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雷神の忌み子 ~五感を代償に、少年は永遠の冬を終わらせる~  作者: 蒼月よる


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ペルンの紋章

 覚醒の翌日、ラスラフは右腕の感覚がないまま目を覚ました。


 石畳の冷たさが左半身に伝わっている。背中の筋肉が強張り、全身に昨日の消耗が残っていた。まるで鍛冶場で三日三晩休みなく槌を振ったような疲労感だった。右腕は身体の横に投げ出されている。見れば確かにそこにある。蒼白い紋様に覆われた右腕。だが目を閉じると、腕がどこにあるのかわからなくなる。空間の中に腕だけが消失したような感覚。いや、感覚がないのだから、それは感覚ではない。不在の認識だった。


 起き上がった。左手で岩壁を掴み、身体を起こす。右腕が重力に従って垂れ下がる。肩の関節は動く。意識して動かせば腕は上がり、肘は曲がり、指は握れる。だが感覚がない。拳を握れば指が曲がっているのが見えるが、握っている実感がない。力が入っているのかどうかすら、視覚でしか確認できなかった。鍛冶屋の息子にとって、手の感覚は道具の延長だった。槌を振り、鉄を掴み、刃の温度を指先で確かめる。その感覚の一切が、右手から消えた。


 修練場に出た。一人だった。まだ朝が浅く、ズラータもドモヴォイも宿営地にいる。蛇の庭の天蓋から苔の光が落ち、石畳を青白く染めていた。昨日の嵐の痕跡が残っている。壁面の苔が千切れ、石畳に亀裂が走り、砂粒が散乱している。天蓋の岩にも細い亀裂が入っていた。自分が起こした嵐の爪痕だった。


 右手を見た。感覚のない手。嵐の痣に覆われた手。紋様が腕全体を走り、精緻な稲妻の意匠を描いている。


 力を引き出した。


 嵐の力が右腕を流れた。痣が蒼白く光り、指先から微かな放電が散る。力の通りが──滑らかだった。以前とは比較にならないほど。感覚のない右腕を通る力に、一切の抵抗がなかった。摩擦がない。痛みがない。力が流れるべき場所を、何の障害もなく流れていく。


 皮肉だった。感覚があったとき、力は身体の中で摩擦を起こしていた。痛みがあり、灼ける感覚があり、その抵抗が力の流れを乱していた。感覚がなくなった今、力は何の障壁もなく流れる。壊れた器官のほうが、力の通りが良い。鍛冶場で使い込んだ道具が最も手に馴染むのと同じ理屈かもしれない。だが鍛冶場の道具は使い込んでも壊れない。ラスラフの右腕は壊れた。感覚という機能が壊れた。壊れたことで、別の機能が向上した。


 ラスラフはその矛盾を噛み締めた。力を得るために身体を失い、身体を失ったことで力はさらに扱いやすくなる。この循環には終わりがない。力を使い続ければ、いずれ全身の感覚を失うだろう。そしてそのとき、力は最も完全な形で流れる。


 完璧な力の器。だが中身は空っぽの身体。


 首を振った。考えるのは後だ。今は、覚醒した力を確かめなければならない。



 岩壁に向き直った。修練場の端にそびえる天然の石壁。昨日まで雷撃の標的にしてきた壁面には、無数の焼け跡が刻まれている。新旧の焼け跡が重なり合い、壁面を蒼黒い斑に染めていた。


 右手を上げた。力を集中する。嵐の力が右腕に収束し、痣の紋様が明るく脈動した。力が渦を巻き、指先に蒼白い光が凝縮する。


 雷撃を放った。


 轟音が修練場を叩いた。蒼白い光の柱が右手から石壁に伸び、壁面を抉った。以前の雷撃とは威力が桁違いだった。焼け跡ではなく、壁面にえぐれた穴が残っている。拳が二つ入る大きさの穴。石が砕け、砂粒が宙に舞い、焦げた匂いが立ち込めた。轟音の残響が長く尾を引き、石壁の間で何度も反射してから消えた。


 だが雷撃だけではなかった。


 風を動かした。意識を周囲の空気に向ける。昨日の覚醒で掴んだ感覚がまだ残っている。空気の流れが見える。修練場の地表に溜まった冷気の層、天蓋付近を流れる暖気の層、石壁に沿って上昇する気流。温度差が生む対流の構造が、透明な糸のように視界に浮かんでいる。その一つ一つに意志を伸ばし、掴む。


