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雷神の忌み子 ~五感を代償に、少年は永遠の冬を終わらせる~  作者: 蒼月よる


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氷の花

 この山道ものう、昔はもっと広かった──ドモヴォイの声が、凍りついた岩壁に跳ね返った。


 三人は古い交易路を登っていた。石段の跡は途切れがちで、凍土の隙間に一段、二段と姿を覗かせるだけだった。灰色の岩壁が両側に迫り、その上に氷柱が無数に垂れ下がっている。朝の薄い光が氷柱を透過し、道の上に鈍い影を落としていた。だがドモヴォイの足取りに迷いはない。小さな革靴が霜の張りついた岩を踏み、ぱたぱたと軽い音を立てている。


「商人がのう、馬を連れて登ったもんじゃ。荷を満載にしてな。馬の息が白くなるのは冬だけだった。春は息が見えなんだ。夏は汗の匂いがした。秋は落ち葉を踏む音がした」


 ラスラフは黙って歩いていた。ドモヴォイの語りは途切れない。昨夜合流したばかりの精霊は、歩くことと喋ることを同時にやめられないらしい。


「季節というもんはのう、巡るもんじゃった。冬が来ても、その先に春がある。冬は春を待つための季節だったんじゃ。こんなふうに、終わらないものではなかった」


 春。その言葉を聞いても、ラスラフの中に何の像も結ばなかった。生まれてから十七年、空はいつも灰色で、風はいつも冷たかった。季節が巡るということの意味を、頭では理解できる。だが身体が知らない。花の色を見たことがない。土の匂いを嗅いだことがない。


 だがドモヴォイの声には、言葉の意味とは別のものが宿っていた。温もりだ。失ったものを語る声に、そのものの残り香が滲んでいる。春がどんなものかは想像できない。だが大切なものだったのだということは、この老精霊の声の温度でわかった。


 ズラータが前を歩いている。三つ編みの金髪が背中で揺れ、時おりドモヴォイの語りに耳を傾けるように首が傾く。いつもの無表情だったが、目元の力の抜け方が昨日までと違っていた。強張った警戒の代わりに、静かに聴いている者の顔がある。ズラータもまた季節の巡りを体験として知らないはずだった。だがモコシュの巫女として、知識は持っている。知識と体験の隔たりを、ドモヴォイの語りが埋めているのかもしれない。


 ラスラフはそこまで考えて、自分が他人の表情を読もうとしていることに気づいた。忌み子として人の輪の外にいた年月が、観察の目を育てた。他人の表情を読むことは、石が飛んでくる前兆を察知することだった。だが今、ズラータの横顔を見ているのは、石を避けるためではなかった。


「おまえさん、足の運びが雑じゃ。岩を蹴るな」


 ドモヴォイの声が、思考を断ち切った。小さな精霊が足元から見上げている。もじゃもじゃの眉の下で、鋭い目がラスラフの足を睨んでいた。


「……言われなくてもわかっている」


「わかっておらんから言っておるんじゃ。靴の底が減るのが早いぞ、その歩き方では。足裏で地面を掴むように踏め。蹴るな」


 ラスラフは口を閉じた。反論する気力が削がれる小言だった。横でズラータの口元が一瞬だけ動いた気がしたが、振り向いたときにはいつも通りの顔に戻っていた。


 ドモヴォイが不意にラスラフの右腕を見上げた。小さな目が細まり、もじゃもじゃの眉毛が寄った。


「ペルンか。やれやれ」


 ラスラフの足が止まった。


「……なぜわかる」


「精霊は神の力の匂いがわかるんじゃ」


 ドモヴォイは何でもないことのように言った。大きな鼻をひくひくと動かし、ラスラフの右手の方に顎をしゃくる。


「おまえさんからは雷の焦げた匂いがする。鍛冶場の火花とは違う。もっと鋭い、空を裂く匂いじゃ」


 ズラータが振り返り、静かに頷いた。巫女の感知と精霊の感知が一致している。ラスラフは自分の右手を見下ろした。手の甲の嵐の痣。この痣が放つ匂いを、自分だけが嗅げていなかった。


「神の子だろうが何だろうが、飯は食え。飯を食わん人間は弱い」


 ドモヴォイの声に畏怖はなかった。ペルンの力を一目で看破しておきながら、この精霊が最初に口にしたのは食事の心配だった。世話焼きの本能が、神の血よりも優先されている。ラスラフは何と返していいかわからず、「……食った」とだけ答えた。


