指揮官の影
三日が過ぎた。
旅は続いていた。足は動いている。荒野の雪を踏み、丘を越え、凍った沢を渡る。だがラスラフの中で、何かが止まったままだった。
口数が減った。もともと多弁ではない。だがこの三日間、ラスラフが自分から口を開いたのは数えるほどだった。必要な言葉──「水が要る」「ここで休む」「先に行く」。それだけだ。
死んだ神の残りかす。
その言葉が、頭の底に沈んだまま動かなかった。考えようとするたびに浮かび上がり、考えまいとすると沈む。だが消えはしない。泥の中の石のように、いつもそこにあった。
嵐の力の修練を、やめていた。ヴェレスが去ってからは導き手がいない。だがそれだけが理由ではなかった。手を開き、力を意識するたびに、「死者の残滓」という言葉が指先にまとわりつく。この力を使えば使うほど、死んだ神の遺品を磨いているだけではないのか。その考えが、指先を鈍らせていた。
右手を揉んだ。手首まで広がった嵐の痣の周辺を、左手の指で押す。何も感じない。右手の側には何の感触もなかった。左手の指が皮膚を押しているという情報は目から入る。だが右手そのものは、まるで他人の腕を揉んでいるかのように沈黙していた。
食事を残すようになった。ドモヴォイが用意した乾肉と硬い麺麭を、半分だけ食べて置く。味がしないわけではない。腹が減らないわけでもない。ただ、食べるという行為に意味を見出す力が、どこかへ流れ出ていた。
焚き火の番を忘れた夜があった。ラスラフの番だったのに、火が落ちかけているのにドモヴォイが気づいて慌てて薪を足した。老精霊は何も言わなかったが、もじゃもじゃの髭が小さく震えていた。
四日目の朝だった。
「おまえさん」
ドモヴォイが、ラスラフの前に立った。膝丈ほどの小さな体が、行く手を塞いでいる。大きな鼻を上に向け、皺だらけの顔で見上げてくる。
「落ち込んでおる暇があるなら足を動かせ。わしは凍えるのは嫌じゃぞ」
厳しい声だった。いつもの小言とは違う。ぼやきの調子がない。
「おまえさんが止まれば、わしらも止まる。わしらが止まれば、凍る。凍えるのは嫌じゃ。だから歩け」
小さな手が、ラスラフの膝をぱんと叩いた。痛くはない。だが確かな実感があった。
「飯も食え。残すんじゃない。わしが手ずから用意した飯を残すとは何事じゃ」
ラスラフは老精霊を見下ろした。もじゃもじゃの髭。皺の奥の小さな目。怒っているようで、怒っていないようで、その奥にあるのは──心配だった。この老人なりの、不器用な心配だった。
「……ああ」
それだけ返した。言葉を返す力は、まだ戻っていなかった。
午後、旅路の途中で休憩を取った。凍った岩の上に腰を下ろし、水袋の水を口に含む。冷たい。喉が痛いほど冷たい。
ズラータが傍に来た。
彼女は立ったまま、ラスラフを見下ろしていた。いつもの事務的な表情。だが言葉を発したとき、そこに普段なら言わないはずの一語が混じっていた。
「力の修練を止めている理由を聞いている」
理由を聞いている。問いではなく、催促だった。ズラータの口調には、巫女として旅を前に進めなければならないという義務感がある。だがその奥に、もう一つ別の何かが覗いていた。いつもより声が僅かに強い。
「……意味がない」
ラスラフは右手を見た。蒼白い紋様。死者の刻印。
「死んだ神の残りかすで何ができる」
声に出すと、なおさら重かった。忌み子として十七年間背負ってきた自己否定が、ペルンの死という事実と重なっている。自分には価値がない。自分の力にも価値がない。二つの否定が合流して、出口が見えなかった。
ズラータの表情が変わった。
目の動きだった。僅かに見開かれた緑色の目が、ラスラフを射た。
「なら、何もせずに待つのか。あの村のように凍えながら」
声が早かった。ズラータの声がいつもより僅かに速い。言葉が、感情に押されている。断定的な口調が揺らぎ、問いと断言の間にある言い方になった。ズラータが感情で口調を変えることは、これまでなかった。
ラスラフは言葉を失った。
あの村。自分が生まれ育った村。ボジダルがいた村。石を投げた子どもたちがいた村。雪に埋もれ、凍え、それでも春を待ち続けていた村。
何もせずに待つのか。あの村のように凍えながら。
ズラータは一瞬だけ口を引き結び、すぐに元の無表情に戻った。だがラスラフは見た。声が早くなった瞬間、彼女の顎が僅かに震えていた。何かを堪えている顔だった。何を堪えているのかは、わからない。
沈黙が落ちた。風が吹き、雪の欠片が二人の間を過ぎた。
歩き出したのは、ラスラフの方が先だった。
立ち上がり、荷物を背負い直し、前方の白い荒野を見た。答えは出ていない。死んだ神の残りかすに意味があるのかどうか、まだわからない。
「わからない」
声に出した。ズラータに向けた言葉だったのか、自分に向けた言葉だったのか、自分でもわからなかった。
「だが、止まるわけにはいかない」
前向きな言葉ではなかった。停滞への恐怖だった。止まればドモヴォイの言うとおり凍る。ズラータの言うとおり、あの村と同じになる。それが怖い。英雄の決意ではない。ただ、止まっているよりは歩くほうがましだった。今のラスラフには、それが精一杯だった。
ズラータが何か言いかけた。唇が動きかけて、閉じた。飲み込んだ言葉の形が、口元に一瞬だけ残っていた。何を言おうとしたのかはわからなかった。
ドモヴォイが「やれやれ」と呟いた。だがその声には、いつもより少しだけ力が抜けていた。皺の奥の小さな目が、僅かに和らいでいた。安堵。ほんの少しだけの安堵だった。
三人は歩いた。雪を踏み、風に逆らい、白い荒野を前に進んだ。答えの出ない問いを抱えたまま、それでも足を止めなかった。
夕刻が近づいた頃だった。
ドモヴォイが足を止めた。
唐突だった。一歩前まで歩いていた老精霊が、ぴたりと動きを止めた。もじゃもじゃの髭が逆立っている。文字通り、根元から先端まで一本残らず逆立った。ラスラフはその変化を見た。ドモヴォイの髭が逆立つのは、怒りか、恐怖か、あるいは──
「何か来る」
老精霊の声が低い。ぼやきの調子が完全に消えている。
「眷属よりも大きい。群れをまとめておる。統率している側のやつだ」
ラスラフの手が、無意識に拳を握った。感覚のない右手が、それでも何かに備えるように力を込めた。
荒野の向こう、丘陵の稜線の向こう側から、かすかな地鳴りが聞こえた。凍った大地を、何かが踏んでいる。




