第二段階覚醒
翌朝、ヴェレスが決定を下した。
「器の拡張は一時中断する」
修練場に集まった三人とヴェレスの間に、緊張した空気が流れていた。昨日なぎ倒された樹の残骸がまだ片づいていない。焦げた幹が横たわり、飛散した木片が石畳を覆い、焦げた匂いが苔の光の中に淀んでいる。暴走の痕跡だった。ラスラフがやったことの証拠が、目の前に並んでいる。
「代わりに、安全策を講じる。ラスラフの力が暴走した際に、外側から抑え込む手段が要る」
ヴェレスの琥珀色の目がズラータに向いた。
「巫女の結界は嵐の力を封じられるか」
ズラータは一瞬の間を置いた。紡錘を握る左手に、微かに力が入った。
「やってみる」
その声に迷いはなかった。だがラスラフには見えなかった──ズラータの指先が、紡錘を握り直すとき、わずかに震えたことを。
修練は実戦形式で行われた。ラスラフが修練場の中央に立ち、意図的に力を引き上げていく。嵐の力が全身を巡り、周囲の空気が帯電し始める。右手の痣が蒼白く光る。力の密度が上がるにつれ、石畳の上に小さな放電が走った。足元の砂粒が浮き上がり、空気中の水分が結露して霧のように漂う。
「もっと上げろ」
ヴェレスの指示に従い、ラスラフは力の出力を高めた。風が渦を巻く。天蓋に向かって気流が立ち昇り、修練場の空気が唸りを上げる。石畳の亀裂から砂が噴き出し、壁面の苔が風に千切れそうになる。感情を抑えたままの出力。だが力の総量が増した今、制御の余裕は薄い。意識の端でペルンの記憶が明滅する。怒り。使命感。蛇の姿。あの映像が再び割り込んでくれば──
力が境界を超えかけた。制御の糸が張り詰め、今にも切れそうになる。ペルンの記憶の断片が視界の端をちらつく。暗い空。渦巻く雲。もう少しで引きずり込まれる──
「ズラータ」
ヴェレスの声が合図になった。
ズラータが紡錘を掲げた。左手に握った木製の紡錘の表面が、淡い緑の光を放つ。光がズラータの手から広がり、空中に紋様を描いた。大地の紋様。渦巻きと直線が交差する幾何学模様。大地母神の巫女の結界。紋様が空中に固定され、ラスラフを包むように球形に展開していく。
緑の光がラスラフを包んだ。
衝突が起きた。嵐の蒼白い力と、大地の緑の結界が修練場の中央でぶつかり合う。光と光が混じり、火花が散る。空気が震え、石畳が軋む。二つの力が互いを押し合い、せめぎ合う。蒼白い嵐の力が結界の内壁を叩き、緑の光が震える。
結界が嵐の力を封じ込めていく。ラスラフの身体から溢れる帯電が、ズラータの結界に触れるたびに減衰する。緑の光が蒼白い力を吸い込み、中和していく。力の奔流が細まり、暴走の兆候が収まっていく。
辛うじてだった。結界がラスラフの力を抑え込むまでに数秒を要した。以前なら一瞬だったはずだ。ズラータの結界の光は揺らいでいて、内側からの圧力に耐えかねるように明滅していた。結界の表面に波紋が走り、一部が歪んで薄くなる箇所がある。以前の結界は均一な光を保っていた。隙のない、安定した構造。今日は違う。
力が収束した。ラスラフの周囲の帯電が消え、風が凪ぐ。修練場に静寂が戻った。ズラータが紡錘を下ろした。その手が微かに震えていた。額に汗が浮いている。
「助かった」
ラスラフが言った。息が上がっている。額に汗が浮かび、全身の筋肉が強張っていた。だが暴走は止まった。ズラータの結界が、寸前で力を封じた。
ズラータが笑った。淡い微笑だった。疲労を隠すような、だが温かみのある微笑み。
「次も同じようにする。暴走の兆候が出たら、私が抑える」
「頼りにしてる」
ラスラフの言葉に、ズラータは頷いた。笑顔のまま。その笑顔の裏に何が隠れているか、ラスラフには見えなかった。
