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雷神の忌み子 ~五感を代償に、少年は永遠の冬を終わらせる~  作者: 蒼月よる


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力の代償

 ドモヴォイは、夜に動いた。


 仲間たちが寝静まった後、小さな体が宿営地を離れ、蛇の庭の奥へと歩いていく。琥珀色の地衣類の光が疎らになり、闇が深くなる。蛇の紋様の樹もまばらで、黒い土が露出した岩盤に変わっていく。修練場がある「表」から、誰も立ち入らない「裏」へ。足音を殺して歩いた。精霊の足は本来音を立てない。家の中を歩くとき、家族を起こさないよう静かに動くのは、守護精霊の基本だった。


 数日前に見つけた壁の前に来た。


 家の守護精霊としての感覚が、この壁を忘れさせてくれなかった。家に住んでいた頃、壁の裏に隠された空間を見つけるのは日常だった。床板の下の隙間、壁の裏の空洞、天井裏の巣穴。家の精霊は家のすべてを知っている。隠された場所がどこにあるか、その場所に何が住んでいるか、危険なのか無害なのか。目で見えなくても、指先が教えてくれる。空間の歪みを、壁の向こうの空気の動きを、精霊の感覚は逃さない。


 この壁は、家の壁ではない。だが「閉じられた空間」の気配は同じだった。


 ドモヴォイは壁に手を触れた。


 冷たくはなかった。蛇の庭の岩壁は蛇の紋様に似た細かい凹凸があるが、この壁の表面は滑らかだった。天然の岩肌ではない。意図的に整えられた平面。磨かれた石のように滑らかで、だが石ではない何かでできている。指先が壁の表面を滑る。微かな振動が伝わってくる。壁自体が振動しているのではない。壁の向こうにあるものが振動しているのだ。そして壁の向こうに、空間がある。壁でここが終わっているのではなく、壁で塞いでいる。その違いを、ドモヴォイの指先は感じ取っていた。


 耳を当てた。もじゃもじゃの髭が壁に押しつけられ、小さな耳が石の表面に密着する。


 聴こえた。


 微かな振動。鼓動に似ていた。規則的ではないが、生きているものの脈動に近い。壁の向こう側で、何かが動いている。呼吸しているのかもしれない。脈打っているのかもしれない。ただの地下水脈の音なのかもしれない。だがドモヴォイの精霊としての勘は、これが水や風の音ではないと告げていた。水は流れる。風は吹く。だがこの音は脈打っている。一定ではなく、だが途切れず、生きているもののリズムで動いている。


「旦那が封じたものが、こんな近くで脈打っておるのか」


 呟いた。声は壁に吸い込まれた。


 ドモヴォイは壁から離れ、表面を手でなぞった。滑らかな石の中に、一箇所だけ微かな窪みがあった。指先が収まるほどの窪み。鍵穴のようにも見えた。何かを嵌め込むための、あるいは何かで触れるための場所。家の鍵穴を見つけたときの感覚に似ていた。この向こうに何かがある。開けるべきなのか、開けてはならないのか。その判断がつかなかった。



 翌日、ドモヴォイはラスラフの修練を見守る振りをしながら、ヴェレスの隙を窺った。修練の合間にヴェレスが水を取りに行った時間を見計らい、ラスラフの傍に寄った。


「坊主、ちょっと耳を貸せ」


 小声だった。もじゃもじゃの眉が寄せられ、小さな目が真剣な光を帯びている。普段の軽口の調子ではなかった。髭が真っ直ぐに垂れている。いつもはくるくると動く髭が、主人の感情を映して固まっていた。


「なんだ」


「旦那の庭の奥にな、封じられた壁がある。わし、前に訊いたら古い倉庫だと言われた。だが昨夜、その壁に耳を当ててみたんじゃ」


「耳を当てた」


「何かが脈打っておった。壁の向こう側で。生きもののように。旦那に直接訊いてみようと思うんじゃが、坊主も一緒に来てくれるか」


 ラスラフは眉を寄せた。ドモヴォイの勘は侮れない。家の守護精霊としての空間把握能力は、荒野の旅でも何度か助けになった。地面の空洞を見つけて落とし穴を避けたこともある。だがここはヴェレスの庭だ。師の領域で、師の許可なく探索するのは──


