嵐を掴む
修練場は蛇の庭の東端にあった。
樹のない広い空間が、天蓋の下に開けている。床は平らな岩盤で、琥珀色の地衣類が周囲を縁取るように光を放っていた。天蓋までの高さは十分にある。石柱が何本か立っているが、それは修練場の境界を示す目印のようで、装飾はなかった。岩盤の表面は磨かれたように滑らかで、ここが自然の空洞ではなく、何者かの意志によって整えられた場所であることを示していた。
ヴェレスが修練場の中央に立った。黒い長衣の裾を翻し、琥珀色の目がラスラフを射る。左足を引きずる足取りは変わらないが、立ち止まった姿には揺るぎがなかった。
「嵐の力を全力で解放しろ」
前置きはなかった。
「全力、か」
「そうだ。抑えるな。一切の制御を外して、おまえの中にある力をそのまま出せ。普段どれだけ力を絞って使っているか知らんが、今日はその蓋を全部外せ」
ラスラフは右手を掲げた。嵐の痣が脈動する。蛇の庭に降りてから、痣の反応が鋭くなっていた。地下世界の力がペルンの力と共鳴しているのか、解放の敷居が低くなっている。普段なら意識を集中して引き出す必要がある力が、ここでは半ば自発的に動こうとしていた。
息を吸った。痣に意識を向ける。指先から手のひらへ、手のひらから前腕へ。感覚のない腕の奥を、嵐の力が遡っていく。肩を越え、胸の中心に達したとき──力が溢れた。
蒼白い稲妻が右手から噴き出した。
制御なしの全力解放。荒野での戦闘でも出したことのない規模の雷光が修練場を貫いた。稲妻は真っ直ぐに天蓋に向かって駆け上がり、岩の天井に激突した。轟音。蛇の庭全体が震動し、天蓋から岩の破片が降り注いだ。琥珀色の地衣類が衝撃で剥がれ、光の粒子となって舞い散る。焦げた空気の匂いが鼻を突き、金属を噛んだような味が口の中に広がった。
二条、三条。稲妻が枝分かれして岩壁を叩く。空気が帯電して肌がぴりぴりと痺れた。雷鳴が岩壁に反響し、幾重にも重なって耳を圧する。地下空間で放たれた雷は、外よりも遥かに反響が大きかった。閃光が天蓋の岩盤を白く染め、蛇の庭の琥珀色の光が一瞬だけ蒼白い稲妻の光にかき消された。
ラスラフは歯を食いしばった。全身が熱い。嵐の力が体の内側を焼くように駆け巡り、指先から放出されていく。制御を外した力は獣のように暴れ、ラスラフの意志とは無関係に稲妻を生み出し続けた。止めようとして、止められた。力が尽きたのではない。身体が限界を告げたのだ。
稲妻が消えた。
修練場の天蓋に、黒い焦げ跡が放射状に走っていた。岩が砕け、破片が床に散らばっている。焦げた空気の残り香と帯電の痺れが空間を満たしていた。ラスラフは膝に手をつき、荒い息を吐いた。全身に倦怠感が重い。右腕は何も感じないが、左腕の筋肉が震えていた。
ヴェレスは立っていた。位置を動いていない。稲妻が周囲を荒れ狂った中で、黒い長衣に皺ひとつなかった。琥珀色の目がラスラフを見ている。その目に読み取れるものがあった。冷静な評価。そしてその奥に、一瞬だけ走った何か──満足とも計算ともつかない光。
「悪くない」
淡々とした声だった。修練場の惨状を一瞥し、砕けた天蓋を見上げ、視線をラスラフに戻した。
「第一段階でこれだけの出力がある。器としては……十分だ」
最後の言葉が、僅かに声を落として発された。ラスラフには聞こえなかった。荒い呼吸の音が、ヴェレスの呟きを掻き消していた。
修練場の縁で、ズラータが息を止めていた。
ラスラフの雷撃が天蓋を砕いたとき、反射的に腕で顔を庇った。岩の破片が降り注ぎ、帯電した空気が肌を刺した。衝撃波が髪を乱し、三つ編みが解けかけた。紡錘を握った手が震えた。
あの力。