結界が以前より脆くなっていることを、ズラータは口にしなかった。紡錘を通じて流れるモコシュの力が、確実に衰えていること。結界を展開するたびに、以前より多くの力を絞り出さねばならないこと。かつては呼吸のように自然だった結界の展開が、今は全力の力業になっていること。ラスラフの力が増すほど、自分の結界では抑えきれなくなる日が近づいていること。
それを言えば、ラスラフは力を抑えようとするだろう。自分のために成長を止めようとする。そういう男だ。不器用で、自己犠牲的で、他人を気にかけすぎる男だ。だからこそ言えなかった。
ズラータの目の下に、薄い翳りがあった。疲労の色だった。結界一つ張るだけで消耗する。以前はそんなことはなかった。結界を十も二十も重ねて、まだ余力があった。今は一つで息が上がる。
修練場の端で、ヴェレスが二人を見ていた。
琥珀色の目が、ズラータの紡錘に向いていた。結界の展開中、光の揺らぎをヴェレスは見逃さなかった。以前の結界はもっと安定していた。光は均一で、内側からの圧力にも揺るがなかった。今日の結界は違う。光が明滅し、表面に波紋が走り、内圧に押されて歪んでいた。結界の構造そのものが脆くなっている。
巫女の力が弱まっている。
モコシュの力が衰弱していることはヴェレスも知っていた。大地母神は世界の最後の防壁に力を充てており、巫女への供給は細くなる一方だ。その影響がズラータの結界に現れている。以前は太い柱のように安定していた力の供給が、今は細い糸のように頼りない。
「巫女の力も、長くはもたないな」
独白だった。声に出したのか出さなかったのか、ヴェレス自身にもわからなかった。琥珀色の目がズラータの横顔を捉える。疲労を隠す笑顔。ラスラフの傍にいるために、減りゆく力を絞り出す巫女。その姿に──
微かな同情が胸を掠めた。一瞬だった。次の瞬間には、計算が同情を塗り潰していた。ズラータの結界が保たなくなっても、計画に大きな支障はない。ラスラフの器の拡張が最優先であり、暴走の制御は別の手段で対処できる。巫女の力の有無は、最終的な目的にとって枝葉の問題にすぎない。
ヴェレスはズラータから目を逸らし、修練場の天蓋を見上げた。岩の天井に苔の光が青白く映えている。表情は読めなかった。琥珀色の目は感情を映さない。それがこの神の、三百年をかけて身につけた技術だった。
夜になった。
宿営地の火が低く燃えている。ラスラフとドモヴォイは眠りについていた。ドモヴォイの寝息が規則正しく響き、ラスラフの呼吸は深い。修練の疲労が、容赦なく意識を引きずり込んでいた。
ズラータは一人、宿営地から少し離れた岩陰に座していた。
紡錘を両手で包み、目を閉じた。
「どうか」
声は小さかった。祈りだった。
「もう少しだけ力を」
モコシュに語りかけている。大地母神への、巫女としての祈り。これまで何度も行ってきた祈り。幼い頃から、紡錘を握り、大地に膝をつき、モコシュの声を聴いてきた。応答はいつもあった。温もりが紡錘を通じて掌に流れ込み、母のような声が遠くから響いた。大地のように包み込む、穏やかな声。
応答はなかった。
紡錘は冷たいままだった。木の温もりだけがあり、神の力の気配はない。声も温もりもない。ズラータは目を開けた。暗闇の中で、紡錘の摩耗した紋様がぼんやりと見えた。長い年月を経て角が丸くなった紋様。かつてはこの紋様が光を放っていた。今はただの木の模様だった。
祈りは繰り返されなかった。ズラータは紡錘を胸に抱き、岩壁に背を預けた。緑の瞳が天蓋の闇を見上げている。その目に何が映っているのか。涙か、覚悟か、それとも──
火の残り灯が岩陰に届き、ズラータの横顔を橙色に染めていた。静かな横顔だった。




