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雷神の忌み子 ~五感を代償に、少年は永遠の冬を終わらせる~  作者: 蒼月よる


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蛇と雷

 標的は蛇の紋様が刻まれた石柱だった。


 ヴェレスが修練場の各所に立てた柱。高さは腰ほどで、等間隔に十本。琥珀色の地衣類が巻きつき、薄暗い修練場の中で仄かに光っている。柱の表面に刻まれた蛇の紋様が、光を受けて鱗のように揺れていた。


「あの柱を撃て。一本目から順に」


 ラスラフは右手を掲げた。痣に意識を集中し、力を引き出す。昨日の全力解放とは違う。制御された力を、一点に向けて放つ。胸の中で嵐の力を掴み、指先に向かって押し出す。方向を定める。一本目の柱。距離は十歩ほど。


 稲妻が走った。蒼白い光が修練場を貫き──三本目の柱を砕いた。


 一本目ではなかった。


「的が違う。もう一度」


 ヴェレスの声に苛立ちはなかった。事実を述べているだけだ。ラスラフは歯を噛み、再び構えた。力を絞り、方向を定め、放つ。今度は一本目に向けたつもりだった。稲妻が走り──二本目の柱を掠めて岩壁に散った。焦げた岩の欠片が床に落ちる。


「雷は直線に見えて直線ではない」


 ヴェレスが歩み寄った。左足を引きずりながら、黒い長衣の裾を翻して修練場を横切る。ラスラフの隣に立ち、残った柱を指さした。長い白銀の髪が肩から流れ落ち、琥珀色の光の中で銀糸のように光った。


「最も抵抗の少ない道を選ぶ。空気中の水分、帯電の偏り、温度差。それらが雷の道を決める。おまえの仕事は、狙った先への道を作ってやることだ」


「道を作る」


「そうだ。力を放つ前に、空気を読め。どこに湿りがあるか。どこに温度差があるか。それを感じ取り、狙った先に最も通りやすい道筋を意識の中で描け。力を放つのは、道を敷いた後だ」


 理屈は理解できた。だが実践は別だった。空気中の水分を感じ取る。温度差を読む。そんなことが人間にできるのかと疑った。だがヴェレスの目は「できる」と言っていた。疑いを許さない確信が、琥珀色の瞳の奥に据わっている。


「おまえの中にはペルンの力がある。嵐を統べた神の力だ。空気を読むことは、その力の最も基本的な作用にすぎない」


 ラスラフは目を閉じた。右手を掲げたまま、痣に意識を沈める。力を引き出すのではなく、力を通して周囲を感じる。


 指先から何かが広がった。視覚ではない。触覚に近い。空気の中に見えない糸が張り巡らされているような感覚。湿った空気の帯がどこにあるか。天蓋から落ちる結露がどこで蒸発しているか。修練場の空間が、力を通した指先に立体的な地図として流れ込んでくる。蛇の庭の生温い空気には湿りが多い。地上の冬の乾燥とは比べものにならないほどの水分が漂っていた。その水分の流れが、雷の通り道を示している。


 一本目の柱に向けて、道を描いた。指先から柱までの空気の中に、力の通り道を意識の中で敷く。湿った空気の帯に沿って、最も抵抗の少ない経路を選ぶ。


 稲妻を放った。


 蒼白い光が──一本目の柱を貫いた。


 柱が砕け散る。破片が飛び、琥珀色の地衣類が光の粒子となって舞った。ラスラフは手を下ろし、自分の指先を見た。力が流れ出す感覚が、まだ指に残っていた。放つのではなく、導く。その差が、一撃の精度をここまで変える。同じ力を使っていても、道があるのとないのとでは別物だった。


「そうだ。もう一度」


 ヴェレスの声に、初めて微かな満足が混じった。



 修練の合間に、岩場に腰を下ろした。


 ヴェレスが黒い長衣の裾を払い、ラスラフの隣に座った。師弟が並ぶには距離があった。腕一本分の空白。それがヴェレスの選ぶ距離だった。近すぎず、遠すぎず、言葉が届く位置。


