精霊の記憶
社の入口は、大人が膝をつかなければ通れないほど低かった。
ラスラフは腰を屈め、中を覗いた。暗い。だが奥に光がある。橙色の小さな炎が、石壁の窪みの中で揺れていた。灯芯もなく、油もなく、ただ石の上で炎が燃えている。自然の火ではなかった。
温もりがあった。社の外は凍りついた山の冷気だったが、入口を境にして空気の質が変わっている。肌を刺す鋭さが消え、代わりにどこか懐かしい温もりが漂っている。煤と古い木の匂い。鍛冶場の──いや、それよりも柔らかい。炉端の、家の匂いだった。ラスラフの鼻腔の奥で、遠い記憶が揺れた。ボジダルの家。居間の炉。あの煤けた壁の匂いと、どこか似ている。
ズラータが低い声で言った。
「人間ではない。この気配は──」
言い終わる前に、闇の中から声が飛んだ。
「なんじゃ、おまえさんは」
しわがれた声だった。怒りというよりも、不意を突かれた驚きと不満が混じっている。社の奥の壁際に、何かがいた。
膝丈ほどの、老人だった。
深い皺の刻まれた顔。大きな鼻。もじゃもじゃの灰色の眉毛の下に、小さいが妙に鋭い目が光っている。顎から胸までを覆う灰色の長い髭が、社の石床に届くほどに垂れ下がっていた。褪せた赤い長衣に、革の小袋がいくつも腰にぶら下がり、動くたびにかちゃかちゃと音を立てている。
老人が、髭を逆立てた。文字通り逆立てた。髭の先端がぶわりと広がり、怒った猫の尻尾のようになる。人間の髭は感情で逆立たない。
「わしの社に勝手に入りおって。まったく近頃の若いもんは礼儀というものを知らんのか」
「家の守護精霊」
ズラータが即座に言い切った。その声に確信があった。
「ドモヴォイだ。家に棲みつく精霊。炉端を守り、家族の世話を焼く」
老人の髭が、ぴたりと止まった。小さな目がズラータを見た。
「ほう。お嬢は精霊がわかるようじゃな」
声色が変わった。棘が一つ抜けている。だがラスラフに向けた目には、まだ値踏みするような光があった。
「して、そっちの背の高いのは何じゃ。痣持ちか。ふん、ろくなもんではなさそうじゃな」
ラスラフは何も返さなかった。精霊というものを目の当たりにするのは初めてだった。祖母の昔話に出てきた家の守護精霊。まさかそれが実在するとは思っていなかった。社の中の不自然な温もりは、この精霊が発しているのだ。
「わしの名はドモヴォイじゃ」
精霊は社の壁に背を預け、小さな膝を抱えた。ラスラフとズラータは社の入口に腰を下ろしている。石の冷たさが腰に染みたが、社の中から流れる温もりが背中を撫でていた。
「わしの家はのう──」
ドモヴォイの声が、少し低くなった。ぼやくような口調は変わらない。だが言葉の端に、別の色が滲んでいた。
「立派な家じゃった。煤で真っ黒だったがな。壁も天井も、何十年分の煤で覆われておった。煤は家の歴史じゃ。炉を焚くたびに、一日分の歴史が壁に積もる。わしはそれが自慢じゃった」
髭が垂れた。社の炎に照らされた皺の深い顔に、影が落ちていた。
「主人一家がおった。父と母と、子が三人。父は腕のいい職人じゃった。毎日、朝から晩まで仕事をしておった。母は歌が好きでのう。子どもたちに歌を聴かせておった。わしは炉端に座って、それを聞いておった。炉の火を絶やさず、家族を見守る。それだけが、わしのすべてじゃった」
永冬が来た、とドモヴォイは言った。声が乾いた。
「ある冬の朝、温かさが消えた。世界の側が冷えたのじゃ。わしがどれだけ火を焚いても、壁の向こうの冷気が勝った。子どもが風邪を引き、母が倒れ、父が──」
声が途切れた。煤の匂いが濃くなった気がした。失われた家の記憶が、精霊の悲しみに呼応するように、匂いとなって滲み出ている。
