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雷神の忌み子 ~五感を代償に、少年は永遠の冬を終わらせる~  作者: 蒼月よる


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目覚めの朝

 嵐の子よ、聞け。これは器の砕ける音ではない。器が生まれ変わる音だ。


 朝が来たとき、ヴェレスの目に決意があった。白狼が修練場の中央に立ち、琥珀色の双眸でラスラフを射抜いている。周囲の空気が張り詰めていた。苔の光が、いつもより青く、いつもより鋭く、石壁を照らしている。修練場に漂う空気そのものが、今日が特別な日であることを告げていた。


「器の拡張を再開する。今日で終わらせる」


「終わらせる?」


「今日、限界を超える」


 ヴェレスの前足が石畳を叩いた。大地が震え、修練場全体に暗い力が脈動した。石畳の隙間から黒い靄が這い出し、蛇の力が修練場の空気を満たしていく。


「超えた先に、次の力がある。おまえが雷しか使えないのは、器が足りないからだ。器を壊せ。壊した先に、新しい器が待っている」


 これまでにない負荷がラスラフの身体を貫いた。ヴェレスの力が大地を通じてラスラフの足元から立ち昇り、嵐の力を内側から掻き立てる。対の力の共鳴。全身の血管が燃えた。血管の一本一本が帯電し、筋繊維が悲鳴のように震える。痣が脈動し、蒼白い光が右手から右腕全体に走る。


 器の壁が見えた。力を注ぎ込むたびに壁が軋む。これまでの修練で広がってきた器の限界。堤防の天端。その壁に、さらに力を押し込む。壁が抵抗する。身体が拒絶する。


 激痛が走った。身体の内側が裂けるような感覚。骨が軋み、筋肉が悲鳴を上げ、嵐の痣が全身を焼く。ラスラフは歯を食いしばった。砕けそうだった。器が壊れるのか広がるのか、その境界の上に立っている。均衡点。ここで退けば元に戻る。ここで押せば──


「超えろ」


 ヴェレスの声が遠くから響いた。近いはずなのに遠い。意識が白く飛びかけている。力の奔流が器を内側から叩き、壁が限界を迎え──



 砕けた。


 壁が砕けたのではなかった。壁が消えた。器の限界が融解し、力が新しい形を取って全身を満たしていく。質が変わった。水が沸騰するように、力が相転移を起こした。ラスラフは目を見開いた。


 雷だけではなかった。


 周囲の風が渦を巻き始めた。ラスラフの意志が風に触れている。風の流れが手に取るようにわかる。地表を這う冷気の層、その上を走る気流、さらに上空の大気の動き。すべてが透明な糸のように見え、その糸を掴めば風向きを変えられるという確信があった。ヴェレスが言った天候操作。あれが今、手の中にある。


 気圧が変動した。修練場の空気が重くなり、次の瞬間に軽くなる。耳鳴りがした。鼓膜が内側から押される感覚。石畳の上の砂粒が舞い上がり、苔の光が揺れ、壁面に結露が生じた。温度が変わっている。湿度が変わっている。ラスラフの意志が、この空間の天候そのものに干渉し始めていた。


 雲が生まれた。


 岩の天蓋の下に、雲が生まれた。蛇の庭の修練場という閉じた空間で、気圧の変動と温度差が水蒸気を凝結させ、灰色の雲塊が渦を巻いて膨れ上がる。ありえないことだった。地下の洞窟に嵐が生まれている。雲は渦を巻きながら天蓋に押しつけられ、端から端まで修練場の天井を覆った。


 雲が天蓋を覆った。蒼白い稲光が雲の腹を走り、修練場全体が明滅する。光と闇が交互に修練場を染め、石壁が一瞬ごとに違う顔を見せる。風が唸りを上げ、石壁に叩きつけられる。嵐だった。ラスラフを中心に、蛇の庭の修練場が嵐に呑まれていく。石畳が震え、壁面の苔が千切れて宙に舞い、小石が弾丸のように飛ぶ。


 ヴェレスが一歩退いた。


 白狼の巨体が風圧に押され、四肢を踏ん張って耐えている。琥珀色の目が見開かれていた。驚愕ではない。だが予想を超えた力の発現に、三百年を生きた神の目にすら動揺が走った。毛並みが風に逆立ち、尾が横殴りの突風に煽られる。


 ラスラフの目が光った。灰青色の瞳が一瞬、金色に変わった。稲光の反射ではない。瞳そのものが金に灼けている。ペルンの目だった。嵐神が世界を見たときの、金色の瞳。


 嵐が咆哮した。天蓋の岩が軋み、石壁に亀裂が走る。修練場の苔が千切れて風に舞い、雷鳴が石壁の間で何重にも反響する。世界が震えていた。一人の少年の覚醒が、地下の修練場を嵐の中心に変えていた。



