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雷神の忌み子 ~五感を代償に、少年は永遠の冬を終わらせる~  作者: 蒼月よる


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出立の準備

 ズラータが、ラスラフの右腕を見たいと言った。


 宿営地の火の傍だった。朝食の干し肉を噛み終え、ドモヴォイが片づけに立った後、ズラータが静かに切り出した。火がパチパチと小さな音を立て、煤けた煙が天蓋に向かって立ち昇っている。


「右腕を見せてほしい」


 ラスラフは一瞬ためらった。感覚を失った右腕を見せることに、言葉にできない抵抗があった。忌み子として十七年、痣を見せるたびに人が目を逸らした。あの経験が身体に染みついている。だがズラータの緑の瞳に浮かぶ真剣さを見て、外套の袖をまくった。


 蒼白い紋様が現れた。


 手の甲から始まり、指の根元、手首、前腕、肘、上腕、肩口まで。腕全体を覆う樹枝状の紋様。以前は手の甲に走るだけの、歪な稲妻のような線だった。それが今は腕全体に広がり、精緻な対称形を描いている。苔の光を受けて紋様が浮かび上がり、紋様の一本一本が微かに脈動していた。生きた紋様だった。


 ズラータの息が止まった。


 巫女の目が紋様を辿っている。ラスラフには見えないものが、ズラータには見えているようだった。指先が紋様の上を滑る。触れてはいない。紋様の線を空中からなぞるように、指を動かしている。手首から前腕へ、前腕から肘へ、肘から上腕へ。丁寧に、一本一本の線を追っていく。


「これは」


 ズラータの声が低くなった。巫女の声になっていた。知識を伝える声。


「モコシュの巫女として、私は古い記録を読んだことがある。ペルンの神殿に刻まれていた紋章の写し。大地の記憶から読み取った、数百年前の記録。神殿は永冬に呑まれて失われたが、紋章の写しは巫女の間で伝承されていた」


 ズラータの指が止まった。紋様の中心──前腕の内側にある、放射状の意匠の上で。そこから枝分かれした線が腕全体に広がり、全体として一つの紋章を形成している。


「完全に一致している」


「一致?」


「この紋様は、ペルンの紋章だ」


 ズラータが顔を上げた。緑の瞳がラスラフを見つめている。


「ペルンの徴。雷と嵐を司る者の証。あなたの痣は、ずっとこの紋章の断片だった。種のようなものだ。手の甲に刻まれた小さな種が、力の覚醒に伴って芽吹き、成長し、腕全体に広がって紋章の全体像になった」


 ラスラフは右腕を見下ろした。手の甲に走る樹枝状の線。それは十七年間、忌み子の証だと思っていたものだった。村人が目を逸らし、子どもが石を投げる理由。呪いだと思っていた紋様。それが、呪いではなかった。


 ペルンの紋章だった。


「あなたの中のペルンの力が、もう偶然の残滓ではなく、明確な形を取ったということだ。この紋章は、力が器に定着した証。偶然この形になったのではない。力がこの形を選んだ。ペルンの力は、嵐を司る者の証を刻む形でしか定着しない」


 ズラータの声は冷静だった。巫女としての知識を伝える声。だがその声の底に、かすかな震えがあった。ラスラフの身体がペルンの力に書き換えられていく。紋章の完成は、その過程が不可逆であることの証明でもある。種が芽吹いた後、種には戻れない。


 ラスラフはそのかすかな震えに気づいていた。気づいていて、触れなかった。触れれば何かが壊れるような気がした。



 ヴェレスが近づいてきた。白狼の巨体が宿営地の端に座し、ラスラフの右腕を見つめている。琥珀色の目が紋様を辿り、一つの呟きが漏れた。


「完成したか」


 声は低かった。抑えた満足。師が弟子の到達点を確認する声だった。


「完成?」


 ラスラフが聞き返した。ヴェレスの目が細まった。


「紋章が完成した、という意味だ。これでおまえの力は安定する。器が紋章という形を取ったことで、力の流れに型ができた。型がある力は暴れにくい。暴走のリスクは減る」


 嘘ではなかった。紋章の完成は力の安定化を意味する。力が型に収まり、制御しやすくなる。ヴェレスの説明に論理的な矛盾はなかった。


 だが「完成」という言葉の意味するところが、ヴェレスとラスラフでは異なっていた。ラスラフにとっての完成は、力の安定化。覚醒の一つの到達点。ヴェレスにとっての完成は──


