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雷神の忌み子 ~五感を代償に、少年は永遠の冬を終わらせる~  作者: 蒼月よる


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谷間の戦い

 谷間は狭かった。


 両側の岩壁が天を塞ぐように切り立ち、隙間から見える空は灰色の細い帯にすぎなかった。足元は凍った砂利と氷。奥に向かって緩やかに下っている。人が三人並べば肩がぶつかる幅。


 ラスラフは谷の入口に立ち、地形を見渡した。岩壁の高さは人の背丈の五倍はある。登攀は不可能ではないが、氷に覆われた岩面では容易ではない。下級眷属の群れがここに殺到しても、通れるのは先頭の数体ずつ。数の優位を封じる。ヴェレスの判断は正しかった。


 ズラータが手袋を外し、岩壁に手を触れた。


 目を閉じ、紡錘を握った左手が微かに光った。大地の記憶。岩に刻まれた地層の歴史を読み取っている。ラスラフには彼女が何を「見て」いるのかわからなかったが、触れた指先がゆっくりと移動する様を見ていた。岩の形を確かめるように、掌が石肌を撫でていく。


 しばらくして、目を開いた。


「ここと、ここに防壁を張れる」


 指が岩壁の二箇所を示した。谷の入口から五歩ほど入った場所と、そこからさらに十歩奥。


「入口を半分塞げば、侵入路は一本に絞れる。二つ目の防壁で第二の絞りを作る。敵は一体ずつしか通れなくなる」


 ドモヴォイが谷の入口を振り返った。外の荒野が、岩壁の隙間から白く見えている。


「わしの感知なら谷の入口から五十歩先までわかる。それ以上は精度が落ちるが、大きなものが来れば百歩先でも気づく」


「じゃあ、こうだ」


 ラスラフが言った。久しぶりに、自分の声に力があった。


「ドモヴォイが前方を警戒する。敵が来たら数と方向を知らせろ。ズラータが防壁で侵入路を制限する。隘路に入ってきた敵を、俺が雷撃で迎え撃つ」


 口にしてみると、単純な戦術だった。だがこれまでの旅では、戦闘は常に突発的だった。遭遇し、混乱し、その場その場で凌いできた。三人で事前に戦術を組み立てるのは初めてだった。


