制御の綻び
高負荷セッションが始まった。
ヴェレスが白狼の姿で地面に伏せ、前足を石畳に押しつけている。大地から暗い力が脈動し、修練場全体に低い振動が広がった。石畳の隙間から黒い靄が滲み出し、修練場の空気が重くなる。その振動に呼応するように、ラスラフの体内で嵐の力が活性化する。力が力を呼ぶ。対の存在がそばにいるだけで、嵐の力は普段より深いところまで引き出される。
「限界まで引き出せ。器の壁を感じるまで」
ラスラフは両手を開き、力を解放した。嵐が身体の内を奔流のように駆け巡る。血管の一本一本が帯電し、筋繊維が震え、骨の芯まで力が染み渡る。右手の痣が蒼白く発光した。感覚のない指先にすら、力の脈動は伝わってくる。力だけは、感覚喪失の壁を超えて流れる。
器の壁が見えた。力を満たしていくと、ある地点で抵抗が生まれる。それ以上は入らないという、身体の内側からの押し返し。堤防のようなものだった。堤防の内側に水を注ぎ込み、水位が上がり、堤防の天端に達する。その壁を、力で内側から押し広げる。
激痛が走った。身体の内が裂けるような感覚。左手が灼ける。前腕が痺れる。右手は何も感じないが、痣の脈動だけが激しくなっていく。歯を食いしばり、力をさらに注ぎ込む。壁が軋む。広がる。もう少し──
視界が白く滲んだ。
意識の端が融ける。修練場の石壁が消え、苔の光が消え、ヴェレスの琥珀色の目が消え──
世界樹が、あった。
天を突く巨大な樹だった。幹の太さは城壁に匹敵し、枝は雲を貫いて見えなくなるほど高く伸びている。根は大地を割って地の底まで潜り、その根の一本一本が川のように大地を走っていた。根の表面には苔が生え、根と根の間に小さな泉が湧き、そこから水が流れ出している。大地を養う水だった。世界を潤す血管のように。
樹皮は銀に近い灰色で、掌で触れれば温もりと鼓動が伝わる。心臓のように脈打っている。生きている。この樹は世界そのもののように生きていた。枝から落ちる葉は銀色で、地面に触れると光を放って溶ける。空気が清浄で、呼吸するだけで身体の隅々まで力が満ちる。この場所に立っているだけで、自分が世界の一部であることを実感する。
ラスラフは自分の手を見た。自分の手ではなかった。
太い腕だった。筋肉の隆起が嵐のように荒々しく、皮膚の上を蒼白い紋様が稲妻のように走っている。ラスラフの痣と同じ紋様。だが規模が違った。腕だけではない。肩にも、胸にも、全身に紋様が走り、その一本一本が脈動している。力に満ちた身体。神の身体だった。
ペルンの腕だった。ペルンの目を通して、ラスラフはこの光景を見ている。
世界樹の根元に、蛇がいた。
暗緑に黒を混ぜた鱗。琥珀に金の光を湛えた目。世界樹の根に巻きつくように蜷局を巻いた巨大な蛇が、ペルンを──ラスラフを見上げている。蛇の体躯は世界樹の根と同じくらい太く、鱗の一枚一枚が盾のように大きい。その巨体が、世界樹の根に沿って横たわっている。守っているのか、侵しているのか、一見しただけでは判別がつかなかった。
ヴェレスだった。
二柱の間に言葉はなかった。嵐の風が世界樹の枝を揺らし、葉が銀色の雨のように降り注ぐ。蛇の目が静かにこちらを見つめている。敵意ではなかった。かといって親しみでもない。ただ、互いの存在を確認するような、底の知れない視線だった。長い時間を共に過ごした者同士の、言葉を必要としない対峙。
ペルンの中で──ラスラフの中で、感情が渦巻いた。
守らなければならない。
使命感が重力のように身体を掴んだ。世界樹を。この柱を。これがなくなれば世界は支えを失い、崩れ落ちる。何があっても。たとえ自分を擦り減らしても。使命感は理屈ではなかった。身体の芯に刻まれた本能のようなもの。呼吸のように自然で、心臓の鼓動のように止められない。
