表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
雷神の忌み子 ~五感を代償に、少年は永遠の冬を終わらせる~  作者: 蒼月よる


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

20/138

山越えの道

 翌朝、ズラータは平静を装っていた。


 荷物を整え、水袋の口を確かめ、残りの乾肉を均等に分ける。いつもの手順を、いつもの速さでこなしている。だがラスラフは見ていた。手が僅かに震えていることを。紡錘を握る力が、普段よりも強いことを。腰の革紐に通された紡錘に、何度も無意識に触れていることを。確かめるように。まだそこにあるか、と問うように。


 朝の冷気が頬を刺した。灰色の空は低く、雲の層が重なり合って地上を押さえつけている。風は弱いが湿り気を含み、外套の繊維に染み込んで肌を冷やす。吐く息が白く凍り、すぐに空気に溶ける。足元の雪は夜の間にさらに硬く締まり、踏むたびに甲高い音を立てた。


「昨夜のことだが」


 ラスラフが切り出した。言葉は選んだつもりだった。だがどう続けていいかわからなかった。モコシュの声が途絶えたこと。ズラータの顔から血の気が引いたこと。あの瞬間の彼女の目。焦点を失い、聞こうとして何も聞こえない者の目。それを見た自分が感じたもの。どの言葉も、喉の手前で渋滞して出ていかなかった。


「大丈夫。……大丈夫だ」


 二度、繰り返した。一度目はラスラフに向けて。二度目は自分に言い聞かせるように、声が少し低くなった。


 ラスラフは言葉に詰まった。ズラータが「大丈夫」などという曖昧な言葉を二度繰り返すのは初めてだった。いつも断定するか、そもそもそういう言葉を使わない。それが今、鎧の隙間から滲み出るように口調が崩れている。昨夜の一瞬の途絶が、どれほどの衝撃だったか。言葉の揺れが、それを物語っていた。


 的確な慰めの言葉を、ラスラフは持っていなかった。何を言えばいい。「大丈夫だ」と返すのか。何が大丈夫なのか、自分にもわからないのに。自分は鍛冶屋の息子で、言葉で人を救った経験がない。鉄なら打てる。だが傷ついた人間に対して、何を打てばいいのかわからない。


 だが一つだけ、わかったことがあった。


 ズラータが、自分と同じものを恐れている。力を失う恐怖。ラスラフは指先の感覚を失い、ズラータはモコシュの声を失いかけている。形は違う。代償と減衰。原因も過程も違う。だが「自分を自分たらしめているものが消えていく」という恐怖は、同じだった。指先が死んでいく感覚と、神の声が遠ざかる感覚。どちらも自分の足元が崩れていくような、底のない不安だ。


 ラスラフは何も言わず、ズラータの荷物に手を伸ばした。背負い袋の紐を掴み、自分の荷と一緒に肩に担ぐ。ズラータが口を開きかけたが、ラスラフは先に歩き出した。


 荷の重さが肩に食い込んだ。二人分の荷は重い。だが重さを通じて、ズラータの荷物の中身を感じた。紡錘の硬い角が背中越しに当たる。薬草の包みの柔らかさ、乾いた布の軽さ。彼女の旅のすべてが、この重さに詰まっている。肩紐が食い込む痛みは、感覚のある左肩で受けた。痛みがあることが、ありがたかった。


 それだけが、今の自分にできることだった。言葉の代わりに、荷を持つ。かつてズラータが黙って水袋の紐を結び直してくれたように。言葉にしない助け合いが、二人の間の唯一の言語になりつつあった。



 高台に差しかかったのは、昼を過ぎた頃だった。


 荒野が尽き、前方に山脈の稜線が見えている。灰色の空を背に、黒い輪郭が横たわっていた。雪を被った峰々が連なり、最も高い山頂は雲に隠れている。岩肌の灰色が雪の白と縞模様を描き、稜線は鋸の歯のように鋭く天を噛んでいる。あの山を越えなければならない。その事実が、胸を重くした。