ラスラフの中に眠る嵐の力の規模を、ズラータは初めて目の当たりにした。荒野での戦闘で見た雷撃とは比較にならない。全力解放の威力は、天蓋の岩盤を砕くほどだった。あの力が──あのラスラフの中にある。あの朴訥な鍛冶屋の息子の身体の中に、これほどの力が眠っている。
ドモヴォイが隣で固まっていた。もじゃもじゃの髭が逆立ち、小さな体が微かに震えている。帯電した空気が精霊の毛並みを逆立てている。革袋を胸の前で抱え込み、中の家事道具が小さく鳴った。
「すげえが……怖えな、あれは」
小声だった。ラスラフに聞こえないように、だが隠しきれない本音が声に滲んでいた。ズラータは頷かなかった。頷けなかった。あの力がラスラフを蝕んでいる。使うたびに痣が広がり、感覚が死んでいく。天蓋を砕く力を手にした代償が、ラスラフの右腕から感覚を奪っている。その事実が、ズラータの胸に冷たく沈んだ。
天蓋から砕けた岩の破片がまだ散らばっている。修練場の端に転がった拳大の岩塊が、蒼白い焦げ跡を残していた。あの雷撃の中心にラスラフがいた。あの破壊の源がラスラフの右手から放たれた。
ドモヴォイが髭を撫で、震えを鎮めようとしている。
「坊主は強くなっておるのう。だが……強くなるたびに、何かを減らしておるようにも見える。わしの目がおかしいのかのう」
「おかしくない」
ズラータは短く答えた。それ以上は言えなかった。紡錘を握り締めたまま、修練場でヴェレスと向き合うラスラフの背中を見つめていた。
ヴェレスが修練場の石柱に背を預け、腕を組んだ。
「まず制御だ」
声に感情はなかった。教師が生徒に方針を伝えるような、冷静で明快な口調。
「力を持っているだけでは、振り回されるだけだ。今のおまえは、蓋のない鍋に湯を注いでいるようなものだ。溢れる。溢れた先が敵ならいいが、味方なら目も当てられん」
ラスラフは頷いた。反論はなかった。自分の力が制御できていないことは、身に染みている。荒野での戦闘でも、意図しない方向に雷が飛んだことがあった。全力解放の後の疲労は、力が効率よく使われていない証拠でもある。
「方向。出力。持続時間。この三つを操れるようにする。順にやる。焦るな」
ヴェレスの教え方は簡潔だった。理屈を述べ、実践させ、修正する。感情を排した指導。だがその中に、教える者としての確信があった。この男は教え慣れている。少なくとも、知識を伝えることに淀みがない。数千年を生きた神の知識が、明快な言葉に凝縮されている。
「やれるか」
「やる」
ヴェレスの口角が僅かに上がった。皮肉ではなかった。短い返答を気に入ったのかもしれない。
「では明日から始める。今日はもう休め。全力解放の後で立っていられるだけ上出来だ」
ラスラフは修練場を出た。足取りは重かったが、胸の底に何かが灯っていた。ここで強くなれる。この男の下で、嵐の力を自分のものにできる。その予感が、疲労の重さを僅かに押し返していた。
宿営地への通路を歩きながら、ラスラフは右手を見た。全力解放の後で、痣が微かに脈動している。手のひらの中央に向かって、新しい枝が伸びたような気がした。気のせいかもしれない。だが力を使った代償が確実に進行していることは、もう疑いようがなかった。右手の指先はとうに何も感じない。手のひらも、ほとんど。力を得るということは、自分の体の一部を差し出すということだ。その秤の傾きを、今日の全力解放がまた少しだけ深くした。
修練場を離れるとき、背後でヴェレスの声が聞こえた。独り言のように、低く。
「おまえの器は……まだ空きがある」
ラスラフの耳には届かなかった。蛇の庭の琥珀色の光の中を、三人の足音が宿営地に向かって遠ざかっていく。ヴェレスはそれを見送り、琥珀色の目を細めた。




