戦場の後に
嵐よ、と思った。
思った瞬間、身体の奥底で何かが弾けた。鍛冶場で炉の底に溜まった炭が限界を超えて爆ぜるように、胸の中心から右腕を通り、指先まで一息に駆け抜ける力の奔流。嵐の痣が灼熱を帯び、蒼白い光が手の甲から前腕にかけて脈打った。光が肌の下を走る。樹枝状の紋様が枝分かれの一本一本まで輝き、腕の産毛が逆立った。これまで感じたどの発現よりも深い。力が身体の表面ではなく、骨の髄から湧き上がっていた。
残りかす、と眷属は嗤った。
怒りが胸の底で跳ねた。だが養父の声が残響のように響いている。怒りのまま打てば鉄は歪む。鋼に形を与えるように、怒りに形を与えろ。炉の前で何千回と繰り返した動作を思い出せ。力任せに振り下ろすのではない。一打ごとに、形を整えろ。
ラスラフは右腕を掲げた。指先に力を集中させた。散らさない。焦点を結ぶ。
雷が落ちた。
一筋ではなかった。蒼白い稲光が指先から放射状に広がり、谷間の隘路を白と蒼に塗り潰した。三筋、四筋、五筋──数えることすらできない雷の枝が岩壁に反射し、増幅し、連鎖する。雷鳴が重なり合って一つの轟音となり、耳の奥が痺れた。鼓膜が圧され、自分の呼吸すら聞こえなくなった。視界が白く焼ける。闇。また白。断続する明滅の中で、中位眷属の氷の鎧に無数の亀裂が走るのが見えた。白い蒸気が鎧の隙間から噴き出し、谷間の冷気に混じって渦を巻く。
初めて、あの巨躯がたじろいだ。
蒼い光点の目が細まり、氷の足が半歩退く。三波の下級眷属を退け、ズラータの防壁を砕き、ドモヴォイを吹き飛ばした巨躯が。あの知性ある目が、初めて動揺を見せた。岩壁の隙間から散った氷片が雷光を浴びて硝子のように煌めく。
こんな力が、あったのか。
全身が熱い。血が沸いているのではない。もっと深い、骨の髄を通り抜けるような力の奔流が身体の芯を焼いている。筋肉が覚えている。鍛冶槌を振り上げたときの、肩から腕へ、腕から指先へと連なる力の伝達。あのときと同じだ。ただ伝わるものが鉄を打つ衝撃ではなく、嵐そのものだった。鉄を鋳るように、嵐を鋳る。養父が教えてくれた形の与え方が、鍛冶場ではなく戦場で息をしていた。
二度目の雷撃を放った。今度は散らさず一点に凝縮させた。中位眷属の胸の中心、氷の鎧の最も厚い部分を狙う。蒼白い光が隘路を一直線に貫き、凄まじい衝撃音とともに鎧が弾けた。掌ほどの穴が穿たれ、白い蒸気が噴き出す。有効打だった。オゾンの焦げた匂いが肺を焼き、谷間の空気そのものが帯電して髪が逆立った。岩壁から氷の欠片がぱらぱらと落ち、足元の砂利が震える。追い詰めている。ラスラフは三度目の雷を手に纏い、中位眷属の後退を追った。風が谷間を渦巻き、巻き上げた雪と氷片が嵐の壁のように舞い上がった。
そのとき、怒りが変わった。
胸の中で燃えていた感情が、一瞬、何か異質なものに掠められた。ラスラフ自身の怒りとは質の違う、もっと古い何かが、胸の奥を通り過ぎた気がした。
すぐに消えた。
何だ、今のは。処理しきれないまま、立ち止まる余裕はなかった。中位眷属が氷の拳を振り上げている。距離が詰まっていた。
身体が動いた。考えるより先に足が踏み替わっていた。振り下ろされる拳の軌道を横に跳んで躱す。岩壁に背がぶつかり、衝撃が背骨を叩いた。痛みよりも先に右腕が上がっていた。ペルンの怒りかラスラフの意志か、もう区別がつかない。雷が掌に凝縮した。
身体が先ほどより滑らかに動いている。
自分の動きではないような流れるような所作で、ラスラフは中位眷属の懐に踏み込んだ。足の運び方を知っている。重心の移し方を知っている。相手の隙をどこに見出すかを知っている。ラスラフが学んだのではない戦い方が、筋肉の奥から浮かび上がるように身体を導いていた。怖いはずだった。自分の身体が自分のものではないかのように動くのは。だが戦闘の最中に恐怖を味わう余裕はなかった。
最後の雷撃は、祈りに似ていた。
ラスラフの意志と、名前のない誰かの記憶が一瞬だけ重なった。怒りではなく、もっと純粋な力の収束。掌に集まった蒼白い光が臨界に達し、指先から解き放たれた。
中位眷属の胸を貫いた。
氷の鎧が内側から砕けた。亀裂が全身に走り、蒼い光点が明滅し、消えた。凄まじい音を立てて氷が四散する。破片が谷間に降り注ぎ、雷光を浴びて煌めきながら落ちてくる。美しかった。降り注ぐ氷の欠片が一瞬だけ雪ではない何かのように光り、谷間の闇に散っていった。
勝った。
膝が折れた。
地面に手をついた。左手だ。凍った砂利の冷たさと硬さが掌に食い込んだ。右手も地面に触れているはずだが、わからなかった。視界が暗くなりかけている。全身が鉛のように重い。力を使いすぎた。肺が焼けるように痛み、呼吸のたびに焦げた空気が喉を引き裂いた。嵐の痣がまだ微かに光っていたが、その光ももう弱い。熱が引いていく。力の奔流が身体から抜け落ち、後には空っぽの疲労だけが残った。
遠くでズラータの声がした。名前を呼んでいる。水の底から聞こえるような遠い声。走ってくる足音が砂利を蹴る。だが音が輪郭を失い、世界が綿に包まれたように遠退いていく。
右腕の感覚がなかった。手首だけではなかった。手を開こうとした。指は動いているように見える。見えるからわかる。だが指が動いている実感がない。前腕を探った。左手で右腕に触れた。触れている。だが右腕の側からは何も返ってこない。肘に近いところまで。何も感じない。
力を使った代償が、一気に跳ね上がっていた。灰色の空が頭上で揺れている。散乱する氷の欠片が地面で溶けもせず光っている。ズラータの足音が近づいてくる。ラスラフは地面に座り込んだまま、感覚のない右腕を見下ろした。
勝った。勝ったはずだ。だがこの腕は、もう感じない。