 白狼が、いた。


 高台の端、岩の上に座して前方の山脈を見据えている。白銀の毛並みが灰色の風景の中で際立ち、琥珀色の瞳が山を射ている。ラスラフとズラータが近づいても、振り返らなかった。霜を纏ったような毛並みが風に靡き、巨躯が岩と一体化しているかのように静かだった。


「あの山を越えた先に、おまえが行くべき場所がある」


 白狼の声は低く、淡々としていた。山脈を見据えたまま、ラスラフの方を見ない。これまでの導きは断片的だった。漠然とした方角だけが示され、目的地は明かされなかった。それが今、初めて具体的な地点として示された。


「何がある」


「行けばわかる」


 いつもの返答だった。だが声の質が違った。余裕がなかった。皮肉も、回りくどい比喩もない。ただ短い言葉を、必要最小限の息で発している。


「急げ」


 一語が、岩壁に跳ねて消えた。


 ラスラフとズラータは顔を見合わせた。「急げ」という言葉を、白狼の口から聞いたのは初めてだった。この老獪な狼は、常に余裕を持って語る。教え諭すように、あるいは試すように。焦りとは無縁の存在だと思っていた。その声から余裕が消えている。何が迫っているのか。何が白狼に焦りを抱かせているのか。


 白狼がズラータを見た。


 琥珀の瞳が、ズラータの全身を一瞥した。ズラータの身体が僅かに硬くなったのを、ラスラフは隣で感じた。白狼の目には、何かを知っている者の色があった。昨夜のこと──モコシュの声の途絶を。この狼は知っている。どうやって知ったのかは問わない。蛇神の知恵は人の理解を超えている。


 だが白狼は何も言わなかった。視線を外し、岩から降りた。巨躯が音もなく動き、霜の上を滑るように数歩進む。白銀の毛並みが霧に紛れ、輪郭が薄れていく。足跡は、やはり残らなかった。



 二人は山脈の方角へ歩き出した。


 高台を降りると、地形が変わり始めた。荒野の雪原が途切れ、岩肌の灰色が露出している。凍った土が割れ、その隙間から氷柱が下向きに垂れている。平坦な白から、起伏のある灰色と黒へ。世界の表情が変わった。足元の感触も変わる。雪を踏む柔らかさが消え、凍った岩の硬い拒絶が革靴の底を叩く。


 ラスラフは歩きながら、この旅を振り返っていた。


 代償と日々向き合い、ヴェレスに力の使い方を学んだ。冬の眷属と戦い、凍った旅人の死体を見た。吹雪を越え、凍った川を渡り、集落を遠くから見た。


 そしてズラータ。


 巫女としての使命で自分に付き添い始めた女。口数が少なく、感情を排した報告口調で必要なことだけを伝える。冷たいのではない。距離の取り方がわからないのだ。自分と同じように。だが今は、言葉なしで荷物を手伝い、言葉なしで進路を選ぶ。互いの弱さを垣間見たからこそ、隣に立てる。


 ラスラフは感覚のない指で拳を握った。圧力はある。だが指先の温度がない。拳の形を、視覚で確かめる。手首から上には力が通っている。握りしめた拳の硬さが前腕の筋に伝わり、自分がまだ自分の体を持っていることを教えてくれる。


 山脈が近づいていた。黒い稜線が高く迫っている。白い雪と灰色の岩と、雲に隠れた山頂の黒。三色の重なりが、新しい旅路の始まりを告げていた。


 失ったものはある。だが得たものもある。前に進む理由が、旅の始まりより少しだけ明確になっている。


 その時だった。


 山脈の稜線に、光が走った。


 一瞬の閃光。白く、鋭く、空を裂くように。雷光だった。永冬の世界に雷など起きるはずがない。嵐は三百年前に死んだ神と共に消えたはずだった。音は遅れて届いた。低い、腹の底に響くような遠雷が、山脈の反対側で鳴っている。


 ラスラフの痣が、その光に呼応するように熱を帯びた。右手の甲の紋様が脈打ち、一瞬だけ蒼白く発光した。指先まで──感覚のないはずの指先まで、何かが走り抜けた。


 山の向こうに、何かがある。ペルンの力に連なる何かが。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