次の段階
修練は日常になった。
朝、ヴェレスが修練場に立つ。ラスラフが構える。標的を撃ち、方向を変え、出力を調整し、持続時間を操る。基礎修練の反復。体に染み込ませる作業。同じ動作を何十回と繰り返す。鍛冶と同じだった。鉄を打ち、返し、打ち、返す。その繰り返しの中にしか、技術の定着はない。ボジダルの鍛冶場で学んだことが、嵐の力の修練にもそのまま通じていた。
繰り返すたびに精度が上がり、繰り返すたびに痣が広がった。
修練の合間に、ヴェレスがラスラフの右腕を見た。感情を排した目。診察する医者のような視線。長衣の袖から覗くヴェレスの指が、ラスラフの腕に触れることはなかった。見るだけだ。だがその目は、痣の進行を正確に測っている。
「痣が進んでいるな」
「ああ」
「痛みは」
「ない。何も感じない」
「それが代償だ。力を使えば進む。だが使わなければ制御は身につかない。これは避けられない」
避けられない。ヴェレスの口調にはそれを悲しむ気配がなかった。事実を述べている。だがその事実を突きつける声に、微かな硬さがあった。ラスラフはそれに気づかなかった。
ラスラフは右腕を見た。嵐の痣が手の甲から手のひらを覆い、手首を越えて前腕の半ばにまで伸びている。蒼白い樹枝状の紋様。指先はとうに感覚がなく、手のひらも、手首のあたりも。前腕の途中に感覚の境界線がある。
その線を左手の指でなぞった。痣のある側に指を置く。何もない。温度がない。圧力がない。指がそこにあることすらわからない。ほんの数指分だけ上に移動させる。痣のない側。途端に感覚が戻る。指の腹の温度、爪の冷たさ、皮膚の上を滑る摩擦。世界の情報が、その数指分の境界線の向こう側にだけ存在している。
「受け入れるのか」
ヴェレスの声は問いかけではなかった。確認だった。
「ああ」
「軽く答えるな」
「軽くない」
ラスラフは右手を握った。握った感覚は返ってこなかった。だが力を入れている自覚はある。筋肉が動いていることは肩の付け根でわかる。指先が閉じているかどうかは、見て確かめるしかなかった。
「この痣が広がることと、力を制御できるようになることを、天秤にかけている。わかっている。だが今は──この秤を傾けるしかない」
ヴェレスは何も言わなかった。琥珀色の目が長い間ラスラフを見つめ、やがて視線を逸らした。何かを言いかけて、やめたように見えた。だがそれもラスラフの思い違いかもしれなかった。
修練が終わった午後、ラスラフはズラータと蛇の庭を歩いた。
蛇の紋様の樹が並ぶ小径。琥珀色の地衣類が足元を照らし、細い水流が光を映して金の糸のように輝いている。地下世界の、奇妙に穏やかな時間だった。永冬の荒野を歩いていた頃には考えられなかった穏やかさ。風がない。雪がない。凍てつく空気がない。代わりに生温い湿った空気と、苔と土と古い石の匂い。
ラスラフは右手を掲げた。手のひらを上に向け、ズラータに見せた。
「もう感覚がない」
蒼白い痣が手のひらの全面を覆っている。樹枝状の紋様が指先から手首まで隙間なく走り、前腕にまで伸びている。蒼白い線が肌の上で蜘蛛の巣のように枝分かれし、地図のような紋様を描いていた。
「氷を握っても何も感じない。熱いものに触れても気づかない。右手で何かを掴んでも、掴めているかどうかが目で見ないとわからない」
ズラータは黙って聴いていた。足を止め、ラスラフの右手を見下ろしている。緑の瞳が痣の線をなぞるように動いた。その目に悲しみがあるのか怒りがあるのか、ラスラフには読み取れなかった。
ズラータが手を伸ばした。
痣に覆われたラスラフの手のひらの上に、ズラータの手がそっと重なった。白磁のような細い指が、蒼白い紋様の上に置かれた。琥珀色の光が二つの手を照らしている。
