嵐の手綱
ズラータは祈っていた。
蛇の庭の片隅、蛇の紋様の樹が二本並ぶ陰で、膝をつき、両手を胸の前で合わせていた。紡錘を右手に握り、目を閉じている。唇が微かに動いていた。声にならない声で、名を呼んでいる。大地母神の名を。
ラスラフはそれを少し離れた場所から見ていた。声をかけるべきか迷い、かけなかった。祈りの時間はズラータのものだった。巫女としての時間。ラスラフが踏み込むべき場所ではない。蛇の紋様の樹の幹に背を預け、黙って見守った。
ズラータの唇が止まった。
何かを待っている。目を閉じたまま、動かず、呼吸だけが胸を上下させている。待っているのだ。応えを。モコシュの声を。以前は祈りの後に微かな温もりが返ってきたと、ズラータは言っていた。大地母神の存在を示す、紡錘を通じた僅かな応答。手のひらに広がる温もり。大地の底から湧き上がるような、穏やかで深い温もり。
応えはなかった。
ズラータの肩が沈んだ。ほんの僅かだったが、ラスラフの目はそれを見逃さなかった。忌み子として人の輪の外にいた十七年が、他者の体の動きを読むことだけは教えてくれた。肩が沈む。力が抜ける。それは期待が裏切られたときの動きだった。待っていた返事が来なかったときの、小さな崩れ。
ズラータが目を開けた。緑の瞳に、いつもの光がなかった。虚ろではない。だが何かが遠のいたような、焦点の定まらない目。以前は祈りの後、瞳の奥に木の葉が揺れるような模様が浮かんでいた。モコシュの力の反応。それが今日はなかった。
紡錘を見つめた。手のひらの中の木製の紡錘。摩耗した紋様が刻まれた、巫女の力の媒介。ズラータはその紡錘を握り締めた。力の媒介がただの木片に感じ始めている。ラスラフにはそれが表情から見て取れた。紡錘を握る指が白くなるほど力が入っている。手放すまいとしている。手放せばもう戻れないと、指が知っている。
ラスラフは声をかけようとして、やめた。今の自分に何が言えるのかわからなかった。力を得ている自分と、力を失いつつあるズラータ。その非対称に気づいていながら、どんな言葉も的外れになる気がした。
ドモヴォイは宿営地で焚き火の番をしていた。蛇の庭には天然の薪がないため、ヴェレスが地下の何処かから持ち出した乾いた木を燃やしている。炎が揺れ、煤の匂いが立ち昇る。ドモヴォイにとって、煤の匂いは家の匂いだった。鍛冶場の炉の匂い。壁に染みついた長年の煤。天井の梁を燻す黒い煙。小さな手を炎にかざし、もじゃもじゃの髭を撫でながら、火を見つめている。
ズラータが戻ってきた。足音が近づき、焚き火の傍に腰を下ろす。ドモヴォイは彼女を見上げた。小さな目が、巫女の顔色を読んだ。
「お嬢、顔色が悪いのう」
「そうか」
「そうじゃ。わしは家の精霊だからの、家族の顔色にはうるさいぞ。家族が体を壊す前に気づくのが、わしの仕事じゃ」
ズラータは黙っていた。紡錘を膝の上で回している。意味のない動作。指先が所在なげに木の表面をなぞっていた。摩耗した紋様の凹凸を、何度も何度も指先で確かめている。やがて、低い声で言った。
「モコシュ様の声が聴こえない」
ドモヴォイの手が止まった。髭を撫でていた手が、膝の上に落ちた。
「前は……もっと近かったのに。祈れば温もりが返ってきた。紡錘を通じて、モコシュ様の存在を感じることができた。それが……霧の向こうに遠ざかったように、何も返ってこない」
声は平坦だった。感情を押し殺している、というよりも、感情をどこに置いたらいいのかわからないように聞こえた。巫女としての不安を、巫女としての声で語ることができない。任務の言葉が、自分の言葉にならない。ドモヴォイは小さな目でズラータを見つめ、髭の奥で口を動かした。何か言おうとしている。だが言葉が出てこない。
