嵐を解き放つ
先遣だった。
中位眷属が動く前に、下級眷属の群れが谷間に流れ込んできた。氷の獣。四足で走り、牙を剥く。白い体躯が暗闇の中で青白く光り、凍った砂利を蹴散らしながら隘路を駆ける。
だが狭い。
谷間の幅は人が三人分。氷の獣が二体並べば岩壁に肩が擦れる。先頭の一体が隘路に飛び込み、後続がつかえた。押し合い、牙を剥き合い、互いの体をぶつけながら進もうとする。知性のない群れの限界だった。
「来た」
ズラータの声。短く、鋭い。両手を岩壁に向け、紡錘を握った左手が淡い光を放った。
岩壁の一部が動いた。ズラータの力が大地の記憶を媒介に岩を操り、谷の入口を半分塞ぐ。石の壁が迫り出し、侵入路が一本に絞られた。氷の獣が一体ずつしか通れない幅。
先頭の一体が、絞られた通路を抜けてきた。
ラスラフは右手を上げた。
痣が熱を帯びた。蒼白い紋様が手の甲で光り、指先から掌にかけて稲光が走った。怒りではなく、意志。鉄を鋳るように、嵐を鋳る。
形を、与える。
雷撃が放たれた。
蒼白い光が隘路を走り、先頭の氷の獣を貫いた。凄まじい音。雷鳴が岩壁に反射して増幅され、谷間全体が白く照らされた。氷が砕ける。獣の体が四散し、欠片が壁に飛び散った。直後の暗転。目が眩む。だがラスラフは次を見ていた。
二体目が通路を抜けてくる。
雷撃。
三体目。
雷撃。
計画通りだった。侵入路を一本に絞り、一体ずつ片づける。隘路の中にオゾンの焦げた匂いが充満し、砕けた氷の欠片が足元に散らばった。雷光が閃くたびに、谷間が白と闇の明滅を繰り返す。
「次の波じゃ!」
ドモヴォイが叫んだ。谷の入口の向こうに、新たな群れが押し寄せている。
ラスラフとズラータが息を合わせた。ズラータが防壁の隙間を微調整し、侵入の角度を変える。獣が通路に入った瞬間にラスラフが雷撃を叩き込む。連携が噛み合っていた。旅の中で積み重ねた戦闘経験が、身体の動きに染みている。
嵐の力に「形を与える」意識が、精度を上げていた。怒りに任せた散発的な放電ではなく、狙った場所に、狙った太さで雷を落とす。鉄を叩くように。一打ごとに、形を整えるように。
第三波を退けた。
足元に砕けた氷の残骸が積もっている。息が荒い。右腕に痺れがある。嵐の力を連続で使った代償だ。だが立っている。まだ戦える。
ズラータの防壁も保っている。彼女の額に汗が浮いていたが、紡錘を握る手は安定していた。ドモヴォイが後方を警戒しながら、「よし、よし」と小さく呟いている。
勝てる。
その確信が、胸の中に芽生えかけた瞬間だった。
下級眷属の群れが、左右に退いた。
唐突に。谷の入口に殺到していた氷の獣たちが、まるで見えない手に引かれたように後退し、隘路の両側に道を空けた。統率された動き。獣にはできない動き。
谷の入口に、影が立った。
大きかった。下級眷属の頭が腰にも届かない巨躯。人型に近い。だが人ではない。全身を覆う氷の鎧は透明でありながら、叩けば鋼鉄のように鳴るだろうと直感でわかった。鎧の表面に細かな亀裂のような紋様が走り、それが薄明かりを受けて蒼く輝いている。
顔にあたる部分に、二つの光点があった。
蒼い光。冷たく、静かで、底のない光。下級眷属の目は獣の目だった。衝動と本能の光。だがこの目は違う。こちらを見定めている。品定めしている。知性のある目だった。
中位眷属が、一歩を踏み出した。
足音が谷間に反響した。氷が軋む重い音。下級眷属の四足で駆ける軽い音とはまるで違う。大地を踏み割るような一歩が、隘路の入口から奥のラスラフたちに向けて、ゆっくりと歩を進めた。