 風が渦を巻いた。ラスラフを中心に、修練場の空気が回転を始める。意志に従って風向きが変わり、風速が上がり、小さな旋風が石畳の砂粒を巻き上げた。旋風は制御下にあった。大きくするのも小さくするのも、ラスラフの意志次第だった。天候操作の入口。ヴェレスが言った力の質の変化が、今、手の中にある。


 力を強く引き出した。旋風を大きくしようとした。


 頭の中に映像が走った。


 ペルンの記憶だった。暗い空。渦巻く雲。嵐の中心に立つ巨大な影──ペルンの姿。怒りが流入する。使命感が流入する。哀しみが流入する。断片ではなかった。場面の連続が、波のように押し寄せてくる。一つの映像が消える前に次の映像が重なり、意識が記憶の奔流に呑まれかける。


 世界樹に向かって雷を放つペルンの腕。大地を走る蛇を追う視線。空を覆い尽くす嵐──それはペルンの嵐だった。ペルンの意志で生み出された、世界を震わせるほどの嵐。その嵐の中で、ペルンは孤独だった。天の頂に立ち、地上のすべてを見下ろし、誰にも届かない場所から雷を落とす孤独。


 ラスラフは旋風を解いた。力を引っ込め、映像を振り払う。呼吸が荒い。頭痛がする。こめかみを鈍い痛みが叩いている。ペルンの記憶が引いた後に、使命感の残滓が胸に残っていた。孤独の感覚が残っていた。自分の感情なのか、ペルンの残響なのか。もう判別がつかなくなりかけている。



 夕刻、宿営地に戻ると、ドモヴォイが火の番をしていた。小さな身体を火に寄せ、もじゃもじゃの髭を撫でている。火が橙色の光を放ち、宿営地の岩壁に揺れる影を作っていた。ラスラフが座ると、ドモヴォイの小さな目がこちらを見上げた。


「おまえさん、顔つきが変わったのう」


「そうか」


「前はもっと、何というかな。怯えた犬みたいな顔をしておった」


「犬は余計だ」


「今は違う。自信がある。腹が据わった。強くなったぞ、おまえさん」


 ドモヴォイの声に温かみがあった。もじゃもじゃの眉の奥で、小さな目が笑っている。家の守護精霊は、家族の成長を喜ぶ。それが精霊の本能だった。ラスラフは火を見つめた。炎の揺らめきが石壁に影を作り、宿営地を橙色に染めている。火の温もりが左手に届く。右手には届かない。


「ただのう」


 ドモヴォイの声が少し低くなった。髭を撫でる手が止まった。


「時々、自分じゃない顔になるぞ」


 ラスラフは視線を上げた。


「自分じゃない顔?」


「うまく言えんがのう。力を使っておるとき、目つきが変わる。おまえさんの目じゃない目になる。もっと古い目。もっと怒った目。一瞬じゃがな。わしは長いこと人間の顔を見てきたから、わかるんじゃ。数百年、同じ家に住む人間の顔を見てきた。顔つきの変化には敏感なんじゃよ」


 ドモヴォイの言葉は重かった。軽い口調の中に、精霊としての観察力が滲んでいる。家の守護精霊として数百年、人の顔を見てきた者の目だ。その目は、ラスラフに見えないものを見ている。


 ラスラフは笑った。努めて軽く。


「気のせいだろう。力を使うと集中するから、顔つきも変わる」


「そうかのう」


 ドモヴォイはそれ以上追及しなかった。だがもじゃもじゃの髭を撫でる手が、少しだけ遅くなった。小さな目がラスラフの顔を見つめ、何かを確かめるように細められた。


 ラスラフは火を見つめ続けた。自覚はあった。力を引き出すとき、自分の意識の隣にペルンの意識が並ぶ感覚。自分の視界の端に、ペルンの視界が重なる感覚。それは覚醒のたびに強くなっている。


 不意に、ペルンの記憶が割り込んだ。


 世界樹に向かって雷を放つ腕が見えた。巨大な腕だった。蒼白い紋様に覆われた腕。ラスラフは自分の右腕を見た。痣に覆われた右腕が、記憶の中のペルンの腕と重なった。


 同じ紋様だった。同じ形だった。同じ稲妻の意匠が、三百年の時を超えて、二つの腕に刻まれている。


 ラスラフは右腕を外套の内側に引き込んだ。記憶が消えた。だが紋様は消えない。ペルンの紋章を刻まれた右腕が、外套の内側で静かに脈動していた。


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