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雷神の忌み子 ~五感を代償に、少年は永遠の冬を終わらせる~  作者: 蒼月よる


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憎悪の残滓

 蝋燭の炎を灯せ、とヴェレスは言った。


 修練場の中央に置かれた蝋燭。指の長さほどの、細い一本。ヴェレスがどこから持ち出したのかは知らない。蛇の庭の琥珀色の光の中に、白い蝋燭が頼りなく立っている。琥珀色の光に照らされた蝋燭の白さが、修練場の薄暗さの中でやけに目立っていた。


「あれに雷を落とせ。芯だけを焼いて、蝋を溶かすな」


 ラスラフは右手を掲げた。痣に意識を向け、力を引き出す。最小限の出力。昨日の方向制御とは比較にならないほど繊細な調整が必要だった。空気を読み、道を敷き、力を絞る。蝋燭の芯だけに届く、針のように細い雷。


 稲妻が走った。蝋燭は消し飛んだ。蝋も芯も台座の岩も、跡形なく消えていた。焦げ跡だけが岩盤の上に黒い円を描いている。


「力が大きすぎる。もう一本」


 ヴェレスが同じ場所に新しい蝋燭を立てた。何本用意してきたのか、長衣の内側から次々と取り出す。手品のようだった。ラスラフは再び構え、力を絞り、放った。蝋燭が燃え上がり、蝋が一瞬で蒸発した。芯だけ焼くどころではない。二本目も失敗だった。


 三本目。今度は力を極限まで絞った。だが稲妻が蝋燭に届く前に空気中に散ってしまい、蝋燭はそのまま立っていた。力が足りなければ届かず、力を入れすぎれば破壊する。その間の一点を射抜けない。


「おまえの力は感情に引きずられやすい」


 ヴェレスが言った。修練場を横切り、また蝋燭を立てる。今度は以前より離れた場所に。


「怒りで力が増すのは便利に見えて危険だ。怒りに乗せた力は精度を失う。出力が必要な場面で使い、繊細な場面では使えない。それでは片手落ちだ」


「どうすればいい」


「力を流す幅を意識しろ。川と同じだ。川幅を広げれば水流は穏やかになる。絞れば急流になる。おまえの中にある力の流れる道の太さを、意識的に変えろ」


 ラスラフは目を閉じた。力の流れる道。痣を起点に、肩を通り、腕を下り、指先から放出される力の経路。その太さを変える。細く、細く。糸のように絞る。川幅を一本の細流にまで狭める。


 目を開け、放った。


 稲妻──というより、蒼白い火花が指先から飛んだ。蝋燭に届き、芯の先端が赤く光った。灯った。小さな炎が蝋燭の先に揺れている。蝋は溶けていない。細流は芯だけを焼き、蝋を傷つけなかった。


「もう一度」


 繰り返した。成功と失敗が交互に訪れた。力を絞りすぎて届かないことがあり、わずかに太くしすぎて蝋を溶かすことがあった。七本目で安定し始め、十本目でほぼ確実に灯せるようになった。ヴェレスが頷いた。


「次は、あの壁を砕け」


 修練場の端に、拳大の岩が積まれていた。


「蝋燭の次が岩壁か」


「出力の振れ幅を体に覚えさせる。最小と最大の間を、自在に行き来できなければ話にならん。蝋燭を灯す指先と岩を砕く拳が、同じ体から出る力だという感覚を身体に刻め」


 ラスラフは振り返り、岩壁に向かって右手を構えた。今度は力の道を太く広げる。感情を乗せるのではなく、意図的に出力を上げる。川幅を意識して広げ、水量を増やす。


 轟音と共に岩が砕け散った。蝋燭の繊細さと岩壁の破壊力。その落差を、同じ体から同じ力で生み出す。振れ幅の制御。ヴェレスが求めているのは、力の総量ではなく、力の粒度だった。



 修練の合間に、ドモヴォイが蛇の庭の奥を歩いていた。


 小さな足が黒い土を踏み、もじゃもじゃの髭を揺らしながら、樹と樹の間をすり抜けていく。修練場から離れた場所には、琥珀色の地衣類の光が薄く、ほとんど闇に近い空間が広がっていた。修練の雷鳴が遠い雷のように微かに聞こえてくる。