「わかった。一緒に訊こう」


 ドモヴォイと並んで通路を歩いていると、ヴェレスが向こうから戻ってきた。黒い長衣が琥珀色の光の中を滑るように動く。左足を引きずる足音。琥珀色の目が二人を捉えた。何かを訊きに来た人間と精霊の顔を見て、ヴェレスの目が僅かに細まった。


 ドモヴォイが一歩前に出た。


「旦那。奥に何を隠してるんです?」


 直球だった。遠慮も婉曲もない。ドモヴォイの物言いは、いつだってこうだった。家の精霊が家主に問うときの、率直な口調。


「あそこ、壁じゃないでしょう。扉ですよ。向こう側で何かが脈打っておる。わしの耳がそう言っとります」


 ヴェレスの琥珀色の目が一瞬だけ細まった。ラスラフはその微細な変化を見逃さなかった。驚いたのか、不快なのか、それとも感心したのか──判別がつかない。表情が戻るのが早すぎた。


「目敏いな、小さいの」


 軽い口調だった。皮肉ではなく、本心から感心した声に聞こえた。


「古い時代の名残だ。危険なものが封じてある。近づくな」


「何が危険なんですかい」


「私の庭には私の事情がある。すべてを説明する義務は、私にはない。だが一つだけ言っておく──あの向こうにあるものは、おまえたちには関係がない。少なくとも今は」


 ヴェレスは踵を返した。会話を終わらせる動作。背を向けて修練場に向かう足取りに、迷いはなかった。黒い長衣の裾が地面を掃き、左足を引きずる足音が遠ざかる。


 ドモヴォイがラスラフの袖を引いた。小声で、だが確信を込めて。


「旦那、嘘は言ってねえが、全部は言ってねえ顔だったぜ。あの目は、家族に隠し事がある人間の目じゃ」


 ラスラフは黙った。ヴェレスの背中を見つめた。黒い長衣の裾が琥珀色の光の中に遠ざかっていく。左足を引きずる足音。三百年を独りで生き延びた神の背中。


「ヴェレスにも、言えないことはあるだろう」


 自分を納得させるように言った。師への信頼と、ドモヴォイの指摘の間で揺れていた。だが今この場で答えは出せなかった。ヴェレスを疑えば修練に集中できない。疑わなければドモヴォイの勘を無視することになる。


「わかった」


 ドモヴォイに向かって言った。


「注意は必要だ。だが今は修練を続ける」


 宿営地でズラータに相談した。焚き火の傍に座り、低い声でドモヴォイの発見を伝えた。封じられた壁。脈打つ何か。ヴェレスの反応。ドモヴォイの読み。


 ズラータは紡錘を膝の上で回しながら聴いていた。緑の瞳が焚き火の光を映し、考え込んでいる。


「注意は必要だ。だが今は、ヴェレスの導きを信じよう」


 意外だった。ズラータはヴェレスへの警戒を崩していなかったはずだ。


「ヴェレスを信じるのか」


「信じるのではない。今のおまえにはヴェレスの修練が必要だ。それは事実だ。疑いを持ちながら学ぶことは、信じることとは矛盾しない」


 そして付け加えた。


「ただし、ドモヴォイの勘を軽く見るな。あの精霊の感覚は、私たちには見えないものを捉える」


 ラスラフは頷いた。ドモヴォイの勘と、ヴェレスへの信頼と、ズラータの警戒。三つを抱えたまま、修練を続ける。それが今の自分にできる最善だった。完全に信じることも、完全に疑うこともできない。その中間にいることが居心地悪かった。だが居心地の良さを選んで目を瞑ることは、もっと悪い選択だとわかっていた。


 深夜。ドモヴォイが再び封じられた壁の前に立っていた。小さな手が壁に触れ、もじゃもじゃの耳が石の表面に押しつけられる。


 鼓動が聴こえた。昨夜より──わずかに強くなっている気がした。


 ドモヴォイは髭を撫で、暗闇の中で眉を寄せた。


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