「温かい?」
「わからない」
正直に答えた。温度は感じない。圧力も感じない。ズラータの指がそこにあるという事実は、目で見てわかるだけだった。ズラータの指は温かいのだろう。地上で彼女に治癒を受けたとき、あの手は温もりに満ちていた。だが今のラスラフの右手には、その温もりを受け取る器官がない。
「でも、おまえの手がここにあることはわかる」
ズラータの指が僅かに動いた。痣の線をなぞるように、ゆっくりと。ラスラフは見ていた。自分の手の上を動くズラータの指を。感覚ではなく、視覚だけで追っている。不思議な光景だった。自分の手なのに、他人の手のように感じる。だがその上にある指は、確かにズラータのものだった。
「感覚がなくても、わかるのか」
「おまえがここにいることはわかる。……それで十分だ」
ズラータの手が止まった。痣の上に置かれたまま、動かなくなった。ラスラフはその手を見つめた。温もりは感じない。だがズラータの手がそこにあるという事実が、温もりの代わりに胸に届いていた。温もりよりも確かなもの。存在の重み。
二人は並んで歩き続けた。ズラータの手はいつの間にか離れていたが、痣の上に誰かの手があった記憶だけが、感覚のない手のひらに残像のように残った。
蛇の庭の高台で、ヴェレスが二人を見ていた。
高い岩棚の上に立ち、琥珀色の目が修練場を越えた先の小径を見下ろしている。並んで歩く二つの人影。ラスラフの背中と、ズラータの横顔。琥珀色の地衣類の光が二人のシルエットを金色に縁取っていた。
ドモヴォイが岩棚に登ってきた。小さな体がよじ登り、もじゃもじゃの髭を揺らしながらヴェレスの隣に立つ。精霊の息が上がっている。短い足で岩をよじ登るのは楽ではないらしい。
「坊主とお嬢、いい雰囲気じゃないですか」
軽い口調だった。茶化すような、だが温かい声。家の精霊にとって、家族が仲良くしている光景は何より嬉しいものだ。
ヴェレスは何も言わなかった。
琥珀色の目が二人の影を追っている。表情は読めなかった。冷淡なのか、無関心なのか、あるいはそのどちらでもないのか。目の奥に何かが揺れている気がしたが、それは琥珀色の地衣類の光が反射しているだけかもしれなかった。
ドモヴォイが髭を撫でた。返事がないことに慣れている。神というのはこういうものだ、と長い髭の奥で思っている。だがヴェレスの横顔が、いつもの皮肉屋の顔とは少し違って見えた。何かを見つめる目。何かを手放す前の目。あるいは、自分が壊そうとしているものの価値を、今さらのように測っている目。
そう感じたのは気のせいかもしれなかった。ドモヴォイは肩をすくめ、岩棚を降り始めた。
ヴェレスは一人残り、二人の影が小径の向こうに消えるまで見つめていた。
夜、宿営地で焚き火を囲んだ。
ドモヴォイが焼いた干し肉をラスラフに渡し、ズラータに薬草茶を淹れ、自分は火の傍に丸くなった。ラスラフは干し肉を噛みながら、右手を見た。痣に覆われた手。力を使うたびに広がる紋様。その手で干し肉を持っているが、持っている感覚がない。目で見て、位置を確認しながら口に運ぶ。指先に力が入っているかどうかは、干し肉が落ちなければ入っている、と判断するしかなかった。
「ヴェレスの言う次の段階で、もっと強くなれるなら」
呟いた。誰に向けた言葉でもなかった。自分の中にある渇望を、言葉にして確かめた。
強くなりたい。もっと力を操りたい。冬の眷属と戦えるだけの力がほしい。永冬を終わらせるために。この冬を、砕くために。
だが強くなるたびに、痣が広がる。感覚が消える。ペルンの記憶が滲む。
天秤。
片方に力を。片方に自分自身を。
ラスラフは干し肉を飲み込み、右手を握った。握った感覚は返ってこなかった。