 ズラータが頷いた。


「防壁の維持には集中が要る。戦闘中に私の注意を割かないでくれ」


「わかった」


 ドモヴォイが腰の革袋をかちゃかちゃ鳴らしながら言った。


「わしは後ろからも見張る。谷の奥から何か来んとも限らんからのう」


 三人が三人の役割を見つけた。即席の連携。だがここに至るまでの旅で培われた信頼が、言葉にしなくとも互いの動きを読み合うことを可能にしていた。



 夜が来た。


 谷間の奥に広がった小さな空間に焚き火を起こした。ドモヴォイの手際で組まれた薪は、少ない燃料でも温かく、安定した炎を上げている。三つの影が岩壁に揺れていた。


 沈黙の中で、ドモヴォイが口を開いた。


「わしはのう」


 いつもとは違う声だった。ぼやきの調子がない。軽口がない。真顔のドモヴォイは、ラスラフがこの旅で二度目に見る顔だった。一度目は、社で家族を失った話をしたとき。


「かつて家を守れなかった」


 焚き火の炎が揺れた。小さな精霊の顔に、橙色の光と影が交互に走る。


「家が潰れるのを、ただ見ておった。主人が凍え、子どもが凍え、壁が割れるのを。わしには何もできなんだ。守護精霊のくせにのう」


 髭が垂れていた。いつもならぴんと張っているか、くるくる巻いているか、逆立っているかの三択だった。今は、ただ重力に従って垂れている。


「今度は──おまえたちを守る」


 声が変わった。震えてはいなかった。だが響き方が変わった。決意のある声だった。小さな体から出ているとは思えないほど、芯のある声だった。


 ラスラフは黙って頷いた。ズラータも。言葉は要らなかった。小さな精霊が真顔で言い切ったその宣言を、余計な言葉で薄めたくなかった。


 焚き火が爆ぜた。火の粉が舞い上がり、谷間の狭い空に散った。


 しばらくして、ズラータがラスラフの方を向いた。焚き火の明かりに照らされた緑の目が、真っ直ぐにこちらを見ていた。


「明日、無茶はしないでくれ」


 声は静かだった。巫女の命令でも、旅の同行者の提案でもない。もっと個人的な響きがあった。


 ラスラフは間を置いた。嘘をつくことはできた。大丈夫だ、とか、わかった、とか。だがそういう言葉は、この焚き火の前では嘘になる気がした。


「約束はできない」


 正直な答えだった。中位眷属の力量がわからない。自分の嵐の力で太刀打ちできるかもわからない。追い詰められれば、無茶をするだろう。それが自分だと知っている。


 ズラータが小さく「知っている」と呟いた。


 呟いて、口を閉じた。それ以上は何も言わなかった。互いを案じる。だが大袈裟に語れない。二人の間にある距離は、縮まりつつあるのかもしれなかったが、その変化は雪の下の土のように、外からは見えなかった。



 仲間が眠った後、ラスラフは焚き火から離れた。


 谷間の暗がりに腰を下ろし、感覚の薄れた右手を膝の上に置いた。蒼白い痣の紋様が、闇の中でぼんやりと浮かんでいる。


 鍛冶で鉄を打っていた手だ。


 ボジダルの隣で、鉄を叩き、返し、叩いた。何百回、何千回。同じ動作を繰り返した。炉の熱と鉄の匂いの中で、手が覚えたことがある。


 養父の声が蘇った。


「鉄を打つのは怒りじゃない。形を与えることだ」


 ボジダルが珍しく口にした言葉だった。ラスラフが怒りに任せて鉄を叩いたことがある。石を投げられた日だったか、村人に目を逸らされた日だったか。鉄が歪んだ。ボジダルが首を横に振り、低い声で言った。形を与えることだ、と。


 嵐の力を、怒りのままに放ってきた。眷属に襲われ、恐怖と怒りで雷を撃った。だがそれは鉄を怒りで叩くのと同じだった。形のない力を、形のないまま放っている。


 形を与える。


 鍛冶と同じだ。鉄に形を与えるように、嵐の力にも意志で形を鋳る。怒りではなく、意志で。


 拳を握った。感覚は薄い。右手は半分以上が沈黙している。だが握れてはいた。骨と筋が動く実感は、まだ残っている。


 確信ではなかった。手探りの方角にすぎない。だがひとつの指針ができた。鉄を打つように、嵐を鋳る。養父の言葉が、この手の中で形を変えようとしていた。


 明日、この手で嵐を鋳る。


 ラスラフは拳を開き、閉じ、もう一度開いた。指先の感覚はない。だが掌の中に、微かに熱が灯った。痣が淡く光り、すぐに消えた。



 夜明け前だった。


 地面が震えた。


 微かな振動ではなかった。腰を下ろしていた岩が揺れ、焚き火の炎が不自然に傾いた。ラスラフは反射的に立ち上がった。


 ドモヴォイが跳ね起きた。小さな体が焚き火の傍から一瞬で谷の入口に走り、外を覗いた。


 地鳴り。凍った大地を、無数の足が踏んでいる。重く、低く、途切れなく。こちらに向かってくる。


 ラスラフは谷の入口に立った。暗い荒野。夜明け前の灰色の闇の中に、影が見えた。


 先頭に、一際大きな影が立っていた。


 下級眷属の群れの、はるか上に頭が突き出ている。人型に近い巨躯。氷の光を纏い、谷間の入口を見下ろしていた。暗闇の中に、蒼い光点が二つ。目だった。知性のある目が、こちらを見定めている。


 背後でズラータの息を吸う音がした。ドモヴォイの髭が、一本残らず逆立った。


 来た。


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