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雷神の忌み子 ~五感を代償に、少年は永遠の冬を終わらせる~  作者: 蒼月よる


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モコシュの沈黙

 山を越えた先に、死んだ世界が広がっていた。


 盆地だった。山の稜線に囲まれた楕円形のくぼみが、灰色の空の下に口を開けている。その中央に集落がある。家屋の連なりが見え、柵があり、畑だったらしい区画がある。だが煙が昇っていない。声も、動くものもない。


 ラスラフは山道の最後の段を踏み、盆地の縁に立った。冷気が足元から這い上がってくる。山中の冷気とは質が違った。ここの空気は凍りついているのではなく、死んでいた。温度だけが奪われたのではなく、空気そのものから何かが失われている。匂いがなかった。風が運ぶはずの匂い──煙の、土の、獣の──がすべて欠けていた。


 近づいて、理由がわかった。


 集落ごと凍りついていた。


 家屋が氷の中に封じ込められている。壁も、屋根も、窓枠も。透き通った氷が建物を内側から覆い、外壁の板目が氷越しに透けて見えた。窓の向こうに家具が見える。椅子。机。壁に掛けられた何か。すべてが氷の中で止まっている。柵に繋がれたまま凍りついた家畜の影が、氷の塊の中にぼんやりと浮かんでいた。食卓の上に食器が並んでいる。碗に何かが入ったまま、氷に閉じ込められている。


 一瞬だったのだ、とラスラフは悟った。


 じわじわと凍ったのではない。生活のある瞬間が、そのまま凍結されている。朝食の途中だったのか。食器に食べかけの何かが凍りつき、碗を握る手の形が氷の中に残っている。煙突から逃げかけた煙が氷の中で灰色の筋になり、空に届くことなく止まっている。時間が止まった世界だった。


 ラスラフの故郷の村も永冬の中にあった。だがあれは「凍えながら生きていた」村だった。ボジダルの鍛冶場は煤と鉄の匂いに満ち、炉の火は毎日灯された。村人たちは寒さに震えながらも、市場を開き、子を育て、死者を弔った。生きていた。ここは違う。生きることを一瞬で止められた村だった。


 ドモヴォイが足を止めた。長い息を吐いた。白い息が凍りつく間もなく消えた。いつもの小言が出ない。もじゃもじゃの髭がだらりと垂れ、小さな身体が僅かに縮んでいた。ラスラフはこの精霊の沈黙が、どんな叫びよりも重いことを知り始めていた。



 ドモヴォイがゆっくりと集落の中を歩き始めた。


 各家の前で立ち止まる。壁に手を触れる。小さな掌が氷に覆われた板壁を撫でるように、ゆっくりと。触れるたびに、精霊の指先から微かな温もりが滲むのが、近くに立つラスラフにも感じられた。家の精霊の力。だがその温もりは氷に吸い込まれ、何も溶かさなかった。


「この家にもドモヴォイがいたはずじゃ」


 声が低かった。ぼやきの調子が完全に消えている。


「守れなかったのだろう」


 家の精霊にとって、家が滅ぶとはどういうことなのか。ラスラフは昨夜の焚き火でのドモヴォイの言葉を思い出した。「家がなければ守護精霊ではない」。この集落の家々にいたはずの精霊たちは、主人の家が一瞬で凍りついたとき、何を感じたのか。何もできなかったのだろう。氷に閉じ込められる家族を、ただ見ていたのだろう。そしてその後──守るべきものを失った精霊は、どうなったのか。消えたのか。それとも、ドモヴォイのように三百年を彷徨ったのか。


 ドモヴォイは次の家に進んだ。また壁に触れた。また温もりが滲み、また消えた。小さな精霊が凍りついた家を一軒ずつ弔うように巡っている。言葉は少ない。だが掌に込められたものが、ラスラフの胸を刺した。


 ズラータが一軒の家の前で足を止めた。氷の壁の中に、何かが埋まっている。麻紐に通された木の札。表面に刻まれた紋様。ズラータはしゃがみ込み、氷越しにその紋様を見つめた。