 嵐が止んだ。


 唐突に、すべてが静まった。雲が散り、風が凪ぎ、雷鳴の残響が石壁に吸われて消える。修練場に静寂が戻った。深い、耳が痛くなるような静寂。石畳の上に砂粒が散り、壁面の苔が千切れた跡だけが残っている。天蓋から結露の水滴が落ち、石畳を叩く小さな音がする。


 ラスラフは立っていた。


 世界が違って見えた。


 風の流れが見える。空気中の水分がわかる。気圧の層が感じられる。すべてが自分の意志の延長として、手の中にある。掴めば動く。解き放てば嵐になる。天候という巨大な体系の一端に、自分の意識が接続されている。鍛冶場で鉄を打っていた手が、今は風を掴んでいる。


 力を得た高揚が全身を駆け抜けた。これまでの雷は点の攻撃にすぎなかった。今は違う。面を制圧できる。天候そのものを操れる。ヴェレスが言った力の質の変化が、今、ラスラフの身体の中で起きていた。


 直後。


 右腕に激痛が走った。


 いや、激痛ではなかった。激痛すら感じなかった。正確に言えば、感覚そのものが消えた。右腕の感覚が、一息に消失した。


 嵐の痣が広がっていた。手の甲から前腕にかけて走っていた蒼白い紋様が、一気に肘を超え、上腕を覆い、肩口にまで達している。樹枝状の紋様が腕全体を包み込み、精緻な稲妻の意匠を描いている。右手の感覚は完全に消失した。指先から肩まで、何も感じない。前腕の鈍い感覚も消え、上腕は触れられているのかいないのかすらわからない。


 右腕が、自分のものではないようだった。視界には確かにある。動かせる。握れる。だが感覚がない。右腕だけが、世界から切り離されている。



 ラスラフは右手を握り締めようとした。


 指が動いた。拳の形を作った。だがそれが見えているだけで、感覚として確認できない。握れているのか。力が入っているのか。右手が存在しているのかすら、目を閉じたらわからなくなる。力を得た代償。器が広がった代償。それが右腕の感覚だった。


 力を得た。天候を操る力。嵐を生む力。だがその代わりに、右腕の感覚をすべて失った。覚醒と喪失が同時に押し寄せ、ラスラフの胸を掴んだ。喜びと恐怖が区別できない。一つの感情の表と裏だった。


 足音が近づいた。


 ズラータが駆け寄ってきた。修練場の入口から走り込み、散乱する石片の間を縫って、ラスラフの前に立った。息が荒い。嵐の轟音を聞きつけて来たのだ。金色の三つ編みが乱れ、額に汗が浮いている。


 ズラータの緑の瞳が、ラスラフの右腕に向いた。腕全体を覆う蒼白い紋様。それを見て、ズラータの目が一瞬見開かれた。巫女としての知識が、その紋様の意味を即座に読み取ったのだろう。だがすぐに表情を引き締めた。


 ラスラフが右手を見つめていた。握れているのかわからない拳を。


 ズラータが、ラスラフの右手を両手で包んだ。


 冷たいはずだった。蛇の庭の空気は冷えているし、ズラータの指先も冷たいはずだ。だが右手からは何も伝わらない。温度も、圧力も、ズラータの指の感触も。何一つ。


「握れている」


 ズラータの声が言った。静かな声だった。震えはない。揺らぎはない。事実だけを伝える声。


「ちゃんと、握れている」


 ラスラフの目に、涙が浮かんだ。


 力を得た喜びがあった。天候を操れるようになった。嵐を生み出せるようになった。ペルンの力の本質に一歩近づいた。その喜びと、右腕の感覚を失った恐怖が、同時に胸を満たしていた。喜びと恐怖の間に境界はなく、二つの感情は一つの涙になって頬を伝った。


 ズラータの手がラスラフの拳を包んでいた。感覚はない。温もりは伝わらない。だがズラータの手がそこに「ある」ことだけは、わかった。目で見て、わかった。それで十分だった。今は、それだけで。



 修練場の奥で、ヴェレスが覚醒したラスラフを見つめていた。白狼の巨体が静かに座し、琥珀色の目がラスラフの背中を捉えている。


「よくやった」


 声は穏やかだった。師が弟子の成長を認める声。嘘ではない。ラスラフの覚醒を喜ぶ気持ちは、確かにヴェレスの中にあった。弟子がここまで到達した。教えた技が実を結んだ。その喜びに偽りはなかった。


 だが琥珀色の目の奥が、揺れていた。満足とは違う色。計算の手応え。あるいは、計算通りに事が運んだことへの──微かな、苦味。喜びと計算は矛盾なく共存していた。それがヴェレスという神の、三百年で磨かれた在り方だった。


 ヴェレスは目を閉じた。再び開いたとき、そこにあるのは師の眼差しだけだった。


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