精霊じゃ。温かい飯と暖かい炉はな、存在の根幹に関わるんじゃ」
一行は北に向かって歩き始めた。三人の足音が雪を踏む。ラスラフの重い足音。ズラータの静かな足音。ドモヴォイの小さな足音。雪原に刻まれる足跡は三つ。
背後で、蛇の庭の入口が闇に沈んでいく。
その闇の奥で、琥珀色の目が一瞬閉じられ、再び開いた。ヴェレスの眼差しが、遠ざかるラスラフの背中を追っている。白狼の巨体が闇の中に佇み、やがてゆっくりと立ち上がった。
一行の後を追うように、白狼の影が地上に出た。雪の上を歩く。足跡は残さない。霜を纏った白銀の毛並みが、灰白色の光の中でぼんやりと浮かんでいる。
そこにあるのは師の眼差しか、それとも──
一行は北へ向かった。永冬の荒野を、三人と一匹の影が歩いていく。灰白色の空の下、雪原に刻まれる足跡は三つ。白狼の足跡は、一つもなかった。