「主人一家は凍えた。家は氷に砕かれた。煤で真っ黒だった壁は、白い霜に覆われて、割れた」
ドモヴォイの声が、ぼやきの調子を完全に失った。
「家がなければ守護精霊ではない。わしはもう何者でもない」
ラスラフの胸の内で、何かが軋んだ。
何者でもない。その言葉が、自分の中にある傷と同じ形をしていた。忌み子として村にいながら、誰にも必要とされなかった十七年間。居場所がないという感覚。自分なんかいないほうがいい、という声が、いつも頭の隅にある。ドモヴォイの「何者でもない」は、ラスラフのそれと鏡のように重なった。
だが言葉にはできなかった。ラスラフは黙って聞いていた。ズラータがラスラフの表情に気づいたのを、視界の端で感じた。だがズラータも何も言わなかった。三人の間を、社の炎の爆ぜる音だけが埋めた。
社の外に出て、焚き火を起こした。ラスラフが枝を組み、火口を打って火を点けた。
「火の焚き方がなっとらん」
背後から声がした。ドモヴォイが社の入口に立ち、焚き火を睨みつけている。
「枝の組み方が雑じゃ。空気の通り道がない」
小さな手で枝を組み直す。手際が異様に良かった。枝の太さを選り分け、細いものを芯に、太いものを外側に、風の通る隙間を計算して積み上げていく。火の勢いが変わった。同じ量の薪なのに、炎の質が違う。鋭い炎ではなく、じわりと広がる温もりのある火。家の炉端の火に似ていた。
焚き火の傍に座ると、ドモヴォイがいるだけで気温が僅かに上がっていることに気づいた。家の守護精霊の力。この小さな老人から、家の温もりの残滓が滲み出ている。
「おまえさんたち、飯は食ったのか。まったく、こんな山の中を空きっ腹で歩きおって」
小言が止まらなかった。革袋から乾いた草の束を取り出し、湯を沸かして茶を入れる。苦いが温かい、素朴な匂いが立ち上った。ズラータの口元が、微かに緩んだ。唇の端が、髪の毛一本分だけ上がったような。ラスラフがこの旅で初めて見る、ズラータの表情の崩れだった。
ドモヴォイの整えた焚き火に照らされて、ラスラフはかすかに何かを思い出していた。ボジダルの家の温もり。煤けた壁。炉端の熱。あの家にも、こういう精霊がいたのだろうか。煤の匂いが鼻をくすぐり、記憶の底を揺らした。
結局、ドモヴォイは朝になっても離れなかった。
夜の間、焚き火の番をしたのはドモヴォイだった。おかげで二人は久しぶりに深く眠れた。
「おまえさんたちが危なっかしいからじゃ」
朝。ドモヴォイはラスラフの荷物の紐を確かめ、水袋の口を締め直し、乾肉の包みを鼻で嗅いで「古くなりかけとるのう」とぼやいている。
「ついていくわけではない。わしはただ、こんな不器用な若いもんを放っておけんだけじゃ。勘違いするでないぞ」
髭がくるくると巻いている。怒っているときは逆立ち、嬉しいときは巻く。この精霊の感情は、髭に出る。
「好きにしろ」
ラスラフは短く言い、歩き出した。ズラータが続き、半歩遅れてドモヴォイの小さな足音が加わった。ぱたぱたと、石段を駆ける軽い音。二人分だった足音が、三人分になった。
山道の途中で、ドモヴォイが足を止めた。山の向こうを見ている。皺だらけの顔に、懐かしさとも寂しさともつかない表情が浮かんだ。髭がゆっくりと揺れている。
「この山の向こうにな」
しわがれた声が、いつもより静かだった。
「昔は大きな村があった。今は……まだ残っているかはわからんが」
小さな精霊の横顔に、三百年分の記憶が影を落としている。永冬ではない世界を、この老人は覚えている。
三人は再び歩き出した。石段の先は霧に隠れて見えない。だが道がある。三百年前の誰かが刻んだ道と、三百年を生きた精霊の記憶が、行く先を知っている。
三人分の足音が、凍りついた山に反響した。




