鍛冶師の手
谷間の戦いから数日が経っていた。
旅を再開している。雪を踏み、岩を越え、灰色の空の下をひたすら歩く。身体の疲労は癒えつつあった。ズラータの薬草と、ドモヴォイの手際よい野営の世話が、傷ついた身体を少しずつ繕ってくれた。ドモヴォイの左腕の添え木はまだ外れていないが、小さな精霊は片腕でも器用に焚き火を扱い、食事を整え、不平を言いながらも歩き続けた。右腕は相変わらず前腕の半ばまで感覚がない。だが数日も経つと身体の方が慣れ始めていた。左手で代用する癖がつき、右手が感じないことを前提にした動き方が、知らぬ間に染みついていく。慣れるということがどれほど恐ろしいことかを、ラスラフは考えないようにしていた。
引っかかっているのは、腕のことではなかった。
あの戦闘の最中に感じた怒り。自分のものではない怒り。蛇を滅ぼしたいという殺意。目の前に走った映像。巨大な蛇。世界樹の根。稲妻を振り下ろす誰かの手。
あれは何だったのか。
歩きながら、何度も反芻した。力を使っているとき、自分の中に誰かがいた気がする。一瞬だけ、自分ではない誰かの目で世界を見た。あの映像はどこから来たのか。ラスラフ自身は蛇に対する殺意を持っていない。だがあの瞬間、確かにそれが身体を突き抜けた。腕の筋肉が自分のものではない戦い方を知っていた。中位眷属の懐に踏み込んだあの滑らかな動きは、ラスラフが鍛えたものではなかった。
力の源が嵐神にあるのなら、あれはペルンの記憶なのか。死んだ神の感情が、力と一緒に流れ込んできたのか。だとすれば力を使うたびにあれが起きるのか。自分ではない誰かの怒りに、身体を乗っ取られるのか。
戦いの興奮のせいだろう。そう自分に言い聞かせた。中位眷属との死闘だった。極限の状態で感覚が異常を起こしてもおかしくはない。思おうとしたが、完全には納得できなかった。あの怒りの質が、自分の中にあるどの感情とも違っていた。忌み子と呼ばれた悔しさ。石を投げられた怒り。残りかすと嗤われた屈辱。それらはどれもラスラフ自身の怒りだ。だがあれは違った。もっと古く、もっと深く、人間の胸には収まりきらないほど巨大な怒り。蛇を殺すためだけに存在するかのような、純粋で容赦のない殺意。戦闘の興奮では説明がつかない。胸の奥に解けない澱のように残っていた。
夕暮れ時、林の中で白狼が現れた。
ラスラフは一人で薪を集めていた。左手で枯れ枝を折り、腕に抱える。右手では枝の太さがわからず何度か折り損ねた。太い枝を掴んだつもりが指が滑り、細い枝を折ろうとして握り潰す。いちいち目で確認しなければ、指が何をしているのかわからない。苛立ちを飲み込みながら薪を集めていると、背後に気配もなく白銀の毛並みが佇んでいた。
振り返ると、琥珀色の目があった。夕闇の中で淡く光る二つの目。知恵と老獪さが底に沈んでいる。
「勝ったな」
白狼が言った。感情のない声。事実の確認だった。
「勝った。だが──」
ラスラフは薪を地面に置き、白狼に向き直った。
「戦っている最中に、おかしなことがあった。怒りが──自分のものではない怒りが込み上げてきた。蛇を殺したいという。おれはそんなことを思ったことがない。それと、映像が見えた。蛇と、大きな木と、雷。一瞬だったが、確かに見えた」
白狼の琥珀色の目が一瞬細くなった。
沈黙が落ちた。林の木々の間を風が吹き抜け、凍った枝が軋む音がした。夕闇が木立の隙間から忍び込み、白狼の毛並みの輪郭を闇に溶かしていく。沈黙が長い。ラスラフは白狼の目を見つめた。読めない。この獣の目はいつも底が見えない。何かを考えている。何かを選んでいる。語る言葉を選り分けている。
「力が育つと、力の源に近づく」
白狼が口を開いた。声は平静だった。
「おまえはペルンの力をより深く使えるようになった。源に近づけば、源の残滓に触れることもある。それだけのことだ」
嘘には聞こえなかった。力が強くなればその根源に近づく。理屈は通っている。だが答えるまでの沈黙の長さが引っかかった。あの数秒の空白は、言葉を探していたのではない。言わないことを選んでいた空白だった。
「……何か、隠していることはないのか」
「私が隠さないことがあると思うか?」
白狼の口元が微かに歪んだ。笑みか皮肉か。ラスラフには読めなかった。正直であると同時に不誠実な答えだった。隠し事をしていることは認めるが、その中身は語らない。この白い獣はいつもそうだった。嘘はつかない。だが全部は語らない。
それ以上は追及しなかった。追及したところで、この白狼が答えたくないことを答えるとは思えなかった。旅を始めてからずっとそうだ。白狼は必要なことは教える。だが聞かれたことにすべて答えるわけではない。その境界がどこにあるのか、ラスラフにはまだ掴めていなかった。
薪を拾い直し、野営地へ戻った。白狼の気配はいつの間にか消えていた。振り返っても、林の中にはもう白銀の毛並みはなかった。足跡もない。雪の上に、何の痕跡も残していなかった。
夜。
焚き火の傍にズラータとドモヴォイが座っていた。ラスラフは少し離れた岩の影に背を預けて目を閉じていた。眠ろうとしていたが、意識が沈みきらず、浅い眠りの縁を漂っている。風が木の枝を揺らす音。焚き火が爆ぜる音。虫の声はない。永冬の世界に虫はいない。その静寂の中に、囁き声が混じった。
ドモヴォイの声だった。低く、いつもの軽口とは違う声音で、ズラータに向かって何かを言っている。
「……あの坊主、戦いの最中に一瞬……目の色が……灰青じゃなくて、稲妻が走ったような……」
断片しか聞き取れなかった。焚き火の音に紛れ、言葉の半分が消えている。だが「目の色」という言葉だけは耳に残った。
ズラータの声が返った。抑えた、硬い声。
「……気をつけて見ておく」
それだけだった。会話はそこで途切れ、焚き火の音だけが戻ってきた。ラスラフは目を閉じたまま、聞こえた断片を反芻した。目の色が変わった。戦いの最中に。ドモヴォイはそう言ったのか。だが疲労が思考を押し潰していく。問い詰める気力が湧かないまま、浅い眠りの底に引きずり込まれていった。
夢は見なかった。だが目覚めたとき、あの殺意の余熱がまだ胸の奥に残っていた。消えない。数日経っても消えない。自分のものではない怒りが、身体のどこかに居座っている。それは痣のようなものだった。感覚の痣ではなく、感情の痣。力を使ったときに刻まれた、消えない跡。
焚き火はもう熾火になっていた。ズラータは起きていて、紡錘を手の中で静かに回していた。ドモヴォイは丸まって眠っている。いつもの朝だった。だがラスラフの中では、何かが変わり始めていた。
空を見上げた。灰色の永冬の空がどこまでも広がっている。雲と空の境はなく、世界の天井そのものが灰に染まっていた。
おれは何者なんだ。
忌み子か。ペルンの遺児か。それとも──死んだ神の器なのか。
答えはまだない。風が冷たかった。右手の痣が、微かに脈打った気がした。