「広いのう、この地下は」


 独り言だった。家の守護精霊としての本能が、空間の構造を感じ取っている。家に住んでいた頃、壁の向こうに何があるか、床の下に何が潜んでいるか、天井の裏に何が巣食っているか──そういうことを精霊は知っている。空間の「形」を肌で感じる力。家の構造を隅々まで把握する力。壁の裏の虫の巣も、床下の水脈も、天井裏の風の通り道も。それが蛇の庭でも働いていた。


 奥に進んだ。光がさらに薄くなる。蛇の紋様の樹も疎らになり、黒い土が露出した岩盤に変わっていく。修練場があるのが蛇の庭の「表」だとすれば、ここは「裏」に近い場所だった。


 足が止まった。


 壁があった。岩壁ではない。岩壁なら蛇の庭のあちこちにある。だがこの壁は違った。表面が滑らかすぎる。天然の岩肌にはない、意図的に整えられた平面。そして──空間がここで「途切れている」のではなく、「閉じられている」。行き止まりではなく封印。その違いを、ドモヴォイの精霊の感覚は見分けた。壁の向こうに空間がある。確かにある。だが壁がそれを塞いでいる。


「旦那、奥にも何かあるんですかい?」


 夕食の場でヴェレスに訊いた。ラスラフとズラータが干し肉を噛んでいる傍ら、ドモヴォイは髭を撫でながら何気ない口調で切り出した。


 ヴェレスの琥珀色の目がドモヴォイを見た。一瞬だった。目が細まり、すぐに元に戻った。


「古い倉庫のようなものだ。危険だから封じてある。近づかんほうがいい」


 声は滑らかだった。嘘を言っている響きはなかった。だがドモヴォイは長年家に住んできた精霊だ。家族の嘘を見分けることにかけては、誰にも負けない。子どもが壺を割って「知らない」と言うときの目と、本当に知らないときの目は違う。大人が都合の悪いことを隠すときの声と、本当に何もないときの声は違う。ヴェレスの声は──嘘ではなかった。だが全部でもなかった。


「左様ですか」


 ドモヴォイは頷いた。納得した顔をした。だが髭の奥で、小さな目が光っていた。



 夜、ラスラフは一人で修練の復習をしていた。


 宿営地から少し離れた場所で、右手を掲げて力を細く放つ練習を繰り返す。蝋燭はないが、地衣類の光を標的に見立てて、最小出力の制御を体に染み込ませていた。力の道の太さを変える。太く、細く。岩を砕く幅と、蝋燭を灯す幅を、指先の意識だけで切り替える。


 痣が疼いた。


 微かに、だが確かに。修練の疲労とは違う疼き。痣の奥で何かが蠢いている。ラスラフは手を下ろし、右腕を左手で押さえた。疼きが脈動に変わった。脈打つように、痣の奥で何かが動いている。


 不意に、映像が明滅した。


 暗闇の中に、光る目があった。琥珀色の、蛇の目。巨大な瞳が暗闇の中から覗き、ラスラフを──いや、ラスラフではない誰かを見つめている。憎悪。目に映るのは憎悪だった。だがそれは蛇の目に宿る感情ではなく、蛇の目を「見ている側」が抱いている感情だった。


 殺さなければならない。


 その衝動が一瞬だけ胸を貫き、消えた。熱い塊が胸を通り抜け、背筋を冷たいものが走った。


 ラスラフは目を見開いた。額に冷や汗が浮いている。心臓が早鐘を打っていた。手が震えていた──感覚のある左手が。右手は何も感じていない。何も。


 気のせいだ。


 そう思おうとした。修練の疲労が見せた幻覚。眠気が作った白昼夢。そう片づけようとして、片づけきれなかった。あの映像にはあまりにも実感があった。あの目は──あの琥珀色の蛇の目は、ヴェレスの人型の目と同じ色だった。琥珀色。底の見えない光を湛えた、知恵と老獪さを宿す目。


 ラスラフは手を握り、宿営地に戻った。足音が暗い通路に反響する。振り返ったとき、蛇の庭の琥珀色の光の中に、樹の紋様が蛇の鱗のように蠢いて見えた。気のせいだ。きっと。修練の疲労が見せた幻。だが足は少しだけ速くなった。


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