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雷神の忌み子 ~五感を代償に、少年は永遠の冬を終わらせる~  作者: 蒼月よる


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遠ざかる声

 翌日の修練は、荒れた。


 ラスラフは標的の石柱に稲妻を放った。方向は正確だった。だが出力が安定しない。蝋燭を灯すつもりで放った雷が石柱を砕き、岩壁を穿つつもりで放った雷が標的の手前で散った。力の加減が狂っている。昨日まで掴んでいた制御の感覚が、ペルンの記憶のフラッシュバック以降、微妙にずれていた。力の道を敷いても、出力が指示通りに従わない。太すぎたり細すぎたりする。川の水かさが勝手に変わっているような不安定さ。


 ヴェレスが叱責しなかった。


「おまえの感情と、流れ込んできた感情を区別する術を身につけろ」


 冷静な分析だった。修練場の石柱の残骸を見渡しもせず、ラスラフの構えだけを見ている。黒い長衣の裾を風もないのに揺らしながら、石柱に背を預けた。


「力を流すとき、感情が混じる。怒りでも恐怖でも焦りでもいい──感情が力に乗ると、出力が跳ねる。それが自分の感情なら制御できる。なぜなら、自分の感情は自分の意志で抑えられる。だが他者の感情が混じっている場合、制御の外から出力を押し上げてくる。おまえの手の及ばない場所から力を乱す」


「どうすれば区別できる」


「簡単なことだ。おまえ自身の感情には、理由がある。怒っているなら何に怒っているかわかる。恐れているなら何を恐れているかわかる。流れ込んだ感情には、おまえの文脈がない。理由のない怒りが来たら、それはおまえのものではない。怒りの理由を問え。理由が見つかれば自分のもの。見つからなければ他者のもの。区別はそこにある」


 理屈はわかった。ラスラフは構え直し、力を引き出す前に自分の感情を確認した。今、怒っているか。恐れているか。焦っているか。いずれも当てはまらなかった。穏やかではないが、修練に集中しようとしている状態だ。その自覚を持ったまま、力を放った。


 稲妻が石柱を正確に貫いた。出力も適正だった。石柱は砕けたが、周囲の岩壁には傷がない。


「そうだ。それを繰り返せ」


 ヴェレスの声に、微かな満足が戻っていた。厳しさと満足が同居する声。師の声だった。


 繰り返した。何度も。標的を変え、距離を変え、出力を変え、そのたびに自分の感情を確認する。力を放つ前に問う。この感情は俺のものか。理由はあるか。あれば自分のもの。なければペルンのもの。その手順を体に叩き込んだ。十本、二十本と標的を砕く頃には、感情の確認が意識せずともできるようになっていた。鍛冶の手順が体に染みつくのと同じだった。考えなくてもできるようになるまで繰り返す。それだけだ。



 休憩の時間に、ヴェレスが珍しく自分のことを語った。


 修練場の傍の岩場に並んで座る。いつもの腕一本分の距離。ラスラフは水を飲み、ヴェレスは何も飲まなかった。神は渇かないのか。それとも渇きを見せないだけなのか。


「永冬が始まって、三百年になる」


 ヴェレスが言った。琥珀色の目が修練場の天蓋を見ている。焦げ跡がいくつも重なった天蓋。ラスラフが砕いた跡と、今日の修練の跡と、その上に降り積もった細かな砂埃。


「ペルンとの戦いで私は致命傷を負った。死にはしなかったが、神としての力の大半を失った。白狼の姿でしか存在を保てない時期が長くあった。人型をとる力すらなかった。狼として地下を彷徨い、地上を彷徨い、永冬の中で息を潜めて生き延びた」


「三百年を、白狼として」


「そうだ。神であることをやめられず、かといって神として振る舞う力もない。中途半端な存在だった。地下の闇を歩き、地上の雪を踏み、どちらにも居場所がなかった。狼の姿でいると、考え方まで獣に近づく。思考が鈍り、記憶が曖昧になり、自分が何者であるかすら忘れかける。それでも狼の姿を捨てれば消滅する。だから狼であり続けた」


