家を失くした守護者
山が、牙を剥いていた。
荒野から山地に入った瞬間、世界が一変した。凍りついた岩場が切り立ち、灰白色の霧が視界を食っている。十歩先が見えない。風が渦を巻き、方角がわからなくなる。岩壁に反射した風が背後から叩きつけ、外套の裾が巻き上がった。荒野の風は一方向に吹いていた。山の風は四方から来る。行く手を塞ぎ、背中を押し、頬を切る。
ラスラフは右手の掌を前に向け、薄く風を放った。霧を押し広げ、進路を探る。力の行使は小さい。だが痣が微かに疼いた。右手の甲の紋様が熱を帯び、すぐに冷める。この程度の出力でも代償は反応する。一呼吸ごとに失われていくもののことを、意識の隅で数えた。指先の感覚は戻らない。昨夜の睡眠の後も、今朝の目覚めの後も。失ったものは失ったままだった。
霧が薄まり、前方に岩壁が見えた。灰色の岩肌に氷が結晶化し、青みがかった透明な柱が無数に垂れ下がっている。氷柱の一本一本が、内側に灰色の空を閉じ込めたように鈍く光っている。美しい、と思う余裕はなかった。氷柱の重みで岩そのものが脆くなっている。踏み出すたびに足場が崩れかけ、小石が斜面を転がり落ちていく。乾いた音が、霧に吸われて消えた。
「こちらだ」
ズラータが先行し、足場を確かめている。岩の隙間に足を入れ、安定する場所を探り、振り返ってラスラフに示す。巫女の野外生存技術が、ここで頼りになった。ズラータは山を知っている。大地の記憶を通じて岩の成り立ちを読み、崩れやすい箇所を避ける。ラスラフは彼女の足跡を辿った。左手で岩の突起を掴み、体を引き上げる。右手は補助に使うが、掴む力の加減がわからない。指が滑り、爪が岩肌を引っ掻く音がした。感覚の残っている左手に頼る場面が、日を追うごとに増えていた。
高度が上がるにつれ、空気が薄くなった。呼吸が浅くなり、胸の奥が圧迫される。肺に入る空気が冷たすぎて、気管が灼けるような刺激がある。寒さも質が違う。荒野の寒さは体を包むものだった。山の寒さは刃物だった。風が肌を削り、吸い込む空気が内側から凍てつかせる。外套の裾に霜が張りつき、歩くたびにぱりぱりと音を立てた。鼻腔の奥が乾き、吸い込むたびに鉄を嗅いだような鋭い痛みが走った。
痣が疼いている。先ほどの風の操作とは関係のない、別の疼きだった。山の奥から何かが呼んでいるような、引き寄せられるような感覚。昨日見た稜線の雷光が脳裏を過る。あの光と、自分の痣が呼応した。山の向こうに何かがある。だがそれが何なのか、言葉にならない。体の奥で痣が共鳴しているのに、意識がそれを捉えられない。ズラータに伝えられないまま、ラスラフは黙って岩場を登り続けた。
岩陰で休息を取ったのは、山腹の中腹に達した頃だった。
大きな岩の張り出しが庇のように突き出し、その下に二人分の空間がある。風を遮れるだけでも十分だった。ラスラフは背を岩壁に預け、水袋の水を一口含んだ。凍りかけの水が喉を刺す。甘みも苦みもない、ただ冷たいだけの液体が、乾いた喉を湿らせた。
ズラータが不意に身を低くした。
「動くな」
囁き声だった。ラスラフは反射的に体を岩陰に引き、視線をズラータの指さす方へ向けた。
山腹の斜面を、冬の眷属が移動していた。
三体。いや、四体。氷でできた獣型の身体が、灰色の岩肌の上を滑るように進んでいる。下位眷属だった。半透明の氷の四肢が岩を掴み、関節が動くたびに硝子のような音が鳴る。内部から発する青白い光が、霧の中でぼんやりと滲んでいた。
だが、動き方が違った。