 ヴェレスは視線をラスラフの右腕から外し、修練場の方向を見つめた。琥珀色の目に何が映っているのか、ラスラフには読めなかった。三百年前の記憶か。計画の進捗の確認か。


「おまえはよくやった。ここまでの修練は、想定より早く進んでいる」


「あんたの教え方がいいからだろう」


「皮肉か」


「素直な感想だ」


 ヴェレスの口元が──白狼の口元が、微かに緩んだ。笑ったのかもしれない。狼の表情は読みにくいが、琥珀色の目に温もりが滲んだ気がした。一瞬だけ。すぐに消えた。だがあったことは確かだった。



 一人になった。


 宿営地から少し離れた修練場の端で、ラスラフは右腕の紋章を見つめていた。


 左手の指で紋様をなぞった。右手には感覚がないから、左手で触れるしかない。蒼白い線が腕全体を走り、稲妻のように枝分かれし、精緻な対称形を描いている。冷たい。右腕の皮膚は冷たかった。感覚のない腕は、自分で温もりを作れない。血は通っているはずだが、触れると冷たい。


 忌み子の印だと思っていたものが、ペルンの紋章だった。忌み子の痣を持つ鍛冶屋の息子が、実は嵐神の血を引く者だった。呪いだと思っていたものが、力の証だった。


「ペルンの紋章を背負う、か」


 声に出した。自分の声が石壁に反響し、薄暗い修練場に消えていく。


 自分で選んだわけではなかった。生まれたときから刻まれていた痣が、覚醒に伴って紋章になった。ラスラフの意志とは無関係に、身体がペルンの力を受け入れ、形にしていった。拒否する選択肢は──


 なかった。


 仮に拒否しようとしても、紋章は消えない。力は消えない。ペルンの血が自分の中を流れている事実は変わらない。選ばなかった道の上に立っている。選ばなかったのに、立っている。


 だがそれは、村で忌み子として生きていたときと同じだった。忌み子であることを選んだわけではない。痣を持って生まれたことを選んだわけではない。選ばなかったものに縛られ、選ばなかった運命を生きてきた。違うのは、今はその運命に力があることだ。忌み子の痣は呪いだった。だがペルンの紋章は力だ。嵐を操る力。天候を変える力。冬を砕く──かもしれない力。


 選ばなかった。だが背負うことはできる。


 ラスラフは右腕を握った。感覚のない拳を。見た目には握れている。ズラータがそう言った。握れている。ちゃんと。あの言葉が、紋章の重さを支える杭のように胸に刺さっている。


 右腕を外套の内に戻した。紋章は布の下に隠れたが、存在は消えない。ペルンの紋章を背負った腕が、感覚のないまま、ラスラフの身体の一部としてそこにあった。


 拒否する選択肢は、もう存在しない。ならば前に進むしかない。紋章を恥じるのではなく、紋章と共に歩く。忌み子の痣を隠していた頃とは違う。今は力の証として、布の下に収めておく。見せびらかすものでもなければ、恥じるものでもない。ただ在るものだ。自分の一部として。


 立ち上がった。宿営地に戻ると、火の傍でズラータが紡錘の手入れをし、ドモヴォイが革袋の中身を整理していた。ドモヴォイは革袋の中から小さな道具を一つ一つ取り出しては確かめ、また仕舞っている。箒のミニチュア。火打石。針。家の守護精霊の名残の道具たち。使い道はないが手放せないと、以前言っていた。ラスラフが座ると、ドモヴォイが黙って水の入った椀を差し出した。小さな手で、丁寧に。


 左手で受け取り、飲んだ。冷たい水が喉を下りていく。その冷たさを感じられることに、小さな感謝があった。感じられることの有り難さは、感じられなくなって初めてわかる。右手で飲めば、水の冷たさは感じない。温度も重さも、右手には届かない。だが左手には届く。まだ届く。残っているものがある。それを忘れてはならなかった。


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