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雷神の忌み子 ~五感を代償に、少年は永遠の冬を終わらせる~  作者: 蒼月よる


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決戦前夜

 地鳴りは夜通し続いた。


 遠い。だが確実に近づいている。凍った大地の下を伝わる重い振動が、焚き火の炎を僅かに揺らした。ラスラフは眠れなかった。岩場に背を預け、右手の拳を膝の上に置いたまま、荒野の闇を見つめていた。


 翌朝、ドモヴォイの警告は確信に変わっていた。


「間違いない。昨日からずっと嫌な気配が増えておる」


 老精霊は丘陵の稜線を睨みつけていた。もじゃもじゃの髭が小刻みに震えている。危険察知の本能が、休まることなく警鐘を鳴らし続けているのだろう。


「下の連中とは動きが違う。群れで来よるが、でたらめに走ってくるんじゃない。じわりと回り込んでおる」


 ラスラフも気づいていた。これまでの下級眷属の襲撃は、正面から群れで突っ込んでくるものだった。知性がなく、本能のままに獲物に飛びかかる氷の獣。だが昨日の夕刻から感じる気配は違う。前方だけでなく、左右からも、少しずつ距離を詰めてきている。


 ズラータが膝をつき、手袋を外して凍った地面に触れた。目を閉じる。紡錘を握った左手が、微かに震えた。大地の記憶を読み取ろうとしている。


 しばらくして、目を開いた。


「三方から囲まれつつある」


 ズラータの声は平坦だったが、その平坦さが逆に事態の深刻さを伝えていた。


「東、南、西。残りの北側は断崖だ。退路を断つ動きをしている」


 知性のない群れには、できない動きだった。包囲戦。退路を塞ぎ、じわりと絞る。誰かが指揮している。


 ドモヴォイが声を落とした。


「こいつは……でかい」


 老精霊の目が、丘陵の向こうに据えられていた。小さな体の全身が緊張している。


「下の連中をまとめて動かしておる。指揮官がおるぞ」


 指揮官。ラスラフは言葉を反芻した。これまで戦ってきた下級眷属は、獣だった。牙と爪で襲いかかり、雷撃で砕ける氷の怪物。だがそれを統率する存在がいるなら──戦いの質そのものが変わる。



 白狼が現れたのは、日が西に傾き始めた薄暮の頃だった。


 丘陵の上に立つラスラフの前に、白銀の巨躯が音もなく姿を見せた。琥珀色の瞳が、ラスラフを見据える。あの瞳に、第30話の衝撃がまだ残っている──そう思ったのはラスラフの側だけだった。白狼の目は、いつも通り底の見えない深さを湛えていた。


「追われているな」


 短い確認だった。感情を挟まない声。ラスラフは頷いた。


「下級眷属の群れが三方から包囲を狭めている。統率している何かがいる」


「中位眷属だ」


 ヴェレスが名を告げた。白狼の口から漏れる人語が、薄暮の空気を裂いた。


「下級眷属をまとめる存在。マルジャンナの意志を直接受けて動く。知性がある。武器を使う。おまえがこれまで戦ったことのある相手とは、格が違う」


 声に感情はなかった。警告の重みがあるだけだった。事実を述べている。ただの事実を。


「逃げられるか」


「逃げても追い続ける」


 白狼の答えは即座だった。


「中位眷属は獲物を見失わない。追跡を得意とする。走れば追い、隠れれば嗅ぎ出す。逃走は距離を稼ぐだけで、包囲が解けることはない」


 逃げる選択肢が、消えた。事実上の二択。逃げ続けて消耗するか、戦うか。


 ラスラフは薄暮の荒野を見渡した。白い大地が、灰色の空の下に広がっている。どこまで逃げても同じ景色。同じ冬。同じ追手。


 胸の中で、何かが傾いた。


 第31話から引きずっていた停滞──死んだ神の残りかすという言葉に押しつぶされていた停滞が、形を変えた。止まっていることへの恐怖。あの村のように凍るのを待つのか、とズラータが言った。止まれば凍る。だが逃げ続けても凍る。なら──


「戦う」


 短い一語だった。


 英雄の決意ではなかった。消去法に近い判断だった。逃げても終わらないなら、向かうしかない。止まるよりは、進むほうがましだ。それだけだった。


 だが──初めてだった。


 これまでの眷属との戦闘は、すべて向こうから来た。遭遇し、襲われ、応戦した。自分から戦いを選んだことは一度もなかった。今、ラスラフは自分で選んだ。消極的であっても、消去法であっても。「自分で選んだ」という事実が、胸の底で小さく軋んだ。


 白狼に振り返った。ヴェレスの琥珀色の瞳が、ラスラフを見ていた。そこに何が浮かんでいるのか──感心か、計算か、あるいは別の何かか。ラスラフには読めなかった。


「ならば、備えろ」


 白狼が踵を返した。銀の毛並みが薄暮の白い光に浮かぶ。後ろ足が、荒野の先を指した。


 丘陵の向こうに、裂け目があった。谷間の隘路。両側を切り立った岩壁が挟み、荒野に暗い口を開けている。


「あそこで迎え撃て。狭い場所なら数の差は意味をなさん」


 白狼は闇に消えた。足跡のない雪の上に、声の残響だけが漂い、やがてそれも消えた。


 ラスラフは振り返った。ズラータが数歩後ろに立っていた。薄暮の光の中で、緑色の目がラスラフを見ていた。一瞬、目が見開かれた。だがすぐに閉じ、代わりに顎が小さく引かれた。頷き。言葉なしの同意だった。


 ドモヴォイが「やれやれ」と呟き、腰の革袋の紐を締め直した。小さな手が革袋を確かめ、中身を点検している。使い道のない家事道具のミニチュア。だが老精霊はそれを手放さない。


「覚悟は決まったようじゃな」


 ドモヴォイがラスラフを見上げた。皺の奥の小さな目に、諦めとも覚悟ともつかない光があった。


「わしは凍えるのは嫌じゃが、おまえさんがやると言うなら仕方あるまい」


 三人は丘陵を下り、谷間の隘路に向かった。明日、戦う。


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