ラスラフは右手を上げた。
痣が光った。嵐の力が掌に集まり、指先に稲光が走った。三波の下級眷属を砕いたのと同じ雷撃。精度を上げ、「形を与えた」雷。
放った。
蒼白い光が隘路を走った。真っ直ぐに、中位眷属の胸を狙って。
中位眷属が──動いた。
避けた。雷撃の軌道を、最小限の動きで。上体を僅かにずらし、雷光が氷の鎧を掠めて岩壁に炸裂した。岩が砕け、破片が散る。だが中位眷属は無傷だった。
受けて砕けるのではない。読んで、躱す。下級眷属のように、力で弾く必要すらない。雷撃の軌道を予測し、最小限の動きで回避する。知性ある戦士の回避だった。
ラスラフの背筋が凍った。
これまでの敵とは、次元が違う。
二撃目を放った。今度は角度を変え、壁に反射させるように。中位眷属は足を踏み替え、反射の軌道すら読んで躱した。氷の鎧の表面に、雷撃の余波が火花を散らしただけだった。
三撃目。直撃を狙わず、足元を撃った。地面を砕いて動きを止めようとした。中位眷属は砕けた地面を踏み越え、一歩、また一歩、こちらに近づいてきた。歩みを止めない。
距離が詰まっていた。
中位眷属がズラータの防壁に向かった。
力ずくではなかった。氷の拳が持ち上がり、防壁の──岩の壁の一点を打った。正確だった。防壁の構造的な弱点、岩の継ぎ目を狙っている。ズラータの顔が歪んだ。
「持たない──」
二度目の打撃。岩に亀裂が走った。三度目で防壁が砕け散った。岩の破片が飛び、粉塵が谷間に舞い上がった。
侵入路が開いた。
ドモヴォイが飛び出した。
小さな体が中位眷属の前に立ちはだかった。両手を広げ、家の守護精霊としての力──結界を張った。薄い光の膜が、中位眷属の前に現れた。煤と古い木の匂いが一瞬だけ漂った。家の温もりの残滓。守護精霊の最後の矜持。
中位眷属の拳が振られた。
結界が弾け飛んだ。同時にドモヴォイの小さな体が吹き飛ばされた。岩壁に叩きつけられ、ずるりと滑り落ちる。結界があったから即死は免れた。だが動かない。小さな体が岩の根元に丸まっている。もじゃもじゃの髭が、力なく地面に広がっていた。
「ドモヴォイ!」
ズラータの声が谷間に反響した。だが駆け寄る余裕はなかった。中位眷属はもう、ラスラフの目の前にいた。
パーティの戦術が崩壊した。
防壁はない。後方警戒もない。ラスラフと中位眷属が、隘路の中で向き合っている。一対一。岩壁に挟まれた狭い空間で、蒼い光点がラスラフを見下ろしていた。
氷の鎧の奥から、声が漏れた。
凍った声だった。氷の軋みに似た響き。だが言葉だった。知性ある存在が発する、明確な言葉だった。
「ペルン……の、残りかすか」
ラスラフの血が、沸いた。
残りかす。
自分自身が使った言葉だった。死んだ神の残りかすで何ができる。あの停滞の中で吐き出した言葉。自分を否定する言葉。それを──敵の口から聞いた。
嘲りだった。知性ある敵が、ラスラフの正体を感知し、嘲っている。死んだ神の残りかすにすぎないと。
怒りが胸の奥で跳ねた。
形を与えろ、と頭の片隅で声がした。養父の声。怒りのままに打てば鉄は歪む。だが怒りは収まらなかった。嵐の痣が脈打ち、右腕全体が蒼白い光に包まれた。風が渦を巻いた。谷間の空気が震え、岩壁から氷の欠片がぱらぱらと落ちた。
中位眷属の蒼い目が、僅かに細まった。
ラスラフは拳を握った。感覚のない右手で。死んだ神の残りかす。そうかもしれない。だが残りかすだろうが何だろうが──この拳は、まだ握れる。




