凍土に眠る村
谷間に降りたとき、氷の花が咲いていた。
山道が岩壁の間を縫い、急な斜面を下ったその先に、くぼんだ地形が開けていた。風が遮られ、灰色の空が切り取られたように頭上に覗いている。その谷底の岩の隙間に、透明な花弁が群れていた。
ラスラフは足を止めた。
花だった。氷でできた、花。薄い花弁が幾重にも重なり、中心から外に向かって開いている。陽の差さない灰色の光の中で、花弁の縁が僅かに白く輝いていた。光を透かすと内部に細い筋が走り、血管のようにも、葉脈のようにも見える。自然の結晶がこれほど精緻な形を取ることがあるのか。ラスラフは生まれてから一度も本物の花を見たことがない。永冬の世界に花は咲かない。だが図像としてなら知っていた。祖母が炉端で語った話の中に、花という言葉はあった。これがそれなのか、とは思わなかった。これは氷だ。だが氷が花の形を取っている。永冬の中で初めて目にする、何かに似た美しさだった。
谷間には音がなかった。風すら吹いていない。不自然な静けさだった。氷花の間を歩くと、足元の霜が軋む音が谷壁に反響し、それだけが世界のすべての音になった。
ドモヴォイが氷花のひとつを覗き込み、顔を曇らせた。
「冬には冬の美しさがある。だがこれは美しさじゃない」
しわがれた声が、谷間の静寂に低く沈んだ。
「世界が凍るときに出る悲鳴じゃ」
ラスラフは精霊の横顔を見た。皺の奥の小さな目に、懐かしさの色はない。代わりにあるのは、壊れたものを見つめる者の痛みだった。
「氷花はのう、永冬の力が凝る場所に生じる。自然の花ではない。世界の苦痛が形を取ったものじゃ」
美しいと思った自分が恥ずかしくなった。いや、恥ずかしさとも違う。ドモヴォイの言葉の後、氷花の輪郭が変わった。同じものを見ているのに、花弁の透明さが痛々しく映る。世界が凍えて、その痛みがこの形になった。それでも美しいのか。ラスラフにはわからなかった。
ズラータが一輪の氷花に手を伸ばした。指先が花弁に触れる直前で、止まった。引いた。ラスラフの位置からは、ズラータの手の動きしか見えない。巫女の感覚が何かを捉えたのか。ズラータは何も言わず、手を下ろし、前を向いた。
谷間を抜けた先の岩場で、ラスラフは力の修練を始めた。
ヴェレスが現れない日が続いている。白狼の断片的な指導に頼れない以上、自分で探るしかなかった。小さな放電から始める。右手の痣に意識を集中し、掌の先に蒼白い光を灯す。光を維持し、消す。灯し、消す。次に標的を絞る。十歩先の岩に雷撃を放つ。狙った場所だけを砕く。
一撃目。岩の左端が弾けた。狙いは中央だった。
二撃目。中央に命中。岩が二つに割れ、煙を上げる。
三撃目。再び中央。今度は岩の表面だけを削り取る制御を試みた。成功だった。岩は砕けず、表面に焦げた跡だけが残る。
ラスラフは息をついた。精度は上がっている。第一部の暴発から比べれば、雷撃を意志で絞り込めるようになった。だが三回中一回は逸れる。この不安定さが消えない。
「前よりずっといい」
ズラータの声だった。短く、感情の読めない口調。だが肯定の言葉だった。ラスラフは振り返り、岩に腰を下ろしたズラータの顔を見た。珍しいことを言う、と思った。表情は変わらない。だがこの巫女が他人の努力を認める言葉を口にしたのは、旅の中で初めてだった。
「……まだ逸れる」
「逸れなくなるまで繰り返せばいい」
それだけ言って、ズラータは視線を手元の紡錘に戻した。
