巫女の結界
空気がピリピリと帯電していた。
蛇の庭のどこにいても、それは変わらなかった。宿営地で火を起こせば火花が散り、岩壁に手を触れれば微かな放電が走る。ラスラフが水を飲もうと革袋に手を伸ばすだけで、革の表面に青白い光が弾ける。ラスラフの周囲だけ、空気の質が違う。目に見えないが、肌で感じる。髪の毛が逆立ち、金属が近くにあると引き寄せられるように震える。感情が揺れるたびに帯電が強まり、小さな放電が散発する。まるで嵐を内側に閉じ込めた壺に亀裂が入り、中身が少しずつ漏れ出しているようだった。
「器が広がる過渡期だ」
ヴェレスが修練場の端から説明した。白狼の姿で横たわり、前足を組んでいる。声は穏やかだが、ラスラフから距離を置いていた。以前より二歩分ほど遠い。それが意図的なものかどうか、ラスラフには判断がつかなかった。
「力が新しい容量に馴染むまで不安定になる。おまえの身体が拡がった器に適応すれば、制御は戻る」
「いつ戻る」
「おまえ次第だ。力を意識して抑え、感情を乱さないこと。感情と力が直結しているのがペルンの血の特性だ。怒れば雷が落ち、恐れれば風が荒ぶ。それが制御の修練になる」
ラスラフは頷いた。言葉では理解できる。だが身体が言うことを聞かない。夢で見た世界樹の記憶がまだ燻っていて、ペルンの使命感が胸の底に沈殿している。守らなければならないという衝動。自分のものではない感情が、自分の感情の隣に座り込んで動かない。その異物感に意識が向くたびに、空気が帯電する。
水を飲もうとして革袋に手を伸ばした。指先が革に触れた瞬間、青白い火花が弾けた。革袋の表面が焦げ、水が染み出す。焦げた革の匂いが鼻を突いた。ラスラフは舌打ちし、左手で革袋を拾い上げた。右手からの放電だった。感覚のない右手は、放電が起きても気づかない。指先が触れた瞬間に何が起きたのか、視覚で確認するまでわからなかった。
制御しなければならない。頭ではわかっている。だが器が広がったことで、力の総量が以前とは比較にならないほど増えていた。水瓶の水が増えたのに、蓋の大きさが変わっていない。溢れるのは道理だった。ドモヴォイが横から布を差し出した。
「ほれ、拭け。革袋はわしが繕うておくわい」
「すまない」
「すまないじゃなくて気をつけろと言うておるんじゃ、毎度毎度」
ドモヴォイの小言に、少しだけ肩の力が抜けた。
午後、一人で制御訓練を行った。
修練場の中央に座り、両手を膝の上に置く。目を閉じ、身体の中の力の流れに意識を向ける。嵐の力が全身を巡っている。以前は右手の痣を起点に広がる程度だった。今は全身が力の器になっている。血流に沿って流れる力の奔流を、意志で細くし、制御する。鍛冶の仕事と同じだ。炉の火力を調節するように、力の流れを絞る。
力を絞った。奔流を細い流れに変える。全身に散っていた帯電が収束し、石畳の周囲の空気が静まる。うまくいっている。空気のピリピリした感触が薄れ、髪の毛が落ち着いてくる。このまま──
映像が、割り込んだ。
不意に。前触れもなく。ペルンの記憶のフラッシュバックが、閉じた瞼の裏を焼いた。
嵐の夜だった。暗い空を雲が覆い、雷が地上を叩いている。大地が揺れ、樹木が根こそぎ倒れる。ペルンが──ラスラフが──空中に立ち、眼下に蛇を見下ろしている。巨大な蛇が大地を走り、その後に大地が割れ、亀裂から闇が噴き出す。世界樹の根が裂ける音が響いた。
怒りが全身を焼いた。
