おれは何者だ
氷の破片が散乱する谷間に、ラスラフは座り込んでいた。
灰色の空の下、砕けた中位眷属の残骸が雪と氷に混じって地面を覆っている。透明だった鎧の欠片はもう蒼い光を失い、ただの氷塊として薄暗い谷間に転がっていた。岩壁に穿たれた雷撃の焦げ跡が黒い筋を引き、砕けたズラータの防壁の残骸が通路を半ば塞いでいる。ドモヴォイが叩きつけられた岩の根元にはまだ煤の匂いが漂い、結界の名残が薄い膜のように消えかけていた。
ラスラフは右手を握った。開いた。握った。
動いている。指が曲がり、拳の形になるのが見える。だが握っている感覚がない。力が入っているのか抜けているのか、指先が何に触れているのか、何もわからない。前腕の半ばまで触覚が死んでいた。
指先から始まったのだ。最初の戦闘の後、指の腹の感覚が鈍くなった。次に手首まで広がった。それでも少しずつだった。戦闘のたびに少しずつ、這い上がるように消えていった。だが今回は違った。一気に跳ね上がった。あの嵐を解き放った代償が、そのままこの手に刻まれていた。
左手で右の掌を地面に押しつけてみた。左手には凍った砂利の冷たさと硬さがはっきりと伝わる。尖った砂利の角が皮膚を刺す感触。温度。硬さ。質感。右手は──何もない。地面に触れている実感すらない。自分の手なのに、まるで他人の手がそこに置かれているだけだった。
大きな力を使えば、代償も大きい。
法則が確定した。力の行使と感覚の喪失は比例する。これまでは曖昧だった規則が、今回の大規模行使で疑いようのない事実になった。力を得ることは、身体を失うことだ。嵐の力を手にするたびに、ラスラフの体は少しずつ自分のものではなくなっていく。
右手を見下ろした。蒼白い痣が手の甲から前腕にかけて走っている。あの谷間で嵐を解き放つ前よりも、紋様が僅かに広がっている気がした。気のせいかもしれない。だが確かめる術がなかった。右腕の感覚がない以上、痣が熱を帯びているのかすら、わからない。
「動くな」
ズラータの声が頭上から降ってきた。いつの間にか傍に来ていた。膝をつき、ラスラフの身体を確認するように全身を見回している。額に薄く汗が浮き、唇が僅かに乾いていた。防壁を砕かれた消耗がまだ残っているのだろう。だがその手は震えていなかった。巫女の手だった。何度も傷を診てきた手。
「肉体的な消耗は癒せる」
革袋から薬草を取り出し、平たい石の上ですり潰し始めた。手慣れた所作だった。乾燥させた葉と根を石で擦り合わせ、青い汁を絞り出す。苦い匂いが立ち昇った。
「だが感覚の喪失は──私には手が出せない」
正直な言葉だった。飾らず、慰めもしない。それがズラータだった。わからないことをわかるとは言わない。できないことをできるとは言わない。
すり潰した薬草を雪解け水で溶き、ズラータがラスラフの右腕に塗り始めた。冷たいはずだった。薬草の汁は水で溶いたばかりで、この寒さの中では指先が痺れるほど冷たいはずだった。だが何も感じなかった。
ズラータの指がラスラフの前腕を滑るのが見える。白い指が、蒼白い痣の走る肌の上を丁寧になぞっていく。薬草の緑が痣の蒼白に混じり、奇妙な色を作った。それを見ている。見ているだけだった。ズラータの指の温もりも、薬草の冷たさも、塗り込まれる圧力も、何一つ伝わらない。目の前で自分の腕に触れている他人の手を、ただ眺めているような感覚だった。ズラータの指がどれほど丁寧に動いているかは、目で見ればわかる。だが「丁寧だ」という実感が、皮膚からは届かなかった。
ズラータの手が止まった。彼女がラスラフの顔を見上げた。何かに気づいたように表情が僅かに変わった。言葉を選ぶように、一拍の間を置いた。
「……わかるか。私が触れていること」
「見えているから、わかる」
ズラータの指が微かに震えた。ほんの一瞬だった。すぐに震えは止まり、何も言わずに手当てを続けた。布を取り出し、薬草を塗った腕を丁寧に巻く。巻かれている感覚もなかった。ただ、ズラータの手が自分の腕の周りで動いているのが見えるだけだ。見えるから、わかる。それしか残っていない。
「いたたた……」
声がした。谷の奥、岩壁の根元から。もじゃもじゃの髭が動き、小さな体が身じろいだ。ドモヴォイが意識を取り戻していた。
ズラータが立ち上がり、駆け寄った。小さな体を起こし、あちこちを確かめる。ドモヴォイが顔をしかめ、左腕を庇った。
「わしは精霊じゃぞ……精霊に骨があること自体がおかしいんじゃ。骨が折れるなんぞ聞いておらん」
文句を並べる口調だが、声に力が戻っていた。生きている。動ける。もじゃもじゃの眉の下の小さな目が、ラスラフとズラータの無事を確かめるように見回した。二人の姿を認めて、表情に安堵が浮かんだ。それを隠すように咳払いをしたが、遅かった。
ズラータが手際よくドモヴォイの腕を診た。骨は折れているが、精霊の体は人間とは違う。ズラータの知識でも前例のない治療だったが、応急処置の基本は同じだ。添え木を当て、紐で丁寧に固定しながら言った。
「結界を張ったのはおまえだろう。下級眷属の群れが後方から回り込もうとしていた。あの結界がなければ、ラスラフが中位眷属と戦っている間に背後を突かれていた」
「お嬢にはお見通しか」
「大地の記憶で痕跡が読めた。眷属が結界にぶつかって散った跡が、後方の岩に残っていた」
ドモヴォイの周囲だけ、空気が微かに温かかった。煤と古い木の匂いが小さな体から滲むように漂っている。凍りついた谷間の中で、そこだけがほんの少し緩んでいた。家の守護精霊の残滓。誰かを守るために在る者の気配。
「わしは家の精霊じゃ。家の中のものは守る」
小さな声で、誰に言うでもなく呟いた。旅の一行が、この老精霊にとっての「家」になっている。ドモヴォイ自身がそう認めた言葉だった。
「助かった」
ラスラフは短く言った。それ以上の言葉を探したが、見つからなかった。だがドモヴォイの髭がくるくると巻いた。小さな精霊にとっては、それで十分だったらしい。
夜が来た。谷間の奥に場所を移し、焚き火を囲んだ。ドモヴォイが片腕で器用に汁を温め、ズラータが薬草の在庫を確かめている。日常の所作が続いていた。ドモヴォイの焚き火は相変わらず上手かった。薪の組み方一つで火の回りが変わる。家の精霊が持つ生活の知恵は、こういうところで旅を支えている。温かい汁を左手で受け取り、口に運んだ。身体が温もりを求めていた。
だがラスラフの意識は焚き火の温もりではなく、感覚のない右腕に向いていた。拳を握ろうとしていた。
指は動いている。見えるからわかる。だが握っている実感がない。
鉄を打っていた手だ。養父の大きな手を、子どもの頃に握り返した手だ。炉の熱を感じ、鋼の温度を測り、鍛冶槌の重さを指先で受け止めた手だ。
その手が、もう感じない。焚き火の光が右手の痣を照らしている。蒼白い紋様が炎の橙を受けて、妙に生々しく浮かび上がった。この痣が力の源で、この痣が代償の証だ。同じものが、与えて、奪っている。