「おまえは村でどう暮らしていた」


 唐突だった。修練の話ではない。ラスラフは面食らい、答えに窮した。


「……鍛冶をしていた。養父に教わって」


「養父か。血の繋がりはないのだな」


「ない。拾われた」


「拾う者がいたということは、おまえにその価値を見た者がいたということだ」


 皮肉かと思った。だがヴェレスの目は皮肉を含んでいなかった。琥珀色の瞳が修練場の天蓋を見上げている。昨日ラスラフが砕いた焦げ跡を眺めながら、何かを考えている顔だった。遠い目をしている。三百年の時間を覗き込むような目。


「鍛冶か。鉄を打つのは好きだったか」


「好きとか嫌いとかじゃない。あれだけが……考えなくてよかった」


 言ってから、言葉が足りないと思った。だがそれ以上の説明はできなかった。鍛冶槌を振り上げ、鉄を打ち、火花を散らす。その繰り返しの中にだけ、忌み子であることを忘れられる時間があった。


「そうか」


 ヴェレスは何も続けなかった。沈黙が落ちた。蛇の庭の薄暗い空間に、修練場に残る放電の残響音が微かに響いている。帯電した空気がゆっくりと鎮まっていく音。ラスラフは右手の痣を見た。手のひらの中央あたりまで、蒼白い枝分かれが伸びている。


「思ったより、話しやすい」


 口にしてから、言うべきではなかったと思った。だがヴェレスは気を悪くした様子もなく、口角を僅かに上げた。


「狼の姿で唸っているよりは、人の形の方が話しやすかろう」


「そういう意味じゃない」


「わかっている」


 ヴェレスが立ち上がった。左足を庇いながら、修練場に戻っていく。振り返らずに言った。


「続きをやるぞ。残り八本、日が暮れる前に全部砕け」


 ラスラフは立ち上がった。岩場を離れるとき、ヴェレスの座っていた場所を見た。何の跡もなかった。この男は座っていてすら、存在の痕跡を残さない。温もりも、体の重みの跡も。神とはそういうものなのかもしれなかった。



 夕刻、宿営地でズラータがラスラフの肩に手を当てた。


 紡錘を握った左手が微かに光を帯びる。温もりが肩から背中に広がり、修練の疲労が緩やかに解けていく。巫女の治癒の力。この時点ではまだ問題なく機能していた。温もりがラスラフの筋肉の凝りをほぐし、強張った肩甲骨の周辺を柔らかくしていく。地の底から湧く泉のような、穏やかで深い温もりだった。


「今日の修練はどうだった」


 ズラータの声は事務的だった。だが手は丁寧に力を加減しながら、肩から背中へと移動している。指先の圧力がラスラフの疲労の位置を正確に探り当てている。ラスラフは目を閉じた。治癒の温もりが心地よかった。


「方向を制御する感覚を掴んだ。ヴェレスの教え方は……わかりやすい」


「そう」


「怖い人だと思っていた。でも、ちゃんと教えてくれる。理屈を言って、やらせて、直してくれる。養父の教え方に似ている」


 ズラータの手が一瞬止まった。すぐに動きを再開したが、その一瞬をラスラフは見逃さなかった。


「ズラータ?」


「何でもない。続けて」


 短い言葉だった。ズラータの顔は見えなかった。背後にいるから表情がわからない。だが声の温度が僅かに下がったことは感じ取れた。ヴェレスへの警戒を崩していないのだ。ラスラフにはそれ以上問う言葉がなかった。ズラータがヴェレスをどう見ているのか──その問いは、今のラスラフには重すぎた。


 治癒が終わり、ズラータが手を引いた。温もりの余韻が背中に残っている。ラスラフは礼を言い、ズラータは短く頷いた。


 就寝前に、ラスラフは右手を見た。


 嵐の痣。蒼白い樹枝状の紋様。手の甲から始まって指先を覆い、手のひら側にも僅かに伸びていた。指先から手のひらの中央に向けて、新しい枝が一本、今日の修練の間に広がっていた。昨日まではなかった枝。細い線が手のひらの窪みに沿って走っている。


 触れてみた。左手の指で、新しく広がった痣の線をなぞる。何も感じなかった。手のひらの中央はまだ感覚があったはずだ。昨日までは。今日はもう、そこにも感覚がなかった。


 ラスラフは手を握り、目を閉じた。痣が広がっている。力を使うたびに。修練場で雷を放つたびに。強くなることと、失うことが、同じ速度で進んでいる。


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