灼熱の怒り。世界を壊す者への、容赦のない怒り。理性の及ばない深さから湧き上がる、原初の感情。この蛇を止めなければならない。止めなければ世界が終わる。怒りと使命感が混じり合い、一つの巨大な感情の塊になってラスラフの胸を掴んだ。息ができないほどの圧迫感。自分がどこにいるのかわからなくなる。修練場にいるのか、嵐の夜空にいるのか。
ペルンの腕が雷を振り下ろす。いや、ラスラフの腕が──
雷撃が暴発した。
轟音が修練場を叩いた。ラスラフの両手から放たれた蒼白い雷が石畳を砕き、修練場の端に生えていた樹を直撃した。樹が裂ける。幹が爆ぜ、木片が四方に飛散する。焦げた木の匂いが一瞬で修練場を満たした。一本では終わらなかった。制御を失った雷が地面を走り、隣の樹、その隣の樹と次々に焼いていく。三本、四本──倒れた樹が地面を揺らし、土埃と焦げた木の匂いが立ち込めた。轟音の残響が石壁の間で何度も反射し、やがて静まっていく。
ラスラフは両手を見つめていた。指先から蒼白い光が消えていく。右手は何も感じない。左手が灼けるように熱い。掌の皮膚が赤く染まっていた。自分の雷で、自分の手が焼けている。
自分が何をしたか、一瞬、理解できなかった。制御訓練をしていたはずだ。力を抑えていたはずだ。なのに、ペルンの記憶が割り込んだ瞬間、すべてが崩れた。ペルンの怒りが自分の力を奪い、自分の腕を使って雷を放った。自分の意志ではなかった。
「ラスラフ!」
ズラータの声が響いた。足音が近づき、倒れた樹の間を縫ってズラータとドモヴォイが駆けつけてくる。
ドモヴォイの髭が逆立っていた。小さな目が見開かれ、倒れた樹の残骸と、その中心に座り込んだラスラフを交互に見る。焦げた木の匂いが鼻をつく。煙が立ち昇り、苔の光に照らされて灰色の帯になっていた。折れた幹の断面が白く露出し、焼け焦げた表皮が黒い輪を描いている。
「おまえさん、何があった──」
「今、俺は」
ラスラフの声が掠れた。喉が痛い。叫んでいたのかもしれない。記憶にないが。
「……ペルンだったのか?」
沈黙が降りた。焦げた木が崩れる音が小さく響く。ラスラフは自分の両手を見つめていた。右手の痣が蒼白く脈動している。自分の意志で雷を放ったのではなかった。ペルンの記憶に引きずられ、ペルンの怒りに呑まれ、ペルンの腕として雷を振り下ろした。自分とペルンの境界が、一瞬、消えた。消えて、戻った。だが消えたという事実は消えない。
ズラータが膝をつき、ラスラフの目を見た。緑の瞳に揺らぎはなかった。
「あなたはラスラフだ」
短い言葉だった。だがその声に、一切の迷いがなかった。断定だった。巫女としての知識でも、推測でもなく、ただの断定。
「ペルンの記憶に引きずられた。だがあなたは戻ってきた。戻ってこられた。それがあなたがラスラフである証拠だ」
ラスラフは唇を噛んだ。戻ってこられた。だが次も戻ってこられるのか。その保証はどこにもない。力が増すほど記憶の浸食は深くなり、自分とペルンの境界は曖昧になっていく。いつか、戻れなくなる日が来るかもしれない。その恐怖が、焦げた木の匂いと共に胸に沈んだ。
ドモヴォイがラスラフの隣に座った。小さな身体で、倒れた樹の根元に腰を下ろす。もじゃもじゃの髭を撫でながら、何も言わなかった。小言も冗談も言わなかった。ただ隣にいた。精霊の小さな身体から、微かな温もりが伝わってきた。煤と古い木の匂い。家の守護精霊の気配だった。
修練場の奥で、ヴェレスが倒れた樹を見つめていた。琥珀色の目が、破壊の跡を静かに辿っている。
「思ったより早い」
低い呟きだった。ラスラフの耳には届かなかった。ヴェレスの声は、修練場の石壁に吸われて消えた。その言葉が意味するものもまた、闇の中に沈んでいった。