修練の後、ラスラフは右手の感覚を確かめた。親指で手首の内側を摘む。昨日まではここに触覚があった。今は、曖昧だった。完全に消えたわけではない。だが圧力の輪郭がぼやけている。摘んでいるという視覚的な確認はできるのに、肌が伝える情報が薄い。水の中に手を入れたときのような、もどかしい隔たり。指先から始まった感覚喪失が、じわりと手首の方向に忍び寄っている。力を使うたびに進行する代償の法則を、ラスラフは自分の身体で学んでいた。
右手を握り、開いた。拳を作る動作に支障はない。筋肉は動く。力も入る。だが自分の掌の中に何があるのかを、触覚で確かめることができなくなりつつある。鍛冶槌の柄を握ったとき、木の質感がわかるだろうか。ラスラフは腰の鍛冶槌に左手で触れ、すぐに手を離した。今は確かめたくなかった。
夜。焚き火を囲んだ。
ドモヴォイの整えた火は安定していた。枝の組み方が違うだけで、同じ薪でもこれほど質の良い温もりが出る。家の精霊の技だった。焚き火の外側は凍りつくような山の冷気だったが、炎の届く範囲だけが別の空間のように温かい。
ドモヴォイが語り始めた。
「神々の時代、というものがある」
声のぼやきが消え、低く静かな調子に変わった。精霊の間で語り継がれた伝承。ドモヴォイ自身がその時代を生きた記憶ではなく、精霊から精霊へ渡された言葉の連なりだった。
「ペルンは天を守り、ヴェレスは地を守った。二柱は世界の均衡そのものじゃった。天と地が噛み合い、季節が巡り、命が循環する。その仕組みの軸に、二柱の神がおった」
焚き火の炎が揺れた。ドモヴォイの皺だらけの顔に、橙色の影が踊る。
「だが二柱は争い、そして──消えた」
声が落ちた。消えた、という言葉の後に沈黙がある。焚き火が爆ぜ、火の粉が闇に飛んだ。
ラスラフは問うた。
「なぜ消えた」
ドモヴォイの表情が、焚き火の明滅の中で曖昧に揺れた。もじゃもじゃの眉の下の目が、何かを量るように細くなる。
「精霊ごときにわかることではないわ。神々は精霊に理由を語らなんだ」
それ以上は言わなかった。知らないのか。知らないふりをしているのか。ラスラフにはわからなかった。ドモヴォイの小さな目は焚き火の炎を映したまま、何かを考えている顔をしていた。だがその奥にあるものは、火の揺らめきに隠されて読み取れない。
やがてドモヴォイが目を閉じ、丸くなった。小さな長衣に包まれた身体が、焚き火の傍で毛玉のように縮んでいく。寝息とも溜息ともつかない息が、静かに聞こえ始めた。
ズラータが低い声で言った。
「ドモヴォイの話と、白狼の話、どこか噛み合わない部分がある」
ラスラフは振り返った。焚き火の向こうでズラータが膝を抱えている。炎に照らされた横顔が、いつもより鋭かった。
「噛み合わないとは」
「まだわからない。だが白狼が語った断片と、精霊の伝承に、微妙なずれがある。同じ出来事を語っているはずなのに、何かが合わない」
具体的に何が、とは言わなかった。ズラータ自身もまだ掴みきれていないのかもしれない。だがその視線には、曖昧なものを許さない鋭さがあった。ヴェレスを最初から信用していなかった巫女の、静かな懐疑。
ラスラフはその意味を測りかねた。白狼の語った言葉と、ドモヴォイの伝承と、どこがずれているのか。自分にはまだ見えない。
「考えすぎじゃないのか」
「考えすぎるくらいでちょうどいい。あの白狼を相手にするなら」
ズラータの声は低く、断定的だった。焚き火の向こうの横顔が、炎の明滅のたびに鋭さを増す。ラスラフは言葉を飲み込んだ。この巫女が「信じない」と決めた相手について、自分が何を言っても変わらないだろう。だがズラータの警戒は、ラスラフの中にも小さな棘として残った。
焚き火の薪が崩れ、橙色の火の粉が舞い上がった。闇の向こうで山の風が唸り、凍りついた岩壁がきしむ音が遠く聞こえた。ズラータの言葉が、薪の爆ぜる音よりも長く、耳の奥に残った。