「足りておらんから顔色が悪いんじゃ」


 ドモヴォイがぼやきながら革袋から乾燥果実の欠片を取り出し、ラスラフの手に押しつけた。いつ拾ったのか、どこに隠していたのか。この精霊の革袋はいくつもあり、中から何が出てくるか予測がつかない。


 ラスラフは乾燥果実を口に含んだ。甘酸っぱい味が舌に広がり、干からびた果肉を噛むと微かな水分が染み出した。旅の携行食にはない味だった。ドモヴォイの革袋には三百年の記憶が詰まっている。この果実もどこかの集落の残滓なのかもしれない。


「お嬢、おまえさんもじゃ」


 ドモヴォイがズラータにも果実を差し出した。ズラータは一瞬だけ精霊を見下ろし、無言で受け取った。口に運ぶ所作がごく自然で、ラスラフはその滑らかさに少し驚いた。普段なら断るか、最低限の言葉で応じる巫女が、ドモヴォイの差し出すものは抵抗なく受け入れている。


 三人は再び歩き出した。ドモヴォイの小言、ズラータの短い応答、ラスラフの戸惑い。重い旅に、初めてのリズムが生まれていた。



 ドモヴォイが立ち止まった。


 それまで止むことのなかった小言が途切れ、もじゃもじゃの髭がぶわりと逆立った。怒りではない。ラスラフは昨夜のうちにこの精霊の感情表現を学んでいた。逆立つ髭は、怒りのときは鋭く、恐怖のときは太く広がる。今の髭は後者だった。


「嫌な気配がする」


 声の質が変わっていた。ぼやきの音色が消え、低く鋭い。


「三つ──いや、もう来ておる」


 ラスラフが右手を構えた。痣が即座に反応し、微かな熱が手の甲を走る。ズラータが半歩下がり、紡錘を握った。


 岩陰から、氷の獣が飛び出した。


 下位眷属が三体。半透明の身体が灰色の岩を蹴り、関節が硝子のような音を鳴らして突進してくる。青白い光が内部で脈打ち、爪の先から冷気の靄が噴き出していた。


 ラスラフは左手で足場を踏みしめ、右手を突き出した。痣が灼けるように光り、掌から蒼白い稲光が伸びた。先頭の眷属の胴を貫き、内側から氷が弾ける。続く一体に向けて腕を振り、放電の残滓が弧を描いて氷の首を断った。二体が同時に砕け、破片が山道に散らばった。


 残りの一体がズラータに向かって跳んだ。ズラータの紡錘が回転し、足元の地面が隆起して眷属の軌道を逸らした。氷の獣が岩壁に激突し、体勢を崩す。その隙をラスラフは逃さなかった。右腕を振り上げ、雷撃を叩き込む。三体目が内側から砕け、水と氷の欠片が宙に散った。


 静寂が戻った。


 痣の熱が引いていく。右腕に痺れが残り、ラスラフは無意識に腕を振った。指先の感覚は相変わらず戻らないが、手首から先が僅かに重い。力を使った後の、鈍い疲労だった。


 ドモヴォイは戦わなかった。だが戦闘が終わった後、小さな精霊は岩陰のひとつひとつに目を走らせ、鼻をひくひくと動かした。


「もうおらん。この近くには、な」


 索敵の確認だった。ラスラフとズラータの連携は旅の中で培ったものだったが、ドモヴォイの事前察知がなければ不意打ちを食らっていた。三体を退けるのに要した時間は短い。だがドモヴォイの警告がなければ、最初の一体が背後から襲っていた。攻撃、防御、索敵。三つの機能が、初めて噛み合った。


 砕けた眷属の破片が山道に散らばっていた。半透明の氷の欠片が、灰色の光の中で鈍く光っている。溶けない。気温が低すぎるのか、それとも永冬の力で形成された氷は通常の融点を持たないのか。ラスラフは欠片のひとつを左手で拾い上げた。冷たい。だが鉄のような冷たさだった。自然の氷とは手触りが違う。内部に閉じ込められていた青白い光は消え、ただの透明な塊になっている。


 ドモヴォイが空を見上げた。もじゃもじゃの眉の下の小さな目が、鋭くなる。


「この眷属ども、前より統率が取れとる。上の命令で動いておるな」


 昨日、山腹で見た一列行軍の眷属。今日の三体も、散発的な遭遇ではなく、何者かの意志で配置された番兵のようだった。背後にいる存在の影が、山の冷気とともに濃さを増していた。


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