 淡々とした語り口だった。感情を込めていない。回想を語るというより、報告書を読み上げるような口調。だがその淡々とした声の中に、三百年という時間の重さが滲んでいた。三百年。ラスラフの十七年の人生を十七回繰り返してもまだ足りない時間を、この男は衰弱しながら独りで過ごした。


「孤独だったか」


 訊いてから、愚かな質問だと思った。だがヴェレスは笑わなかった。皮肉も返さなかった。琥珀色の目が一瞬だけ何かを映し、すぐに消えた。炎が消える前の最後の揺れのように、一瞬だけ何かが目の奥で動いた。


「孤独という概念は、人のためにある。神には……そぐわない」


「答えになっていない」


「そうだな」


 ヴェレスは黙った。沈黙が長く続いた。蛇の庭の琥珀色の光が、二人の横顔を照らしている。ラスラフはヴェレスの横顔を見た。語りながら遠くを見ている目。陰影の深い顔立ちの中で、琥珀色の瞳だけが微かに揺れていた。白銀の髪が顎の線に沿って垂れ、横顔に影を落としている。


 この人も苦しんできたのだ。


 初めてそう思った。神だから苦しまないわけではない。三百年の孤独を、淡々とした口調で語れるほどに飲み込んできた。皮肉の裏に何があるのか、ラスラフには想像することしかできなかったが、想像するだけでも十分に重かった。


「なぜ俺を見つけた」


「ペルンの痣を持つ者が生まれたと、大地の脈動が教えてくれた。十七年前のことだ。だが私には動く力がなかった。ようやく足が動くようになった頃には、おまえは村で鉄を叩いていた」


 十七年かけて、ここまで来たのか。ラスラフは痣を見た。この痣が脈動を発し、衰弱したヴェレスに届いた。十七年前に。


「……ありがとう。見つけてくれて」


 ヴェレスの横顔が微かに動いた。口角が上がったのか、それとも何かを噛み殺したのか。ラスラフには判別がつかなかった。



 修練場の傍で、ズラータが二人の対話を聴いていた。


 声は届いていた。ヴェレスの三百年の放浪。ペルンとの戦いで致命傷を負ったこと。白狼の姿でしか存在を保てなかった時期。ラスラフの痣を感知して十七年かけて辿り着いたこと。ヴェレスの語り口は淡々としていて、嘘を言っている響きはなかった。


 だが何かが欠けていた。


 ズラータはモコシュの巫女だった。神々の歴史を学んでいた。ペルンとヴェレスの戦争──嵐神と蛇神の対立は、スラブ神話の根幹を成す大きな物語だ。なぜ戦ったのか。何が二柱の神を殺し合いに駆り立てたのか。その経緯を、ヴェレスは一切語っていなかった。致命傷を負ったとは言った。三百年衰弱したとは言った。だがなぜペルンと戦ったのか──その核心を、意図的に省いている。


 ズラータの目が一瞬細まった。それをラスラフの視界の端が捉えた。振り返ると、ズラータはもう普段の表情に戻っていた。


「どうした」


「何でもない。修練を続けたらいい」


 短い言葉。だがその声に含まれた温度を、ラスラフは読み取れなかった。ズラータは紡錘を握ったまま、修練場に背を向けた。


 修練が終わり、ラスラフが宿営地に戻ろうとしたとき、ふと思い立ってヴェレスの名を呼んだ。


「ヴェレス」


 初めてだった。これまでは「おまえ」か「白狼」か、あるいは呼び方を定めないまま声をかけていた。「師」としてではなく、名前で呼んだのは初めてだった。呼んでから、なぜ呼んだのか自分でもわからなかった。用事があったわけではない。ただ、名前を呼びたかった。


 ヴェレスの足が止まった。背を向けたまま。黒い長衣の裾が僅かに揺れた。一瞬の静止。振り返るかと思った。だがヴェレスは振り返らなかった。僅かに顎を引き、そのまま歩き去った。


 左足を引きずる足音が、蛇の庭の琥珀色の光の中に消えていった。


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