精霊として、ドモヴォイは感じ取っていた。蛇の庭に降りてから、大地の力の流れが変わっていることを。地上にいたときよりも、何かが遠くなっている。神の力が薄まっている。それが大地母神の衰弱に繋がっているのか、蛇の庭という場所の性質なのか、あるいはその両方なのかはわからない。だが「きっと大丈夫だ」と無責任に言えるほど、ドモヴォイの感覚は鈍くなかった。
「きっと遠くにおるだけじゃ。モコシュ様は大地の神じゃからの、地下にいるわしらには声が届きにくいのかもしれん」
自分でも苦しい言い訳だとわかっていた。声に確信がなかった。ズラータはそれを聞き、小さく頷いた。納得したわけではない。ドモヴォイの優しさを受け取っただけだった。嘘だとわかっていても、その嘘が向けられた方向に温もりがあることは感じ取れる。
「ありがとう」
ズラータの声は、焚き火の爆ぜる音に紛れて消えた。
修練が終わったラスラフが、修練場から宿営地に向かう通路を歩いていた。体は疲弊していたが、制御の精度は日ごとに上がっている。今日は感情の区別に集中した。流れ込む感情と自分の感情を分ける。ヴェレスの教えは明快で、実践を重ねるほどに身体が覚えていく。力の道を敷き、感情を確認し、放つ。その手順が自然になりつつある。
修練場の近くで足を止めた。ズラータが修練場を見つめていた。
通路の壁際に立ち、腕を組んで修練場を見下ろしている。ラスラフはもう修練場にはいない。ズラータが見ているのは、ラスラフが修練していた場所の残像だった。天蓋に広がる焦げ跡。砕けた石柱の残骸。帯電した空気の名残。嵐の力が刻んだ痕跡が、修練場のあちこちに残っている。
その光景を見つめるズラータの横顔に、ラスラフは見慣れないものを見た。
影だった。
表情の影。いつもの無愛想さとは違う、何かを飲み込んでいる顔。ラスラフの力が日増しに強くなっている。天蓋を砕き、岩を穿ち、雷の精度を上げていく。その光と──その光の陰に、ズラータがいる。
名前のつかない感覚がラスラフの胸を掠めた。ズラータが何を考えているのか、この距離では読み取れない。だが何かが揺れていることは感じ取れた。何かが減っていることを、あの横顔は語っていた。
「ズラータ」
声をかけた。ズラータが振り返った。一瞬だけ表情が揺れ、すぐにいつもの穏やかな──いや、穏やかに見える顔に戻った。巫女の顔。任務の顔。
「修練は終わったのか」
「ああ。明日も同じ内容だ」
「そう。進みが早い」
穏やかな声だった。だがラスラフはさっきの横顔を見てしまっていた。あの影が何なのか、問えなかった。問えるほど、二人の距離はまだ近くなかった。
「飯を食おう。ドモヴォイが焚き火をやっている」
「ああ。行こう」
二人で宿営地に向かった。並んで歩く足音が蛇の庭に響く。ラスラフの重い足音と、ズラータの静かな足音。琥珀色の光が二つの影を地面に落としていた。ラスラフの影は昨日より少し大きい気がした。力が増している分だけ、存在が膨らんでいる。ズラータの影は変わらなかった。変わらない影の中で、何かが静かに減っていることを、ラスラフはまだ知らなかった。
夜、ズラータは眠れずに蛇の庭の暗い天蓋を見上げていた。琥珀色の地衣類がまばらに光り、偽の星空が頭上に広がっている。地上の星空ではない。地下の、蛇の神の庭の、偽物の空。モコシュの大地の空ではない。
モコシュの最後の言葉が脳裏をよぎった。
あの子を見守りなさい。わたしの代わりに。
代わりに。
その言葉の重さが、今になってのしかかっていた。代わりに、とは何だったのか。モコシュ自身が見守れなくなることを、あの時すでに知っていたのではないか。声が遠のいていくことを。巫女の力が薄れていくことを。
紡錘を胸に抱いた。木の感触だけが、手のひらに残っていた。温もりは、もう返ってこなかった。