「モコシュ様の護符」


 ズラータの声は平坦だったが、指先が微かに震えていた。大地の紋様を刻んだ木札。住民が大地母神(モコシュ)を信仰していた証。護符は戸口に掛けてあったのだろう。氷の中で紐が真っ直ぐに伸び、札が壁に寄りかかるように止まっている。最後の瞬間まで、そこにあった。


「この人たちは、最後まで神に祈っていた」


 応えられなかった祈り。モコシュの護符が氷の中で三百年を過ごしている。その間、大地母神は衰弱し、世界の防壁に力を注ぎ、巫女への神託すら途絶えかけている。護符の祈りは届かなかった。届く先がなかった。


 ラスラフは別の家の前にいた。


 氷壁の中に、小さなものが見えた。木で彫った馬。子どもの掌に収まる大きさの、粗い彫りの玩具。四本の脚が不格好に広がり、たてがみは太い線で三本だけ刻まれている。握りかけた小さな手の形が、氷越しに透けている。


 ラスラフは言葉を失った。


 ボジダルの家にも、似たものがあった。養父が削ってくれた木の動物。形は不格好だったが、ラスラフの手に馴染むように丸く仕上げてあった。四つの脚を立てて棚に飾ったのを覚えている。この子にも、誰かがこれを彫ってやったのだ。父か。祖父か。不器用な手で刃物を握り、子どもが喜ぶ形を探りながら削ったのだ。この子はどんな顔をしていたのか。名前は何だったのか。朝食の最中だったのか。馬を握ったまま、何を話していたのか。


 もう誰にもわからない。三百年の氷が、すべてを封じている。名前も、顔も、最後に発した言葉も。氷は記録しない。保存はするが、記録はしない。形を留めても意味を留めない。この子が誰だったかを知る者は、もうこの世界のどこにもいない。


 ラスラフは氷壁から一歩退いた。左手の拳を握りしめていた。右手は感覚が曖昧で、拳を握っても力の加減がわからない。だが左手は震えるほどに強く握り込んでいた。


 怒りが湧いた。


 静かに、だが深く。胸の底から黒い水が滲み出るように。この世界がなぜこんなことになったのか。神が死んだから。なぜ死んだのか。誰も守れなかったのか。子どもが玩具を握ったまま凍るような世界を、誰が作った。


 痣が灼けた。


 右手の甲から蒼白い光が滲み、熱が腕を駆け上がる。足元の氷が音を立てた。ぱきり、と。罅が走り、溶けた水が靴の周囲に広がっていく。ラスラフの怒りに応えて、嵐の力が覚醒しかけていた。集落を覆う氷が、彼の周囲だけ後退し始めている。水の音だった。三百年の間、この集落では流れなかったはずの水の音。


「落ち着いて」


 ズラータの声だった。命令口調ではなかった。静かな、だが確かな声。怒りの炎に水を掛けるのではなく、炎の傍に立つ声だった。ラスラフはその声を聞いた。拳を握った。痣の熱を、握りしめた掌の中に押し込める。力が引いていく。足元の水たまりが、再び凍り始めた。


 溶けた一瞬、ラスラフは集落の端に何かを見た。


 色のない場所だった。雪の白でも氷の透明でもない。何かが「無い」空間。そこだけ世界が切り抜かれたような、あるいは世界がまだ描かれていないような。目が捉えたが、意識が捉えられない。見ているのに認識できないもの。一瞬で消えた。


 気のせいだ。ラスラフはそう結論づけた。怒りで力が暴走しかけた余波だろう。視界の端が歪んだだけだ。それ以上は考えなかった。考える余裕もなかった。拳を握った右手が、まだ微かに蒼い光を帯びている。痣の熱が完全に引くまで、しばらくかかった。


 ドモヴォイが集落の中心を歩いていたとき、声を上げた。低い、驚きを含んだ声。


「こっちへ来い。これは──古い言葉じゃ。ペルンの名が刻んである」


 集落の中心に、氷に半ば埋もれた石碑が立っていた。


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