これまで遭遇した眷属は、散発的だった。群れといっても統率はなく、獣の本能で動いている印象だった。目の前の四体は違う。一列で移動している。先頭の一体が進路を定め、後続がその経路を正確に辿る。それぞれの個体が異なる方向に首を向け、索敵範囲を分担しているかのようだった。獣の群れではなく、斥候の一隊。
「統率されている」
ズラータが低い声で言った。
「誰かの命令で動いている。あれは獣の動きではない」
眷属を束ねる意志がある。名前は出さなかった。だが冬の女神の影が、言葉の裏に浮かんだ。永冬の中で力を増している女神。白狼の断片的な語りの中で聞いたきりの名前が、今は現実の脅威として迫っていた。
眷属の一列が山腹を横切り、稜線の向こうに消えていった。不気味な静けさだった。四体もの氷の獣が移動しているのに、足音がほとんどない。氷が岩の上を擦る微かな音だけが残り、それも霧に呑まれて消えた。
「迂回する」
ズラータが岩陰から身を起こし、眷属の移動方向を確かめた。
「力を使えば代償が進む。今は避けられるなら避ける」
ラスラフは異を唱えなかった。四体の下位眷属なら戦えるかもしれない。だが戦う理由がない。目的は山を越えることだ。二人は岩場の反対側を迂回した。
迂回路を進むうちに、自然の地形ではないものに出くわした。
石段だった。
凍りついた岩壁の側面に、人の手で削り出された段差が連なっている。一段の高さは膝の半分ほど。幅は一人がやっと通れる程度。苔が氷の下で緑を保ったまま死んでいた。三百年前の色を、氷が封じ込めている。鮮やかな緑が、白と灰色の世界の中で異質なほど濃かった。生きている色だった。かつてこの色が、山の斜面を覆っていたのだ。
ラスラフは立ち止まった。左手を伸ばし、石段の表面に触れた。右手ではない。感覚の残っている左手で、石の加工痕を確かめる。指先に、鑿の跡が伝わった。規則正しい打痕。ひとつひとつの凹みに、誰かの腕の振りが刻まれている。鍛冶屋の息子には、その打痕の律動がわかった。一定の間隔。一定の深さ。道具を振り慣れた者の仕事だった。
「交易路の跡だ」
ズラータが石段の刻みを読んでいた。紡錘を石に当て、大地の記憶を辿る。
「永冬の前、山の両側の村を結んでいた道。商人が荷を背負い、この階段を上り下りしていた。三百年前のことだ」
三百年前。ラスラフの知っている世界は永冬だけだ。春という季節を知らない。花が咲くということを、言葉としてしか知らない。だがこの石段は、永冬ではない世界があったことを証明している。誰かが汗をかき、鑿を握り、山に道を刻んだ。その人はもういない。その人の子も、孫も。だが石段は残った。三百年の氷に耐え、ここに残った。
「道があるなら辿れる。登ろう」
ズラータが先に石段に足をかけた。ラスラフもそれに続いた。
山道は螺旋を描くように岩壁を登っていた。断続的に途切れる石段を拾いながら、二人は高度を上げていった。
やがて、岩壁の中腹に、小さな石造りの建物が見えた。
社だった。岩肌にへばりつくように建てられた、人の背丈ほどの石の小屋。屋根は半ば崩れ、氷に覆われている。入口は低く、かがまなければ入れない。
廃墟だと思った。永冬の前に建てられ、永冬に呑まれた祠。壁面に刻まれた紋様は風化して読み取れないが、祈りの場所だったことは形が語っている。
だが社の奥から、微かな光が漏れていた。橙色の、揺らめく光。焚き火か、灯火か。凍りついた山中で、誰かが火を灯している。
ラスラフは足を止めた。ズラータと目が合った。彼女の手が紡錘に触れている。警戒の仕草だった。
社の中から、煤の匂いが漂ってきた。煤と、古い木の匂い。凍えた山の冷気の中で、その匂いだけが不自然に温かかった。
誰かが、住んでいる。