そしてヴェレスに向けられた感情は──
憎悪があった。だが、それだけではなかった。憎悪の底に、もっと古い感情が沈んでいた。哀しみだった。かつて共に在った者が、今は敵として向かい合っている。共に世界樹を守った時代があったはずだ。その記憶が、ペルンの胸の底で静かに灼けていた。怒りよりも深い場所で、哀しみが燃え続けていた。
映像が揺らいだ。世界樹が遠ざかり、蛇の姿が霞む。ラスラフの意識が引き戻されていく。最後に見えたのは、世界樹の幹に走る一筋の亀裂だった。銀灰色の樹皮に、細い線が刻まれている。亀裂の向こうに、色のない空間が──
「ラスラフ」
ヴェレスの声が耳を打った。
修練場が戻った。石壁。苔の光。冷たい石畳。ラスラフは膝をついていた。全身が汗に濡れ、息が荒い。心臓が肋骨を叩いている。右手の痣が灼けるように脈動している。
「世界樹」
声が掠れた。口の中が乾いている。舌が上顎に貼りついて、言葉がうまく出てこない。
「見た。世界樹を。あんたの姿を。蛇の──巨大な蛇の姿を」
ヴェレスの目が細まった。琥珀色の瞳に、何かが走った。驚きではない。予期していたものを確認する目だった。だが予期していたとしても、確認したときに何かが動いた。それが何なのかは、ラスラフには読めなかった。
「世界樹を見たか」
「あの樹は何だ。世界樹とは何だ」
ラスラフの声に動揺が滲んでいた。記憶の中のペルンの使命感が、まだ胸の底に残っている。自分のものではない感情が、自分の肋骨の内側で燻っている。守らなければならないという衝動。あの蛇への哀しみ。それらが渾然一体となって、ラスラフの胸を圧していた。
「世界を支える柱だ」
ヴェレスの声は慎重だった。言葉を選んでいる。一語一語を吟味してから口に出すような間合いで。
「かつてはあった。今はない」
「なぜなくなった」
沈黙が降りた。苔の光が揺れ、ヴェレスの白銀の毛並みに青い影を落とす。琥珀色の目が、遠い場所を見ているようだった。三百年前の何かを。
「それは今のおまえには重すぎる」
それ以上は語らなかった。ラスラフも追わなかった。追えなかった。ペルンの記憶の残留が、まだ身体の芯に居座っていたからだ。守らなければならないという使命感。あの蛇への哀しみ。それらがラスラフ自身の感情なのか、ペルンの残響なのか、判別がつかなくなっていた。境界が曖昧になっている。三日前より、確実に。
立ち上がった。膝が笑っている。全身が消耗していた。だが意識の中には、世界樹の映像が鮮烈に焼きついている。銀灰色の樹皮。雲を貫く枝。大地を走る根。銀色の葉。そしてあの亀裂。亀裂の向こうの、色のない空間。
ヴェレスの言葉が反芻される。かつてはあった。今はない。
世界を支える柱が失われた。だから世界は──冬に閉ざされたのか。永冬はその結果なのか。
答えは与えられなかった。だが問いだけは、ラスラフの中に深く根を下ろした。
その夜、世界樹が再び夢に現れた。
だが今度は、様相が違った。樹の幹に亀裂が走っている。一筋ではない。無数の亀裂が蜘蛛の巣のように広がり、銀灰色の樹皮が剥がれ落ちている。亀裂の向こうに見えるのは、色のない空間だった。黒でも白でもない。色という概念そのものが存在しない場所。見つめていると、目の奥が痛んだ。存在を否定される痛み。自分がここにいることを拒絶されるような、根源的な不快感。
亀裂から、何かが染み出している。目に見えないものが、亀裂を通じて世界に滲んでいく。触れれば消える。在るものを無に還す力が、世界樹の裂け目から漏れ出している。
ラスラフは目を覚ました。汗に濡れた額を腕で拭う。蛇の庭の闇は深く、苔の光だけが微かに石壁を照らしている。
右手の痣が疼いていた。守らなければ、という感情が、まだ消えずにそこにあった。




